第八話
§
雪が、しんしんと降り積もります。
雨と違って雪は静かに空から降ってきますが、音が聞こえるような気がするのはなぜでしょう。
庭師の草木さんは、冬の時期はお仕事がお休みになるようで、故郷へ帰って行きました。
わたしは幸子さんが火鉢を出してきてくれたおかげで、何年ぶりかに、凍えずに過ごせています。
寝るときには湯たんぽを足元に置きます。朝、ほんの少しぬるくなった中のお湯で顔を洗うと、すぐに体を動かせます。
幸子さんからはいろいろと教えてもらいました。
たとえば、洋館には暖炉があるんですけどねぇ、と幸子さんが言っていました。
幸子さんによると、暖炉とは部屋自体を暖めてくれる道具だそうです。
それから、幸子さんからは外国の刺繍も教えてもらいました。
斜めに交差する二本の線で絵を描くような刺繍。クロスステッチというのだそうです。
部屋で過ごすときは、少しずつクロスステッチをするようになりました。
……最も大きな変化といえば。
旦那さまは宣言通り、二日に一回は朝食を取りに和館へやってくるようになりました。
「おはよう。今日も冷えるね」
「……おはよう、ございます」
しかし、今日はことさらに気まずい、です。
何故ならばヘルマンさんも幸子さんもおらず、旦那さまとふたりきり。
なんだか緊張してきました。
ふたりきりだからというのもありますが、今日の旦那さまは、仮面をつけていないからです。
整ったかんばせ。
こうしている間にも時間は減っていく一方です。
「朝から魚の煮つけか。そんなに気を遣わなくていいんだよ」
「幸子さんが、旦那さまは煮つけが好きだからと魚を買ってきてくださったんです」
幸子さんの様子を想像したのか、旦那さまはふふっと笑いました。
「根菜の含め煮も、だしがよくきいている。うん、美味しい」
旦那さまが食べ進めるのを確認してから、わたしも箸をつけます。
ぱりぱり、とぬか漬けを咀嚼する音が響きます。
どの所作をとっても、旦那さまの食べ方は育ちのよさがはっきりと表れています。
「ところで童話は読めたかい?」
「はい。どのお話も、おもしろかったです」
「それはよかった」
「旦那さま。もしよければ、またおすすめを教えてくださいませんか?」
わたしは思い切って提案してみます。
少しでも、呪いを引き受けるための手掛かりになれば、と思ったのです。
このままでは確実に旦那さまは亡くなってしまいます。それだけは避けないといけません。
――何のためにわたしがここへ来たか?
忘れない日など、ないのですから。
「いいよ。今日は予定もないし、書物庫へ行こうか」
ということで、旦那さまの後をついて、わたしは書物庫へと向かいます。
先を歩く旦那さまが言いました。
「鍵、使ってないだろう? 本当に好きに出入りしていいんだよ。僕が死ぬまでとはいえ、君は僕の妻なんだから」
表情はわかりません。声色は、いつも通り、穏やかです。
「……はい」
わたしは首からさげた鍵をぎゅっと握りしめました。
旦那さまはご自身が持っている鍵で書物庫を開け、明かりをつけます。
暖房器具のない空間は、一段と冷えていました。
旦那さまが指で背表紙を指し示します。
「童話集が読めたなら、次はこれを読むといいよ」
「ありがとう、ございます」
わたしは本を両手で受け取ります。
「せっかくだから、僕も何か読もうかな」
「……目が、疲れませんか?」
「少しね」
旦那さまがわたしへ顔を向けました。
そっと、金剛石化した部分に触れます。
「ただ、本を読むのは好きなんだ。自分とは違う人間の意見を知ることができる。知らない世界へ連れて行ってくれる。世界をよりよいものにする方法を、提示してくれる」
「はい。わたしも、童話の世界を旅してきましたので、よくわかります」
自分ひとりでは決して読むことができませんでした。
旦那さまへ向かって、深く頭を下げます。
「僕は思うんだ。皆に等しく勉強の機会を与えられた世の中は、もっと、住みやすくなるのではないかと」
「旦那さま……?」
その言い方が、とてもやわらかいもので。
何故だか。
旦那さまの本心のようなものを、初めて聞いたような気がしました。
それは旦那さまの夢ではないのでしょうか。
つまり、まだ生きたいという意志が、あるのではないでしょうか。
