第20話
ユーリの体が祭壇から離れ、宙に浮いていく。驚き必死で何か掴めるものはないかと手を伸ばしたが、その手は空を切り、手繰り寄せられるように蜥蜴さんの腕の中に収まる。不思議と身にまとう小さな雷たちはユーリになんの影響も与えない。
蜥蜴さんがユーリの名を呼ぶ、安堵と悲しみが混じりあったようなその声に、胸が締め付けられてすぐに顔をあげると、先程の無機質さはどこかに消え去り、ただ悲しさと苦しさを瞳に抱える沼地の翼竜がこちらを覗き込んでいた。ユーリを抱え込む手に微かに力が入る。いつもの蜥蜴さんだと安堵するが、体を横向きに抱えられた態勢では至近距離に壮麗な顔もあるし、抱えられている大きな手には、まるで大事なものを守るように包まれているしで、急激な羞恥心を煽られ、顔が一気に熱くなる。
しかし、そんな羞恥に浸って顔を眺めている場合ではなくなっていた。騒ぎに駆けつけた大勢の騎士たちは「ゾムス様…!」と瓦礫の粉塵で薄汚れた男に寄り添い、体を支え起こそうとしていた。意識がはっきりし始めたゾムスは、こちらを指さし、「捕えよ」と絶叫のように甲高い声で言うと、続けて訳のわからないことを大声で宣っている。
「私が…、長年、神への捧げものとして…探してきたのに…!奪われて、たまるか!」
まさかと思い、ユーリは祭壇の方を振り返ると、その表面は赤黒いのだが、祭壇の下の方は本来の石の色が見え隠れしている。すぐさまゾムスへと向き直って、ユーリは声を怒りに震わせて問いかけた。
「ほ、他の捕らわれた人たちはどうしたんだ…」
「神の供物として捧げてやったわ。しかし、どれもこれも失敗に終わる!お前でないとだめなんだ…そうお前ではないと…」
「なんてことを」
「只の人が!神への供物になれたことに感謝すらしているだろう!」
ゾムスが何を願いたいのか、何を望んでいるのかは分からないが、そのために人を殺めてしまうなど、本物の狂人じゃないか。正気とは思えないゾムスを見据えながら、怖気を感じた体を微かに震わせる。周りの騎士たちの顔を伺えば、暗い色を浮かべているが、誰も動こうとしない。ここに、この愚行を止めるものはいなかったのだということを物語っていた。
「何をぼーっと眺めている、早く奴を捕えろ」
ゾムスは、蜥蜴さんの元にいるユーリを捕まえようと騎士をけしかけるが、雷を周囲に纏っている存在へは容易に近づけない。近づいては、打ちのめされるように弾かれている騎士たちの無様な様に、怒り心頭といったゾムスは叫び続ける。
「お前たちの家族がどうなってもいいのか」
その一声に、騎士たちの顔色から更に血の気が失せる。ユーリは瞬時に悟った。なぜ民を守るべき騎士たちが、蛮行に異を唱えなかったのかを。
ユーリは、眉根に皺を寄せながら目を固く閉ざす。容量を遥かに超える出来事が目の前で起こっていたが、ゾムスだけは許してはいけない、何としてでも、制裁を与えたいと心の中で強く願う。
すると、蜥蜴さんはユーリを浮かせたまま、自らの傍らに立たせ、自身は手のひらをゾムスや騎士に向けた。
「問おう。お前は何を願う」
静かなる声は荘厳な教会の威容を凌駕するほど、畏怖を胎の底から沸き立たせるように響き渡る。思わず蜥蜴さんを見上げるが、その視線は前を向いてこちらに一瞥もくれない。ゾムスからの供物としてユーリを貰い受ける気なのだろうか。不安な気持ちが込み上げるが、地に足が吸い付いてしまったかのように、蜥蜴さんの傍らから離れることが出来ない。
「尽きぬ命、そしてこの国の全て。この国ごとあなたに捧げよう、神に愛されしものとして私をそばにおいてくれ!私を神に押し上げてくれ…あなたの横にいるそのものよりも役に立つと、約束しよう!」
神になりたいだって?そのために自分以外は犠牲にすると?声高らかに演説するその姿に、ユーリは理解が追いつかないと頭を抱える。
周りの騎士たちも、やっと脅しに使われている家族すらも皆すべて犠牲にしようという狂人のために動いていたという事実に気づいたのか、恐怖で引き攣った顔で成り行きを見ている。そっとその場を離れようと後ずさっている者も少なくない。一方、蜥蜴さんは表情を変えずに、鼻で笑うと「過ぎた願いは、身を滅ぼすということを教えよう」と呟き、ゾムスまでの距離をひと瞬きの間に詰める。
「まず、ひとつ。この国の全てを手に入れるというのならば、お前の地位と記憶を大地の底に楔つけ、乞食の王の虜囚の惨めさをこの地の養分とするのが対価だ。そして、ふたつ。神に愛されたい、というのはお前の容姿と魂の資質では一生かかっても無理だ。生まれ直してくることを勧めよう」
