第二話「悲劇」
時は遡ること半日前
風詠みの丘で未来の旅を誓ったそのすぐ後のこと
丘の上の原っぱで雲を眺めながら横になってのんびりしていると、同じく隣でそうしていたアイネが聴き馴染み深い歌を口ずさみだした。
それはこの地方に伝わる子守歌で、よくアイネが歌ってくれる詩だった。
彼女の声には不思議な力があるらしい。彼女の声は、聞いていると心の奥を撫でられたような感覚がする。それは不思議な高揚と安楽を僕にもたらしてくれて、宙に浮いているような錯覚に襲われる。
……心地のいい昼下がりだ。大きなあくびをする。暖かい風に吹かれて、草木が揺れる音がする。
「……ネ、…クライネ!起きて起きて」
次に目を覚ました時、既に日は傾いていて、まどろみの中に見えた世界は茜色に染まっていた。
「あぁ…どうしよ!早く帰らないと本当にお母さんに叱られちゃう!」
アイネが蒼白になりかけているのも無理はない。彼女の母は、ものすごく怖い人だ。保安官である父の影響か、とても厳格な家庭だったのを記憶している。
「とりあえず帰ろう!」
「うん」
僕らは少し足早に家路についた。
町に着いた時には既に日が落ちていて、アイネの母が心配してあちこち探しまわっていた。アイネの顔を見るなり、安堵の表情を浮かべながらアイネに駆け寄ってきた。ひどく叱られそうだったので、僕達は教会にいたと嘘を吐いて難を逃れ、彼女はそのまま連れられて帰っていった。
「また明日ね!」
口に手を当て内緒のポーズをして、アイネは手を引かれて帰っていった。
僕も教会へ帰った。
「ただいま!」
「おかえりなさい、クライネ。今日の晩御飯は君の好きなオムライスと、ポトフですよ」
「やった!バロさんのオムライスだ!」
この教会の牧師であり、僕の育ての親でもある彼はいつもの優しい笑みを浮かべて僕に言った。
「ほら、その前に手を洗ってきなさい」
「わかった!」
「いただきます」
いつも通りの会話、いつも通りの時間。
しん…と静まり返った教会の中で、僕とバロさんは二人で食事をする。カチャカチャと食器が立てる音が大きく聞こえる。
僕はこの静寂が好きだ。
食べ物に困ることのない空間で大切な人といられる、他にノイズになるものは存在しない。自分以外の冷たい金属音が、一人じゃないと言う証明になる。幼いながらそれが嬉しかったのだ。
「クライネ、君は本当に良い友人を持ちましたね」
温かい湯気をたてるポトフに手をつけた時、彼はそう言った。
「アイネのこと?」
「そう。彼女と出会ってからの君は、私が初めて君と出会った時では想像できないくらいに幸せそうです。私はそれがとても嬉しい」
そう言うと彼は優しく微笑み、ポトフを一口飲んだ。
「そうなの?よく分からないや。でも、毎日楽しいよ」
「その感覚は、とても大事なものですよ。君はまだまだ若い。これからの君の人生は、私には眩しすぎるくらいに、輝いています。それを味わい尽くしてください」
「オムライスも?」
「フフフッ、そうですね。さ、早く食べてゆっくり休みましょう。明日もたくさん遊べるようにね」
「はーい」
夕食を食べ終え、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。とても疲れていたので、今日はバロさんにいつもの話を聞かせてもらうこともなく、代わりにアイネとの約束に胸を躍らせ、眠りに就いた。
それはその日の夜、唐突に起こった。
暗闇の中で誰かが僕を呼ぶ声が聞こえた。初めはとても小さかったそれが、僕の名前を何度も呼ぶごとに大きくなってくる。
「クライネ!起きてください!早く!!」
「……?」
ゆっくりと目が開けたら、そこにはバロさんがいた。意識が覚醒し切らないまま、枕元の時計を見ると午前二時を過ぎたあたり。窓の外を眺めると、どういうわけか外が明るい。
そして異様に暑い。サウナの中にいるみたいに、息が苦しい。訳がわからず混乱する僕に、バロさんが濡れたハンカチを手渡し、ゆっくり諭すように言った。
「それで口を覆い、私に付いてきてください。絶対に窓には触らないで!」
教会の裏口から外に出て、傍の茂みに隠れるように指示された。
空が赤い。教会を赤黒いシルエットとして認識した。
「うわっ、冷たっ!いきなり何するんだよ!」
