冬 -Winter-
第七話
§
短かったわたしの髪の毛も少しずつ伸びてきて、おかっぱと呼べるくらいになりました。
幸子さんがわたしの髪の毛にべっ甲の髪留めをつけてくれます。
さらには、おしろいをはたき、眉を描き、紅を唇に乗せてくれました。
「似合いますよ、奥さま!」
幸子さんが手鏡を渡してくれます。
桜花院家に来てからというもの、わたしの肌は血色がよくなってきましたが、化粧をするとさらに別人のようです。
正直なところ、自分の顔だというのにまったく見慣れません。
「元々お肌もきれいできめが整っていますけれど、お化粧をするとさらに美しいですね。ふふっ」
幸子さんは心から楽しそうにしています。
――お母さまが生きていたら、こんな感じなのでしょうか?
考えてはいけないことが浮かび、鼻の奥が熱くなります。
鼻をすすってごまかし、無理やり笑顔を作りました。
「……そ、そうでしょうか……」
「早速旦那さまに見てもらいましょう!」
「さっ、幸子さん!?」
幸子さんがわたしの手を取り無理やり立ち上がらせました。
半ば強引にわたしは引っ張られていきます。
「旦那さまー! ご覧ください!」
幸子さんが声を張ります。
ちょうど、旦那さまが広間へと降りてこられるところに遭遇してしまいました。
「……」
旦那さまが狐につままれたような表情になります。
いえ、実際には仮面をつけているので正確には分かりません。ですがきっと、呆気に取られているはずです。口がわずかに開いたまま、かたまったのですから。
「……あぁ、君か。誰か分からなかった」
すると幸子さんがわたしの両肩をぐいっと掴んで主張します。
「素直に可愛いと褒めてさしあげてください! あたしがやったんです」
「うん。そうだね、可愛い」
「!」
頬が熱くなります。
……わたしは、何も言えなくなってしまいました。
「やり方を教えますから、毎日これでいきましょう」
幸子さんの声が弾んでいます。
しかし毎日化粧をするのは流石に大変なので、丁重にお断りしました。幸子さんは残念そうでしたが、こればかりは譲れませんでした。
§
「寒……」
冬の朝は肌を刺すような冷たさがあります。
わたしは両手をこすり合わせて、息を吹きかけます。真っ赤な指先は今やじんじんと痺れて、感覚がありません。
しかし、冬はきらいではありません。
どの季節よりも、空気が凛と澄んでいるからです。
「奥さま! 奥さま、大変です!」
いつものようにどたばたと幸子さんが走ってきました。
いえ、いつもとは違います。ただならぬ様子。
動悸が激しくなってきました。全身を、刺すような痛みが襲います。
「おはようございます。どうされましたか? まさか旦那さまが――」
――旦那さまが宝石病で
からからと喉が渇いて、言葉をうまく出せずにいると。
幸子さんはわたしの目の前で止まり、肩で息をしながら言いました。
「えぇ、旦那さまが。ご自分も朝食をともにしたい、と!」
「……え?」
顔を上げた幸子さんの瞳が潤んでいます。
幸子さんはわたしの両手を取りました。走ってきたからか、ふくよかな手はぽかぽかとしています。
「旦那さまが朝に何かを召し上がるなんていつぶりでしょう! ありがとうございます!」
「……!」
なんということでしょう。
急遽、和館でいちばん広い茶の間に、四人が集合することになりました。
幸子さんが座布団と、
諸々の支度が終わる頃、仮面をつけた旦那さまとヘルマンさんが現れました。
ヘルマンさんはなぜだか鼻高々としています。
「これもワタシと幸子サンが、やちよサンの料理上手を聞かせ続けた成果だろう」
旦那さまがわたしへ顔を向けます。
「急にすまないね」
「い、いえ、とんでもないです……」
今日の旦那さまは着物の上に、あたたかそうな羽織を羽織っています。
改めて目の前に立たれると、わたしよりも頭ひとつ分背が高いのが分かりました。宝石病の影響もあるのでしょう、少し細身で心配になります。
旦那さまが言います。
「なんだか美味しそうな香りがしている」
「そうだろう? やちよサンの作るものは何でも美味しい」
「あたしが守ってきたぬか漬けもありますよ!」
そして、四人で囲む朝ごはんがはじまります。
炊き立ての白ご飯。
煮干しと昆布でだしを取った、お豆腐とねぎのお味噌汁。
野菜の煮物。
それから、慌てて幸子さんが持ってきてくれた、魚の干物です。
「すごく豪華だね」
「それはユヅキが来ると言ったからだろう」
「えぇ、その通りですとも!」
幸子さんがヘルマンさんに大声で賛同します。
旦那さまの隣に、ヘルマンさん。
ヘルマンさんの向かいに、幸子さん。そして幸子さんの隣……つまり旦那さまの向かいに、わたしは正座しました。
旦那さまが両手を合わせます。
「いただきます」
わたしと幸子さんとヘルマンさんは、じっと旦那さまを見守ります。
旦那さまは美しい所作で、ほかほかと湯気の昇る白ご飯を、ほんの少し、口にしました。
「うん。美味しい」
ほっ、とわたしは胸をなでおろします。