ひとつ、ふたつと言葉を紡ぐごとに蜥蜴さんの禍々しく纏うオーラが圧を放っているが如く、ゾムスがその場に立っていられず地面に勢いよく突っ伏していく。
「みっつ。永遠の命を得るためにはこの国に生きている人々の命では足りない。まして、尽きかけているお前の命を延命するには国がいくつあっても足りない」
「つっ…き、かけて、…いる?」
圧迫されているのか、苦しそうに言葉を発しているゾムスの口からは血が吹き出す。助け出そうと側によろうとする騎士もいたが、何かに阻まれたように一定の距離から先に進めない。自分も巻き込まれてしまうのではないか、という恐怖心を捨て去ることが出来ずにいるのも原因のひとつだろう。
「なぜ、尽きかけているか。よっつ、お前が捧げようとしていた人物は、既に私のものだ。洗礼式にいたと言ったな、お前はあいつの資質を聞いてなかったのか。『妖精の偏愛』だったか? 上手いものだな、私が生まれたばかりのこの子の魂に刻んだ言葉をそう表現するとは…」
「た、…助け、で、ぐれっ…しら、なかった…んだっ」
「知らなかったなどと、宣う愚かな者よ。いつから自分のものだと思っていた? もう一度言うぞ、私だけの子だ。私から奪うなど、この世に生を受けたことを後悔して死ぬがいい」
息も絶え絶えなゾムスの耳元で何かを言うと、軽快な音を指で鳴らす。人が、潰れる音がした。
こちらを振り向いた蜥蜴さんの後ろで砂のように舞い上がる何かが、一陣の風に攫われていく。
「と、かげさん…」
少しでも疑ってしまったことが伝わったのではないかと怯えたような声をだすと、ゾムスがいたであろう所から、また瞬時にユーリの元に戻ってきた妖精は、襲いかかるようにユーリを抱きしめてきた。驚きに体が跳ねるが、その体を逃すまいとでも言うかのように、きつくきつく抱きしめられる。
背中に手を回して、ユーリが撫で返すと少し力が緩まった。「帰ろう」と呟きが聞こえる。返事も待たずに、ユーリを抱えた蜥蜴さんは、遮るもののない上空へと再び上昇していく。
その場を動けない騎士たちは、呆然と二人の姿を見送っていたが、場を制圧していた蜥蜴さんが離れていったことで、緊張状態から解放され、安堵している様子がちらりと目に入る。
「助かった、と思うまいな。お前たちも私のものに手を出したろう」
騎士たちへと向けられた心の臓が冷えるほどの声色は、上空から街全体へと聞こえ渡り、雷鳴が響き渡ったかと思うと、幾重もの雷が教会へと降り注いでゆく。息をつく間もなく降り注ぐ雷は、全てを破壊するまで止まることは無かった。
破壊の限りを尽くした雷鳴と雷がおさまったあとの、足元に広がった街全体を眺める。教会、いや教会があった場所以外は綺麗な街並みを残していたが、騒ぎに気づいた人々が暗闇の中、家の外に出てきては教会の有様にざわめいている。
「大丈夫かな…」
「国が何とかするだろう」
後始末のことを考えて発した言葉に、冷たさを含む言葉が返ってくる。ふと、訪ねてきた獣人の彼が脳裏を過ぎるが、何かを考える気力がほとんど残っていないユーリは、そうだね、と返事をすると蜥蜴さんにもたれかかるように体を預けた。
「帰ろう、家に」
微かに頷いた気配を感じ、ユーリが永く忌み嫌ってきた喧騒のすべてが一瞬で遠のくのが分かった。
鍵を閉める金属音が鈍く鳴く。意識がはっきりとしてくると、暗がりと月明かりが差し込んだ先にベットが照らされて置いてあるのが見える。背後で、布の擦れる音が聞こえた。振り返ろうとすると、その前に覆い被さるように後ろから抱きしめられる。
蜥蜴さんの吐息が耳にかかると、鼻をすするような音がした。
「泣いてるの?」
何も言わない蜥蜴さんは、抱きしめた手を緩めず、ユーリの耳に唇を這わせたり頬を擦り寄せたり、首元の匂いを嗅いだりと、存在を確かめるようなその挙動に、くすぐったさを感じるが、心配かけてしまったという思いから逃げずに、じっと受け入れる。
しかし、鎖骨に回されていた両腕はいつの間にか片腕で蜥蜴さんの胸元に縫い付けられるように抱き寄せられ、片腕は腰元に回されている。やがて、その手は浮き出た腰骨を撫でると、するりと服の裾を手繰りあげて中に侵入してくる。その間も、耳や首元への愛撫も吐息も荒々しさを感じるほど執拗になる。水音まじりの口吸いがなされると、ユーリの背筋は快感をひろうように反っていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます