第十四話
§
ずぶ濡れのまま、わたしは桜花院家の玄関へと戻ってきました。
ぽたぽたと髪の毛や服から水滴が落ち、玄関をあっという間に濡らしてしまいます。
「あぁっ! 奥さま! どこへ行かれて――大変! びしょびしょじゃないですか!」
幸子さんがうろたえて、うろたえながらもタオルを持ってきてわたしの頬に当ててくれました。ふんわりとした感触に、涙がこみ上げます。
わたしは誰かから優しくされる価値なんてないというのに。
「少し待っててくださいね。お風呂を用意しますから!」
わたしは幸子さんに何も言うことができませんでした。
髪の毛や服を絞り、乱暴にタオルで拭って、わたしはゆっくりと書斎へ向かいます。
雨が乱暴に窓へ叩きつけられているというのに、書斎は、ひどく静かでした。
「おかえり」
やわらかで静かな声で、旦那さまが言いました。
書斎には旦那さましかいませんでした。西園寺さまは、お帰りになられたようです。
わたしは数時間前の西園寺さまと同じように、床に額をつけました。
絞りきれなかった水滴が、ぽたりと床に落ちます。
「……お願いです。どうか、わたしに宝石病を移してください」
「それはできないよ」
旦那さまはいつものように、静かにわたしを拒絶します。
「できない。君には触れられない」
わたしは涙と雨でぐちゃぐちゃになっているだろう顔を上げます。
「どうしてですか……どうして……」
「宝石病という呪いを他人へ移す方法を知っているかい?」
「……いいえ……」
「感情が高ぶったときの体液を摂取すること。汗でも涙でも血液でも、それ以外でも」
だから妻という役割じゃないといけなかった、と。
暗に、旦那さまは言います。
そして。
「君を死なせたくないんだ。やちよ」
はっきりと、旦那さまは。
わたしの名前を、口にしました。
名前を呼ばれたのは、初めてで。
わたしは、震えながら、旦那さまを見上げます。
「だ、だん、な、さま……?」
「幸子さん。やちよを、温かな風呂に入れてあげておくれ」
「かしこまりました。ささ、奥さま」
戻ってきた幸子さんが、わたしの状態に厭わず、立ち上がらせてくれました。
「奥さま。温かなお風呂に入って、美味しい物を食べましょう。西園寺さまも、議員さんたちもおかしいんです。奥さまは何も気に病むことなんてないんですから。ね?」
幸子さんがわたしを立ち上がらせる手は、震えていました。
怒りと悲しみが入り混じったような、でも、笑顔で、わたしを和館へと連れて行ってくれました。
§
わたしは暗くてじめじめとした部屋に閉じ込められていました。
何もかも、わたしが悪いからです。
悪いことをすると、せっかん部屋に入れられる。それが、我が家の決まりなのです。
『お姉さまがいけないのよ。決められた時間内で、掃除を終わらせられなかったんですもの』
べしゃっ、と床に何かを零されます。
『あら、やだ。お姉さまのために持ってきた汁物をこぼしちゃったわ。汚れちゃったから、食べてきれいにしてちょうだいね』
市佳さんが去って行った後、わたしは、床に落ちた根菜へ手を伸ばしました。ぐずぐずに煮込まれた芋のようなもの。掴めばべちゃっと崩れてしまいます。それでも、ぐぅと鳴ったお腹を鎮めるためには、口に入れるしかありませんでした。味つけされていなくても、涙を零しながら飲み込みます。
なんとか言われたことを言われたようにこなせるようになってからは、せっかん部屋に閉じ込められることはなくなりました。
その代わり、いないものとして、扱われるようになりました。
髪も肌も、爪もぼろぼろで。
着るものはすべて市佳さんが飽きて、わざと汚したものばかりで。
――だから、死んだ方がましだと、思ったことだってあったのです。
「……ここは」
ゆっくりと開いた瞼。視界に入る天井は、桜花院家の和室でした。
わたしはどうやら布団に寝かされているようで、額には、濡らしたタオルが当てられていました。タオルがぬるく感じるのは、熱が出ているからだと遅れて気づきます。
里見家にいた頃の夢を見たのは、初めてでした。
体が重たくて、指一本動かせそうにありません。
寝ているだけなのに、どんどん、どこかへ沈んでいってしまいそうです。
「……」
「おや。目が覚めたかい?」
「……ヘルマン、さん」
部屋に入ってきたのはヘルマンさんでした。
布団の脇にあぐらをかき、片眼鏡の奥で、にやりと笑います。
「初めは弱々しいと思っていたけれど、全然そんなことはなかったね」
「……寝込んでいるのに、ですか?」
「気持ちの話をしている。あぁ、そのままでいいよ。君はふた晩寝込んでいた。だいぶ熱は下がってきたようだから、安静に」
どうやら寝込んでしまったわたしのことを、ヘルマンさんは診てくれていたようです。さらに申し訳なさが募って俯きました。
「ユヅキが己を保っていられたのは、やちよサンのおかげだ。もう、手遅れだとしても」
「手遅れ……?」
ヘルマンさんを見上げると、蒼い瞳がわずかに揺らぎました。
「四肢のディアマント化を確認した。もう間もなく、ユヅキの命は終わりを迎える」
「そ、そんな……」
涙が溢れて布団を濡らします。わたしは両手で顔を覆いました。
「仕方のないことだ。初めからこうなると決まっていた。ユヅキが宝石病を引き受けた、あの日から」
「……え?」
「しかしやちよサンのおかげで、ユヅキは呪いに負けずにいられた。ワタシからも礼を言う。ユヅキと出逢ってくれたのが、やちよサンでよかった」
――どうして、その可能性を考えなかったのでしょう。
わたしが宝石病の身代わりとなるために嫁いできたということは、旦那さまもまた、誰かから宝石病を引き受けた可能性がある、ということに。
「それは、どういう、意味ですか」
声が震えます。わたしは無理やり上体を起こして、ヘルマンさんに向き合います。
「おや? この話はまだしていなかったかな?」
「教えてください。旦那さまは、どうして宝石病になったんですか」
「……そうだね。たしかに、君には知る権利があった」
ヘルマンさんは、ためらいつつも語りはじめました。
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