第九話
§
急遽、わたしはヘルマンさんと外出することになりました。
今日は雪こそ降っていませんが空は曇り、空気は乾いて冷え切っています。
ヘルマンさんから外出を告げられた幸子さんが慌てて服を用意してくれました。
外商さんが来たときに購入した毛織のワンピースとコート。
それから、編み上げのブーツ。
押し切られるように化粧までされてしまいました。
「ヘルマンさま。奥さまを外へお連れするのはいいですが、くれぐれも風邪を引かせないでくださいよ」
「ワタシを誰だと思ってるんだい。医者だよ?」
そうですね、と幸子さんはヘルマンさんの軽口を流して、新たに何かを取り出しました。
「奥さま。心配なので、これも首に巻いてください」
「は、はい」
わたしは幸子さんに言われるがまま、襟巻をつけます。絹なのでしょうか、肌触りもよく、首回りが温かくなります。
「ユヅキは何て?」
「たまには外で息抜きもいいだろう。気をつけていってらっしゃい、だそうです。もう。ご自分で誘えばいいものを」
「ははは。できたら苦労しないだろう」
既に桜花院家の門前には馬車が停まっていました。
こうして、わたしはこの家に来て初めて、外に出ることになったのです。
§
ヘルマンさんと共に馬車で向かった場所は、見たこともない立派な洋風建築でした。
左右対称の意匠は印象的な柱や壁で構成されています。
正面玄関の目の前には同じく立派な池。
「美しい建物だろう。ここは帝都ホテル。せっかくだから、甘い物を堪能しながら話さないかい」
「あの……」
おじけづくわたしをよそに、ヘルマンさんは中へと入って行きます。
入ってすぐは吹き抜けの空間が広がっています。
床には見事な赤絨毯。外観と同じように、見慣れない柱や彫刻が至るところに施されていました。
嗅いだことのない上品な香りが漂っていて、わたしは顔がこわばってしまいます。
「お帰りなさいませ、リヒターさま」
従業員らしき男性が近づいてきました。
ヘルマンさんの外套を、手慣れた仕草で受け取ります。
「二階のカフェーへ案内してくれるかい? この可愛いお嬢さんと、ちょっと大事な話があってね」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
何が何だか、さっぱり分かりません。
わたしたちは、吹き抜けから玄関を見下ろせる喫茶コーナーへと案内されました。
ふかふかながらどっしりとした長椅子は、気を抜くと体が沈み込みそうで、わたしは前の方に腰かけます。
「コーヒーは飲める?」
「コーヒー? 飲み物、ですか。飲んだことも見たこともありません」
「では、何事も経験ということで。コーヒーとハットケーキをふたつ」
給仕係の方へ注文を済ませると、ヘルマンさんは言いました。
「ここは帝都ホテル。国の議事堂が火事で燃えてしまったとき、仮の議会としても使われていたんだ。ワタシはここに滞在している。しかし、君をここへ連れてきたのは他に理由がある。何故だと思う?」
さっぱり分かりません。わたしは、首を横に振りました。
「ユヅキは本来であれば、政治家となっていたはずなんだよ」
「……!」
まるで、点と点が繋がるかのようでした。
ヘルマンさんは旦那さまのことを教えてくれようとしているのです。
わたしは居住まいを正しました。
「ユヅキとタダシは、この国の未来を担う人間だと期待され、我が国へとやってきた。ふたりは意見の対立こそあれ、母国の将来を真剣に語り合う仲だった。ワタシも彼らに感化されて、放蕩生活をやめる決意をした」
飲み物と茶色い菓子が運ばれてきました。
香りと共に立ち昇る白い湯気がわたしたちを遮ります。
「大陸には、神からの祝福と呪いが存在する。どちらも人間にはどうすることもできない『運命』だ」
「……『宝石病』、という病をわたしはこれまで知りませんでした。大陸固有のものだったんですね……」
「Ja.最も美しい呪い、それがEdelsteinkrankheit」
ヘルマンさんがロザリオを取り出して握りしめ、額に当てます。
「ユヅキは呪いを受けた。神から授けられた運命を、人間は覆すことなどできない」
すぐにヘルマンさんはロザリオを懐へしまいました。
コーヒーに口をつけます。眉毛が、下がっています。
「ワタシだってユヅキの夢は叶えてやりたい。しかし、無理なんだ」
「無理だなんて。本当に、どうにもなりませんか」
