2-26.今日はココアとコーヒーで
白く、広く、星空のような、木々に囲まれた、静謐な、神々しさと、荘厳さと、恐ろしさと、寂しさが同時に存在する、そんな場所。
あらゆる可能性が押し込まれ、見る人物とそれを管理する存在によって、あらゆる姿を見せるその空間に、二人の男女が滞在をしている。
洒落た白い木製のティーテーブルには3つの椅子が置かれているが、そのうち一つは空白で、今ここに来訪者は居ない。
もし彼らのほかにも何らかの存在がいたならば、今この空間が大きく揺れ動き、そして彼ら自身もまた、大きくぶれる様に姿を変え続けている事を観測できただろう。
だが観測者は彼ら自身で、その観測者自身が不安定となっている今、外部の存在がこの空間に足を踏み入れることは、自殺行為に等しい。
それ故に、当分の間、ここに彼女を招待することは叶わないだろう。
「…なんであんなことしたわけ?」
白く白い猫のような少女は、その頭に生えた耳をぺたりと頭につけ、机の上に突っ伏すようにうなだれている。
恐らく何らかの不調を覚えているのだろう。その声にはかつてのような明朗さは無く、そしてその身体は今、大きくノイズが走る様に、存在自体がブレ続けている。
「出来るならするさ。可愛い娘のためだ。」
一方、黒く黒い帽子の男は、くつろいだ様子で椅子に座り、手に持ったカップには、黒い液体が注がれている。あの子が来ているときはいつも紅茶を用意するのだが、男が本来好むのは、目が覚めるように苦いコーヒーなのだ。
その姿は少女と同様に時折ブレるが、彼女ほど直接的な影響ではないため、こうして問題なく茶を飲むことが出来ている。
ちなみに別に、この黒い姿だからそれを好むというわけではない。なにせ今のこの格好は彼が選んだものではないし、帽子など正直好き好んでかぶるような性分ではない。
「嫌だったか?」
「んーー……まぁ、悪くはないけどさ。母様との記憶も増えるし…」
いま少女の中では、幾多もの記憶にないはずの記憶が泡のように浮き出ては、永い刻をかけて育ったその魂に、統合をしている最中である。
それによって存在しなくなったはずの不幸な記憶は消えるわけではなく、今も彼女の中に怒りと共に残り続けてはいるのだが、それとは別に頭に浮かぶ幸せな記憶に、思わず顔がにやけてしまう。
チェシャネコなんて適当に選んだ役柄のはずなのだが、このままでは本当ににやけ面になってしまいそうである。
とはいえ、一度に膨大な量の記憶を叩きつけられ、自身へと至る過程を強引に切り替えられた身としては、どうしても不調となってしまうのは避けられない。
ちゃんと意識を保っていないと精神が吹き飛びかねないし、幾多の可能性によりブレる身体も制御をしないと、いつの間にか肉体自体が別のものに置き換わってしまっている可能性すらある。
だから今こうして幸せな記憶に浸ることは、自身を保ち続けるために、彼女が彼女でいるために必要な行為でもある。
「勝手にやってすまなかった。ココアだ、甘いものを飲めば多少楽になるだろう。」
「甘いのとかはたぶん関係ないと思う…でも、貰う。」
男が手をかざすと、机の上には一つのマグカップと、注がれた褐色の液体が現れる。少女は机に突っ伏したまま、カップに注がれたそれをチビチビと舐める。
やはり頭や身体の不調には影響しないようだが、痺れるような甘さは少なくとも、精神を癒すためにはよく働きそうだ。
それにどうやらこのココアは、この幸せな記憶の中にあった物らしい。自身のコーヒーの銘柄にすら大してこだわらない男にしては、珍しく気を利かせている。
「安定するまで、どのくらいだろ…」
「因果までは変わっていないから、おそらく500年程度で落ち着くだろう。」
うへぇと、まるで苦いものでも飲み込んだかのように、猫耳の少女の顔がゆがむ。
別に死に至るようなものではないし、ただただ不調なだけとはいえ、これが500年も続くのは地味につらい。
正直なところ、やる前に言って欲しかったと文句もあるが、恐らく彼女はこの男のために反対しただろうし、して貰えて嬉しかったという気持ちもそれなりに大きい。
だがそのために、家族思いなこの男に、寂しい思いをさせてしまうことが少しばかり心残りではあるけれど。
「あの子にしばらく会えないわけだけど、いいの?」
「よくは無いが、仕方がない。それに、大した時間でもない。」
実際のところ、彼らにとって数百年程度の時間経過は、たいして意味のないものだ。
この場所は実時間とは隔離されているため、次にまた会う彼女にとっては数日後のことであるだろうし、なんなら過去にさかのぼって会いに行くことだって不可能ではない。
ただ彼らにとっての主観時間で500年間、たったそれだけを我慢をすればよいことなのだ。その程度、彼らが今まで存在してきた時間に比べれば、ほんの瞬き程度でしかない。
「んー…しばらく来ないなら、楽な恰好にしておこうかな…」
そう独り言をつぶやくと、猫耳の少女はだらしなく机へと突っ伏したまま、自身の猫耳を覆うように手で押さえる。
そうして少ししてから手を離すと、小さな手のひらの下からは猫耳が消え、代わりに大きなウサギの耳が伸びるように飛び出してくる。
そして白いワンピースから飛び出していたぴょろぴょろと動く長い尻尾は、いつの間にかふわふわと、小さなウサギの尻尾へと置き換わっていた。
別にこれが彼女本来の姿というわけではないのだが、いまは幸せな記憶に浸るためにも、あの時と同じこの姿でいることが心地が良い。
「そうだな、私も普段着に着替えるか…。どうもこの格好は、洒落すぎてて性にあわん。」
そういって指をぱちりと弾くと次の瞬間、男の頭にあった帽子は消えており、黒く整っていたフレンチコートも、白くくたびれた白衣へと変わっていた。
生来不精であるこの男には、この姿のほうが性に合っている。こんなだらしない姿を見られれば、彼女に尻を叩かれるのは必須であるが、今ならバレることはないだろう。
「今のパチンっての、必要だった?」
「……いいだろ、かっこいいじゃないか。」
そうして彼らは、何もないが全てがある空間の中、500年間をただ待ち続ける。
今日の茶会は、中止である。
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【白い少女と黒い男】
チェシャ猫、そして狂った帽子屋という属性は、もはや自身が属していない世界に干渉するため、少しでもあの世界へと馴染むための仮の姿。
彼らはその性質上、かの世界とはもう相容れないため、こうした努力をしないと世界から弾かれてしまう。
ただしもとより無理を承知の上での仮装であり、正直あまり大した意味はない。
ただ、彼と彼女の頭の上がらぬ女性の希望で、どうせならそうするといいと、このような仮装をなかば強制されている。
実は少女に関してはそのままでも属性的に問題は無く、彼女がただ見てみたかっただけということを男は知っている。少女もそれを知ってはいるが、まぁ喜ぶならいいかと、知らないふりをして従っている。
500年後、様子を見に来た女性によって、男は尻を叩かれた。
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