「よかったです、旦那さま!」
幸子さんは涙目どころか号泣しはじめ、手拭いで鼻をかみます。
旦那さまは幸子さんにはかまわず、淡々と食事を続けます。
「米というのはほのかに甘いんだね。今までこんなにゆっくりと味わうことがなくて、分からなかった」
緊張の解けた幸子さんとわたしも、ようやく箸をつけます。ヘルマンさんは誰よりも勢いよく口を開けていました。
「この国の食事は実にすばらしい。やちよサンの料理はことさらすばらしい。ユヅキはもっとありがたがるべきだ」
「そうだね。これからは、一日おきにでもいただこうかな」
「……旦那さま」
何故だか、胸の奥がじんと熱くなります。
わたしまでなんだか泣きそうなのだというのは遅れて分かりました。
ヘルマンさんがふんと鼻を鳴らします。
「一日おきとは言わず、毎日でも食べればいい」
「流石に消化できないさ」
そんな旦那さまの口元には、笑みが浮かんでいました。
ふと旦那さまがわたしへ顔を向けます。
「そうだ。往診後に、君を案内したい場所があるんだ」
旦那さまがわたしに向かって言いました。
「寒いから暖かくしておいてね。そうだ、幸子さん。半纏があっただろう? 用意してくれるかい」
「……ずずっ。承知しました。承知しましたとも。靴下も分厚いものをお持ちしますね、奥さま!」
§
突然のことにわたしは目を丸くしました。
旦那さまの案内してくれた先は、書物庫だったのです。
「地下に、書物庫があってね。鍵を渡すからいつでも出入りしていいよ」
和館と洋館の間の廊下に、小さな部屋があり、そこから地下へ行ける仕組みになっていたのです。
「えっ? 出入り、とは」
「外商が来たときに見ていて思ったんだ。君はきっと、読書も好きなんじゃないかと」
旦那さまが鍵を開けた先を見遣り、わたしは声を上げます。
「わぁ……!」
むせかえるほどの、紙のにおい。凛とした空気。
縦に細長い地下室です。壁一面が棚になっていて、書物庫の名の通り、びっしりと本が並べられていました。
「これは合鍵だよ。君用に作らせた」
向かい合った旦那さまから触れないように気をつけられながら鍵を受け取ります。
長い紐がついていたので、なくさないよう、わたしは首から提げました。
改めて書物庫を見渡します。
それから背表紙を眺めて、わたしは俯きました。
「どうしたんだい?」
「……お恥ずかしい話なのですが、漢字が、むずかしくて……」
理由は、女学校を中退したからです、とは恥ずかしくて言えませんでした。
しかし恐らく旦那さまには分かっていたようです。
旦那さまは、目の高さにある一冊の本を手に取りました。
「今からでも学んでいけばいい。そうだね、これなんて、教科書代わりになるんじゃないかな」
わたしは恐る恐る本を受け取ります。
「童話集だ。辞書も貸すから、分からない言葉があれば調べるといいよ」
ずっしりと重たく、薄茶色の表紙には、紺色で猫の絵が描かれていました。
「……ありがとう、ございます」
そして、ここまでされると、本当に不安になってきます。
「……旦那さまは、わたしを愛さないと言いましたが、どうしてここまで」
「愛さないことが優しくしない理由にはならないだろう?」
ふっ、と旦那さまの口元に笑みが浮かびます。
「不審に思うなら、慈善事業とでも思っておくれ」
「慈善、事業……」
「死ぬ前に、困っている人間に手を差し伸べてみたくなった。ただそれだけのことさ」
困っている人間。
その通りです。紛れもなく、わたしは困っている人間です。
「君が来る前に、一通り調べさせてもらったからね。これまでさぞ大変だっただろう」
喉が渇いて、うまく言葉が出ません。
「だと言うのに、君は他人への思いやりを失っていない。それはとても、尊いことだ。こんなところにいるべきじゃない。もし君が望むなら、ヘルマンに言って、外国で暮らせるようにしてあげよう」
「……わたし、は」
わたしはぎゅっと本を抱きしめます。
「わたしには、これだけで十分です」
他人からの優しさを、最後にいただけて。
旦那さま。幸子さん。ヘルマンさん。
ここでは誰もが、わたしに優しくしてくれて。
顔を上げます。今こそ、わたしの想いを伝えるべきときです。
「こんなにも慈悲深い旦那さまを死なせたくありません。どうか、宝石病をわたしに移していただけませんか。旦那さまのお役に立ちたいんです」
「……それは、だめだよ」
旦那さまはゆっくりと仮面を外しました。
「……!」
わたしは息を呑みます。
以前よりも
さらに、旦那さまは、着物の袖をまくりました。右腕のあちらこちらが、金剛石になっています。
「呪いは広がっている。足の方が、もっとひどい。僕は、間もなく歩けなくなるだろう」
「そんな……」
「君が気に病むことはない」
旦那さまは言葉を止めて、それから、ゆっくりと告げました。
「僕の人生は、君に関係がないのだから」
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