「どうにもならない。しかし諦めさせるのが目的なら、ワタシはここへ君を連れてこない。ひとつ、やちよサンに提案がある」
いよいよ本題に入るのでしょう。わたしは両膝の上でかたく拳を握ります。
「君は元々、ユヅキの呪いを引き受けて命を落とす予定で嫁いできたはずだ」
「……はい」
「今も、命は惜しくないかい?」
「はい」
即答。わたしはまっすぐにヘルマンさんを見つめます。
「それならば、神への反逆を起こすといい」
「神への、反逆……?」
「まずは食べよう。話はそれからだ」
ハットケーキとは、薄く丸く焼かれた、どらやきのようなものでした。
二枚重ねられ、上に、白く小さなかたまりが融けかかっていました。
銀色の小鉢には濃い茶色の液体が添えられています。
「甘い、香りがします」
ハットケーキはふわふわとして、とても美味しいものでした。
コーヒーは苦くて、あまり飲めませんでした。
そしてわたしは決意を新たにします。
――旦那さまから呪いを引き受けるのではなく。
――旦那さまの呪いを解く、という決意を。
§
書物庫は、わたしの第二の居場所となりました。
足元が冷えるので厚手の靴下を重ね履き。半纏を羽織って、わたしは、本の背表紙を辿って行きます。
日本の呪術をぶつけてみてはどうか、というのが、ヘルマンさんからの提案でした。
【ヤオヨロズの話を聞いたとき閃いたんだ。信仰が違えば、効果のあるものが存在するかもしれない】
ヘルマンさんは帝都ホテルでこう言っていました。
しかし、わたしには読めない漢字もまだまだ多く、対象の本を探すだけでも時間がかかりそうです。
とにかく急がなければなりません。
日中は書物庫に入り、それ以外の時間は今まで通り過ごします。
そんな日々が続いた、ある日のことでした。
「精が出るね」
「……旦那さま」
書庫へ降りてきたのは、着物に半纏姿の旦那さまでした。
仮面はつけていません。薄暗い書物庫を照らすように、旦那さまの内側から光が零れて滲んでいます。
「あのっ、……」
「君のしていることについては、ヘルマンから聞いているよ」
わたしは床へ視線を落とします。
「……勝手な真似をして、すみません」
「いや、いいんだ。こうすることで、君の勉強にもなると思うから」
わたしは唇を噛みます。
旦那さまは、はなからわたしには期待していないのです。
「今日は僕もここで本を読んでいいかな」
「おやめください。底冷えします」
「最近、寒さや暑さににぶくなってきたから、問題ないさ」
旦那さまがわすがに微笑みます。
「……はい」
椅子に座り無言で本をめくる旦那さまと、辞書を手に背表紙を調べるわたし。
――どれだけの時間が経ったでしょうか。
「……ありがとう」
旦那さまがそっと呟きました。
視線は本に落とされたまま。わたしに対して話しかけているのかさえ分からない、そんな、かすかな独白のようでした。
「僕は死ぬけれど、最後に君が誠意をつくそうとしてくれたことが、いい思い出になる」
「わたし、は」
――わたしは。
――旦那さまが呪いをわたしへ移してくれないというのなら。
――わたしに、生きろと言うのであれば。
「諦めません。旦那さまは、これからも生きます。生きなければなりません」
自然と言葉が零れていました。
「……!」
そして、旦那さまが弾かれたように顔を上げます。驚いたような表情。旦那さまの感情が揺れるのを見たのは、初めてです。
そう。なぜだか、旦那さまは驚いているように、見えたのです。
「……」
旦那さまは何かを言いかけて、飲み込みます。
それから、ゆっくりと立ち上がり、書物庫のさらに奥へと歩いて行きました。
やがて戻ってきた旦那さまの手には、紙の束がありました。
「……旦那さま?」
「僕が訳した、Edelsteinkrankheitの症例だ。おそらく役には立たないだろうけれど、読むといい」
わたしは紙の束を受け取ります。文字を、指でそっとなぞり、声に出します。
「アメジスト。ルビー。サファイア。シトリン。ダイヤモンド……」
きれいな筆跡で、丁寧にまとめられています。
「神に背いた者が、受ける呪い……」
――一体、旦那さまは、何をしたというのでしょうか?
こんな優しい旦那さまが。
神に背くだなんて、わたしにはとうてい信じられません。
何故、旦那さまは、宝石病になってしまったのでしょうか……。
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