「……呪いを、解く方法は。本当に、ないんでしょうか」
「ないね。それこそ、発症したばかりの頃に、ヘルマンの実家にいろいろと調べてもらったんだ。そのこともあって、彼までこの国に連れてきてしまったのは、申し訳ないと思っているけれど」
やっぱりわたしには、何も言うことができませんでした。
§
ヘルマンさんが往診にやってきました。
ということで、今日は四人での朝食です。
焼き魚を器用に食べながら、ヘルマンさんが壁際へ視線を向けました。
「おや? あれは蓄音機じゃないかい?」
「この前、外商さんが来られたときに……」
「なるほど。ユヅキには珍しい無駄遣いってやつか」
「無駄遣いじゃありません。生活に娯楽は必要ですよ、ヘルマンさま!」
幸子さんが配膳しながら、ぴしゃりとヘルマンさんへ言いました。
旦那さまが付け加えるように言います。
「昨日届いたばかりなんだ。せっかくだから、この後、皆で聞いてみよう。人口に
「Find' ich gut」
食事後。
畳の中央にヘルマンさんが蓄音機を移動させました。
手慣れた仕草で円盤を置き、何やら操作します。わたしには見ていても、さっぱり分かりません。
『♪~』
軽やかな女性の歌声が聞こえてきました。跳ねるような音楽。弾む声。
思わずわたしは立ち上がりました。
「まるで魔法みたいですね!」
こんな箱と丸い板から音が出るという仕組みがわたしにはさっぱり分かりません。とても不思議で、面白いです。
ヘルマンさんと幸子さんがわたしを見上げました。わたしが珍しく大声を出してしまったことが珍しいと言いたげな表情でした。
急に恥ずかしくなってきて、わたしはしおしおと座り込みます。
「……すみません。この前読んだ本に書いてあって……」
「やちよサン。本物の魔法はもっと地味で、かつ、もっと派手なものだよ」
魔術師の末裔だというヘルマンさんにとっては、どうやら不服のようです。
ヘルマンさんは懐から金色の懐中時計を取り出してみせました。
「これが本物。ちょっとだけ時間を進めることのできる時計だ」
「地味な魔法だね」
「そうさ、ユヅキ。魔術師の家系もずいぶんと血が薄くなってしまった。ワタシの魔力ではたいそうなことはできない」
突然ヘルマンさんがわたしに時計を投げてよこします。
「きゃっ!?」
じゃらっ。
なんとか落とさず受け取りました。
蓋を開ければ、壁時計と同じつくりの意匠です。ちゃら、と大ぶりの鎖が手のひらから零れ落ちました。
横から幸子さんも覗き込んできます。
「どこからどう見ても普通の懐中時計ですけどねぇ」
「普通の人間には、そう見える」
「付喪神みたいなものでしょうか」
「Nein.魔法は魔法。この国の信仰とは別物だよ」
§
冷え切った玄関にて。
「ヘルマンさん!」
往診が終わり、帰ろうとするヘルマンさんを、わたしは呼び止めました。
ヘルマンさんは帽子を外して振り返ってくれます。
「どうしたんだい?」
「あの……」
わたしは息を整えてから、顔を上げました。
頭のなかで何回も練習した言葉を、少しずつ口にします。
「本当に旦那さまの呪いは解けないんでしょうか。旦那さま、おっしゃっていました。宝石病にかかって最初の頃は、呪いを解く方法がないか調べていたと。つまり、初めのうちは生きるつもりだったということですよね」
「……驚いたよ」
ヘルマンさんの声から、軽さが消えました。
「好きになってしまったのかい? ユヅキのことを」
――好き?
それは思いもよらない投げかけでした。
わたしは視線を床に落とします。
「……分かりません」
深呼吸をしてから、顔を上げ、はっきりと答えます。
「でも、死なせたく、ありません」
旦那さまがわたしにとって大事な方になったのは、確かなことです。
愛かどうかは分かりません。
ですが、絶対に死なせてはいけないということだけ、はっきりとしています。
「場所を変えようか。ここは寒い」
「あっ。すみません、玄関で」
「いやいや。……ちょっと、外で話さないかい?」
「え?」
「文句を言われるのもいやだし、幸子サンからユヅキに言付けてもらうことにしよう」
ヘルマンさんが、片目を瞑ってみせました。
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