次の瞬間、バロさんは自分自身と僕に思い切りバケツに溜めた海水を頭からかぶせた。冷たい水を被せられて、身体中にベッタリと服が張り付く嫌な感覚が全身を包み込む。突然のことに動揺する僕の問いに、バロさんは答えてくれない。普段優しい彼からは考えられないほどその表情は強張っていた。
「乾いてきたらもう一度水を被ってくださいね。そうすれば火を防げますから。バケツの水が無くなったらまた汲んで来て被るんですよ」
彼は続ける
「いいですか、火が消えるまでは絶対にここで身を隠していてくださいね。私は一度街を見に行ってきます」
言っていることの意味がわからず、僕は恐怖した。
「何が起こってるの…?」
「大丈夫、すぐに戻りますから。クライネ、君は何があっても絶対に、生き延びなさい!」
そう言って町の方へと向かったバロさんの背中を見ながらガタガタ震えていた。
暗闇から迫りくる炎の赤が、僕の精神をじわじわと蝕んでいく。遠くで金切り声のような甲高い音が聞こえた気がした。火花が弾ける音が恐怖にすくむ僕の神経を逆撫でするように鳴り響く。
そんな時間が、どのくらい経過しただろう。
いつまで経ってもバロさんは戻って来ない。途方もない恐怖に駆られた僕は思い切ってバケツの水を被り、教会裏の茂みから飛び出した。
そこで目にした光景を僕はきっと、この生涯で忘れることはないだろう。
目の前に広がる光景はもはや地獄と形容するのも生ぬるいような有様だった。燃え盛る火炎に飲まれて倒壊してゆく家屋、草木に引火し、凄い勢いで町が燃えている。
作物や楽器も燃えてしまってもう跡形も残っていない。あちこちから聞こえる阿鼻叫喚は、恐らく逃げ遅れた住人達のものだろう。運よく外に出られた者も、服に火が引火して火だるまになり、地面でのたうち回っている。額から汗がとめどなく噴き出てくる。そんな地獄で、焦土の上にうつ伏せで倒れている人型の何かを発見した。ゆっくり近づいて、その姿がはっきりと目に映る。
僕は絶句した。
それは、バロさんだった。
全身を悪寒が襲った。こんなにも熱いというのに、どうしてだろう。彼はぴくりとも動かない。
「バロさん!ねえ起きてよ!バロさん!!」
慌てて駆け寄って体をゆすってみるが返事がない。
僕は立ち尽くした
彼の血潮が僕の衣服に染み込んでくる。体はピクリとも動かない。もう息もない。思考を巡らせる。間もなくその思考はある一つの受け入れがたい絶望的な事実によって完結した。
バロさんが、死んだ。
「……バロさん」
顔を見るために体を仰向けの状態にひっくり返した。初老とは思えないほどツヤのあった肌は、火傷で皮膚が爛れてしまっていてもはや見る影がない。しかし顔立ちは生前から変わることなくそこにあった。長いまつげも、高い鼻も。今にもいつものように優しい笑みを浮かべ、僕の名前を呼んでくれそうなまま、静かに死んでいた。
体に目をやり、驚いた。その肩から腹にかけて、大剣のような何かで斜めに深く切り付けられたような跡があるではないか。近くに刃物はないので、恐らくこれは自傷行為ではないだろう。
では誰が?何の目的で?彼は町の人々からとても慕われていた。怨恨ではないだろう。そもそもこんな傷をつけられるような武器を持っている大人を、僕はこの街で見たことがない。考える間にも回復機能を失ったその傷から止めどなくどす黒い血が流れている。
「あああああああああああああああ!!!!」
僕の目からも、大粒の涙が流れた。彼の胸に突っ伏し、大きな声を上げて泣いた。ほとんど慟哭だった。業火に囲まれて、汗なのか血液なのか涙なのか判別のつかないものを流しながら天を仰いだ。
その瞬間、視界がグラッ…と大きく横揺れし、激しい動悸とともに僕は息が出来なくなった。肺が焼けるように熱い。咳が止まらない。意識が遠のいてゆく。まるでオルゴールが止まる時のように地面に倒れこみ、僕は気を失った。
これが、後世に吟じられる「悲劇の町」の物語
ベルボワ地方に住む住民のほとんどが死亡した歴史上類を見ないほどの大惨事。
港町メルは、たった一夜の大火事で、世界の歴史から姿を消した。
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