第三話「死に損ない」
「………………」
目が覚めた。どのくらい気を失っていたのだろうか。周囲を見渡すと、白みかけの東の空のほんの少しの明るさで、夜明け前だということを悟った。
視線を地面に戻すと、昨夜気を失った時と同じ状態でバロさんが倒れている。もう血は流れていない。体に触れてみると、もう冷たくなっていた。
また泣きそうになるのを堪え、僕は彼の懐に見えた短剣を拝借し、彼の血で固まった僕の衣服と体をバケツに汲んだ海水で洗い流した。
「がああああ!痛い!!!!」
どうやら僕もかなりの火傷を負っていたようで、肩や腕、足や顔が爛れている。それに気づかずに水をかけたものだから、あまりの痛みにしばらくその場でのたうち回った。痛みを何とか抑えてから、使えそうなものを探すために教会の中へ入った。傷の手当てができるようなものは軒並み火事で消失しまっていたが、幸い僕の部屋は燃えていなかったので、衣服の確保には困らなかった。そして、僕はまだ薄暗い空の下を一人で歩き始めた。
「……」
メインストリートは見る影がなかった。両脇の家々は未だに燃えている。焦げて真っ黒になった土を踏みながら、痛む全身を何とか動かして先に進む。
勿論目的は、アイネの安否だ。この大火事の中で、彼女は無事だったのだろうか。彼女の家は確か町の中心部から少し外れた所にあった。昨日の火事の広がり方次第では、あるいは。
「……」
中心街に着いた時、その惨状に、その考えが甘かったことを思い知らされた。
広場の噴水も、雑貨屋も、図書館も、音楽堂も、全てが昨日まで見ていたそれとはまるで見る影がない程に朽ち果てていた。やはり町の中心部の被害は甚大で、目を背けたくなるような焼死体があちこちに転がっている。その中には僕も顔を見たことのある人物が沢山いて、肉の焼けたような嫌な匂いが辺りに立ち込めており、思わず鼻をつまんだ。僕はこの時ようやく事の重大さを具体的に掴み始めていた。
……言葉が出ない。
恐らく僕は、暫定的ではあるがこの町唯一の生存者で、何者かの仕業でこの町は火の海となり、一晩のうちに崩壊したということだ。普段の町ならどこにいても楽器の音が聞こえてくるはずなのだが、今はどこかで火が燃えている音以外には、何も聞こえない。
死んでしまった町にただ一人取り残された僕は生き残りなのだろうか?はたまた死に損ないなのだろうか?きっとその答えは彼女のことを見つけた時に同時に見つかるのだろう。
とにかく先を急がなくてはならない。動くことでしかこの恐怖は和らぐことはない。
首筋に冷たいものが触ったので空を見上げると、雨が数滴落ちてきた。
僕は、死に損ないなのかもしれない。
僕の読みとは裏腹に、アイネの家があった場所は見る影もないほどの有様だった。
外壁は所々剥がれ落ち、中の様子が見えているが、中に人の気配はない。
僕はゴクリ…と唾を飲み込む。ドアノブに手をかけ、ガチャリと回す。
……開かない。
押しても引いても扉が開かない。どうやらドア枠が完全に変形しているようで、僕は窓からの侵入を余儀なくされた。
ガラス窓は、火事の影響ですっかり脆くなっており、肘でつついただけで簡単に割れた。
枠に手をかけ、家の中に侵入する。思えばこれが初めてのアイネの家だった。いつも家の前で遊んだりはしていたのだが、なぜだか中には一度も入れてくれなかった。
「ごめんね、お母さんが駄目だって」
いつもそういう風に流されてしまっていたことを思い出す。
リビングから階段を昇っていく。テーブルは三つの椅子で囲われている。壁には家族写真と思しき写真が額に飾られているところから、円満な家庭を想像するが、あまりに解像度が低すぎたのでやめた。家の中に入った時から薄々感じてはいたのだが、アイネがいるとしたらきっと二階だろう。足取りが重いのは、体の疲弊からか、あるいは恐怖なのか。僕は震える足を奮い立たせ、先に進む。
「うっ…」
二階の最初の扉を開く前に周囲に放たれる悪臭に思わずえずく。しかし吐くものが何もなくただ胃液の酸っぱいのが喉元までこみ上げてくるだけだった。
口元を手で覆い、ドアノブを回す。
そこに、アイネはいなかった
一瞬ほっとしたが、視界の隅の方に一人、ベッドに一人倒れている人がいた。
年齢は大体バロさんと同じぐらいだろうか。と言うことはおそらくこの部屋は両親の寝室なのだろう。締め切った窓が開かれることはなく、二人に特に目立った外傷はない。しかし、試しに触れてみたら氷のように冷たかった。
