第六話

§



 ようやくが昇りました。

 こんなに朝が待ち遠しいと思ったのは、初めてのことです。


 往診に来たヘルマンさんが、まず和館へとやってきました。幸子さんとわたしの三人で朝ごはんを食べるためです。

 わたしは夜更けに起きたことをヘルマンさんへ説明しました。


「……そうか。ユヅキが玄関で倒れていた、と」


 聞き終えたヘルマンさんは、神妙な面持ちで言いました。


「教えてくれてありがとう。ユヅキを振り回すなとタダシへ抗議しておかねばならないな。反論が百倍になって返ってきそうだが」


 文脈からして、タダシというのが西園寺さまのことでしょう。


「タダシはすぐかっとなる。自分のことを常に正しいと思っている。ちょっと、めんどくさい男だ」


 ヘルマンさんはさらりと説明しますが、幸子さんは隣で大きく頷きを繰り返しています。わたしは苦笑いでごまかしました。


「それなら、今日は痛み止めを多めに処方しておこうか」

「お願いします、ヘルマンさま」


 幸子さんが深く頭を下げます。普段は軽口を叩いていても、旦那さまのことに関してはお互い真剣なのです。ふたりの旦那さまへの想いが垣間見えるようでした。


「ところで、やちよサン。あなたは、どうすれば『宝石病』を他人へ移せるか知っているかい?」

「いえ……」


 わたしは首を横に振ります。

 ヘルマンさんは何も教えてくれませんでした。

 まだまだ、知らないことがたくさんあります。


 ――旦那さまのこと。

 ――宝石病の、こと。



§



 季節の境目というのはあいまいなものです。

 冬のように寒い日もあれば、まだ秋だと言わんばかりにあたたかな日もあります。


 しかし木々はすっかり葉を失い、竹ぼうきの出番はなくなりました。

 わたしは指先を真っ赤にしつつ、今は、壁の拭き掃除をしています。

 足音が近づいてきました。幸子さんでしょうか。


 しかし、予想は大いに外れました。


「こんにちは」

「……こんにち、は?」


 突然話しかけられて、わたしはかたまってしまいました。

 旦那さまが和館側に来られるなんて。

 いえ、旦那さまはこのお屋敷の主なので、どこにいようとおかしくはないのですが。


 旦那さまは今日も仮面をつけています。

 紛れもなくわたしに向かって、話しかけてきました。


「先日はありがとう」

「いえ……お礼を言われるようなことは何も……。あの、お体の具合は」

「一進一退かな。ところで、君の明後日の予定は?」

「ありません、が」


 当然です。わたしに予定らしい予定なんてありません。


が我が家へやってくる。もしよかったら広間へおいで。この前のお礼をしたいんだ」



§



 外商、というのは、百貨店の方のことでした。

 仕立てのいいスーツ姿の男性ふたりが、洋館の広間に、さまざまな品物を広げています。

 陳列用品も持ち込まれたため、広間はさながら小さなお店のようになりました。いえ、小さなお店よりもはるかに絢爛です。


 旦那さまは椅子に腰かけて、お店ができていく様を静かに眺めていました。

 幸子さんは幸子さんで、立ち尽くすわたしにこそっと教えてくれます。


「数ヶ月に一度、こうやってまとまった買い物をしているんですよ」


 ……百貨店を呼びつけられるとは、流石華族です。

 怖気づいているわたしに対して、着物姿の旦那さまは話しかけてきました。もちろん、仮面はつけたままです。


「百貨店へ行ったことはあるかい?」

「……いえ。ありません」


 市佳さんは、両親と共に百貨店へたびたび出かけていたようですが、わたしにその機会は与えられませんでした。


 販売員さんが、旦那さまへ声をかけます。


「桜花院さま、お待たせしました。準備が整いました。どうぞご覧ください」

「ありがとう。早速見させてもらおうかな」


 それから、旦那さまはわたしへ顔を向けました。


「何でも好きなものを買ってあげよう。遠慮はいらない」

「いえ、そんな……」


 遠慮するわたしの背中を、幸子さんがとんと押しました。


「旦那さまがそうおっしゃっているのですから、どうぞ」

「是非是非! 奥さまにはこちらのお着物なんていかがでしょうか」


 被せるようにして、にこにこしながら販売員さんが話しかけてきました。

 その手が示すのは、わたしでも分かる上質な着物です。


「いえいえ、奥さまには洋装をおすすめします。こちらをどうぞ」


 もうひとりの販売員さんはきれいなワンピースを手に、ひらひら揺らしてみせました。


「えっと……」


 肩越しに振り返ると、幸子さんが楽しそうにしていました。目をきらきらと輝かせ、若干、鼻息も荒くなっています


「奥さま! せっかくですしどちらもお求めになればいいのでは?」

「さ、幸子さん?」


 そこへ旦那さまも加わります。


「では、用に、装いに合わせた帽子や鞄、アクセサリーも一通り見繕ってくれるかい」

「「かしこまりました! 喜んで!」」


 販売員さんたちの声が高らかに揃います。

 この場で戸惑っているのはわたしだけでした。


「だ、旦那さま! それは……」

「この家から出るときに売ってもかまわないんだよ」

「……」


 ちくり、と胸が痛みます。

 何も言えなくなります。あくまでも旦那さまは、半年後に亡くなるつもりでいるのです。


「奥さま。身に着けるもの以外でも、こんなものはいかがでしょう」


 販売員さんが、テーブルの上に置かれた、異国情緒たっぷりの缶を手に取ってみせました。

 覗き込むのはわたしではなくて幸子さん。


「あら。中には針と糸が入っていますね?」

「こちら、西洋の刺繍道具一式でございます」

「刺繍……」


 刺繍の糸は、縫い糸とは違い、見たことのない深くて鮮やかな色ばかりでした。

 缶自体も、蓋に施された装飾が美しくて目が離せません。


 すると旦那さまが自らの顎に手をやり、ふむと頷きます。


「ではこの刺繍道具も。追加で布や糸も、後日届けてくれ」

「かしこまりました」

「そんな、わたしはまだ何も……」

「ほしいのだろう? 顔が、そう言っていた」


 仮面越しに旦那さまと視線が合って、わたしは俯きます。俯くことしか、できませんでした。


「……ありがとう、ございます」


 わたしの心中など知る由もなく、販売員さんたちは次々と品物を進めてきます。


「こちらもいかがですか? 外国の絵本です」

「あの、でも、異国の文字は読めないので」

「雰囲気だけでも味わえますよ」

「ヘルマンに教わればいいのでは? これは彼の母国のものだ」


 ――そうして、わたしは着物とワンピース一式、刺繍道具、それから絵本を買っていただきました。

 どれも高いものばかりで、目眩がしてきます。

 一方、幸子さんは嬉しそうで、旦那さまも満足そうにしていました。


 殺風景な畳の部屋に、少しずつ、彩りが増えていきます

 反対にお屋敷の外は色がだんだんと減っていました。


 この日の夜、はらはらと初雪が降りました。

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