二人は死んでいる、瞬間的にそう悟った。しかし、彼らの死体には目立った外傷はない。死因は何だろうと頭を巡らせていると、バロさんが言っていたことを思い出した。
「いいですか? もしも火事が起こったら、慌てずに濡れたハンカチで手を覆って、絶対に煙を吸わないこと」
「どうして吸っちゃダメなの?」
「実はあれは、ただの煙のように見えてとても恐ろしい毒ガスなんですよ。一度吸い込んでしまえば最後!人は意識を失ってたいていの場合、死にます。何とか生きられる可能性もあるにはありますが、仮に生きられたとして、体にはなんらかの後遺症が残るので、それまでのように生きられる保証はないでしょう」
……死因はその毒ガスで間違いないだろうなと思った。なぜならば、おそらく昨夜僕が気を失ったのもそれが原因だと悟ったからだ。僕は外にいたから助かったが、もしもこれが屋内だったら…と考えるとぞっとする。
さらに重くなる足取りで、僕は部屋を後にする。部屋は残すところあと二部屋。僕は再び気を引き締めた。
次の部屋は父の書斎らしき部屋で、本棚にはひどく褪せた本が棚一面に並べられていた。埃が舞う中、テーブルの上に手記と思しきものを見つけた。が、見ることはしなかった。
もしも僕が日記を書いていたとして、それを誰かに見られらようなことがあったとしたら、それはきっと恥ずかしいことだと思うからだ。他に目立ったところもなかったので、僕は部屋を後にした。
そして、最後の部屋の前にたどり着いた。早くアイネに会いたい。そう強く望むと同時に、この扉を開けた先に、彼女がいないことを強く望む自分もいた。答えを先延ばしにしても、何も変わらない。そんなことは解っているのだが、心が答えを知ることを拒否している。
そんな僕は今、アイネとの記憶を思い出していた。
あれは、アイネと二人で町に行った時のことだ
彼女は出会った頃からとても社交的で、町の人からとても愛されていた。町の商人は彼女を見かけると手を振り、店のお菓子を特別にオマケしてくれることもあった。
いつだったか、彼女が音楽家に声をかけ、いきなり歌い出したことがあった。何事かと思ったが、彼女の美しい声は人々を引き付け辺りには人が続々と集まってきた。曲が終わると、年齢離れした彼女の歌唱力に賛辞を送る。ペコペコ会釈し、人だかりの中を見回している彼女に、僕は一種の尊敬の念を抱いたのを覚えている。
その時、僕は彼女と目が合った。彼女は笑顔でこちらに近づいてくる。気付けば僕は彼女に手を引かれ、人だかりの中心にいた。周囲の人たちは、新しい役者の登場に期待するような眼差しを見せた。
「クライネも一緒に歌おうよ!楽しいよ!」
そう言われ、臆病な僕の頭は真っ白になった。
「いやいやいや、こんな人いっぱいの前で?僕には無理だよ!」
「大丈夫だって!そんな心配することないよ」
「でも…」
それに…とアイネは付け足す。
「それに、今やっておかないと絶対後で後悔するよ?私、クライネには出来るならしなかったことへの後悔じゃなくて、したことでの後悔をしてほしいんだ。だから、ほら」
そう言って彼女は手を差し伸べてくれた。
「一緒に前に進もう。怖いなら、私が手、握っててあげるから」
「懐かしいなぁ。もし、あの時ああ言ってくれてなかったら僕、きっとしなかったことへの後悔ばかり重ねて、ずっと前に進めていなかったよ」
「…ありがとう、アイネ」
僕は彼女の手を握り、頭を下げる。
「あぁ、でもやっぱり…」
涙がスッ…と一筋頬を伝って、眠っているアイネの顔に落ちた。
「辛いなぁ……」
僕は、どうやらとんだ死に損ないだったようだ。
僕は家を後にした。これ以上あの場所にいると、頭がおかしくなりそうだった。静かに眠る彼女の首にかかったエメラルドのブローチと彼女が愛用していたギターを僕は持っていくことにした。誰も僕を責めはしないだろう。
先程から降りだした雨が、雨足を強めて地上に降り注ぐ。焦土を冷やすには丁度いい、絶望に満ちた氷雨だった。それは独りぼっちの爛れた肌を鋭く刺す。もう何も考えたくない。近くの屋根の下に入って、僕は眠った。
悲劇の夜は、なかなか明けなかった。
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