第19話

大教会の白い石造りは、外部からの侵入を拒むかのような潔癖さと威容を感じさせる雰囲気だったが、ひとたび中に入ると敷き詰められた絨毯が、拒絶を緩和するように訪れた人の足元を包む。上質な絨毯は教会中に敷かれており、廊下に立ち並ぶ美術品は金の額縁に囲われた人物の絵や風景画、美しい陶器の壺。天井から吊るされた豪奢なランプは煌々とその場を照らし出して、本来ならば厳格であるべき建物の内側で、過剰な装飾の派手さを増長させている。異質だ。

元々の堅牢で厳かな石造りの壁や天井は、確かに外観と同じく外部の者を拒み、清貧さや慎みを求めてくるようなのに、教会を彩る財たちはその逆をいくように贅を貪ろうとしているように見えた。


上質な樫の扉を開くと、部屋の中央で書き物机の椅子に深く座り込んだやせ型の男が顔をあげ、不快そうに顔を歪めて騎士を見た。しかし、その間に挟まれているユーリが視界に入った途端、嬉々として勢いよく立ち上がり、蹴倒して倒した椅子を気にも留めずに両腕を高らかにあげて近寄ってくる。

「なんと、素晴らしい」

極まったかのように感嘆の声をあげた男は、ユーリの目の前までくると、恍惚とした表情で嘆息を漏らしながら、触れようか触れまいかともたもたと逡巡するように手を彷徨わせている。長年求めた宝石を鷲掴みにしたい気持ちと、その稀少さを噛み締めすぎておいそれと手を出すことが出来ない気持ちがせめぎ合っているような様が、あまりにも不可思議な挙動に見え、気色悪さすら感じさせ、ユーリは距離を取ろうと体を拗らせてもがく。しかし、両脇の騎士に両腕をがっちりと抑え込まれているため、その場で体をのけ反らせるので精一杯だった。ひとり恍惚の中にいる男はたっぷりとユーリを眺めた後に、頬に手の甲を寄せようとしてくる。避けようと素早く顔を背けたが、逃れることはできずに輪郭を撫でられた。

気持ちが悪いと思った瞬間には、男の顔に向けて唾を吐きつけていた。すると、それまで酔いしれるような挙動をしていた男は、憎々しげに顔面に吐かれた唾を拭いながら激昂する。

「隣の部屋に連れていけ!もっと早く見つけていれば、こんな汚らわしい事はけっしてさせないように躾たものを…!」

よろけて、数歩後ろに下がった痩せた男は、背後にある机の上にある書類を激昂した勢いに任せて散らばらせるわ、飾り棚の装飾品に向かって癇癪のように本を投げるわ、目につく全ての物を破壊し始める。怒る男のあまりの昂りようにその場の皆が呆気にとらていたが、はたと気づいた騎士が、狂気からそそくさと離れたいと言わんばかりに、ユーリを抱えて飛び込むように隣の部屋に滑りこむ。

隣の部屋は、広大なスペースに赤黒い祭壇がひとつ置かれておりその他には何も見当たらない。ユーリは心の中で舌打ちをする。触媒が見つからないことに焦りを感じてこめかみに一筋の汗が流れ落ちた。

騎士は、少しも歩みを緩めず祭壇までユーリを運び、厄介な荷物を捨てるように乱暴に下ろす。体の節々が痛んだが、上体を捻って祭壇から転がり落ちようとしたところを、駆けつけたもう一人の騎士に抑え込まれる。

「やめ…ろ、お前ら、変だと思わないのか!」

「…上の命令は絶対なんでな」

異常だということには気がついて居て、自分の身に降りかかりそうな厄介にばかり聡く、本音では関わるのも嫌がっていそうな保身と傲慢を感じさせる態度なのに、それでもなお、あんな薄気味の悪い狂気の元に従っている騎士たちの思考にユーリが驚嘆している間に、祭壇に打ち込まれた杭に、縄で手足を縛られ拘束される。

「お前も命が惜しくば大人しくすることだな。…さっきみたいな真似はするなよ。お前みたいなやつのせいで、俺らが死にかけるなんて冗談じゃない。なにかしでかす前に殴り潰してやりたいくらいだ」

言い残された言葉に、ユーリは思わず口をついた汚らしい言葉を吐きつけたが、足早に去る騎士二人は振り返ることもなく部屋を出ていく。

どうにかしなければ、何かないか、と自分の体や周りを見渡すと、手首に血が滲むが見えた。『血を触媒にする方法もあるが、…それに関してはおいおいに話そう』脳裏に蜥蜴さんの言葉が過ぎる。あの時、その事についてもっと聞いておくべきだったと後悔の念が押し寄せてくるも、言葉足らずな蜥蜴さんに八つ当たりをしたい気持ちが同時に募る。しかし今はこれしかない。自分の血にどこまでの力があるかは分からないが、他に頼れるものなど何も無い。

括られた縄に手首を擦り、さらに血を滲ませて心の中で触媒を捧げようとすると、隣の部屋と繋がる扉が勢いよく開いた。先程暴れ回っていた狂気の男が、手に長剣を携えて大股で祭壇に近づいてくる。鬼気迫るその形相は、人間とはもはや言い難く、強い危機感が一気に迫り上がってきて、声が上ずって上手く出せなくなる。闇雲に縄から逃れようともがきだしたユーリと、靴の音を高らかに響かせて近づく男の距離はもう目と鼻の先ほどだ。

高く振り上げられた剣に、ユーリはきつく目を瞑った。

「助けて…、蜥蜴さん…!」

瞬間、地響きのような音が心臓ごと全身を揺らし、一拍の後には轟音と共に激しく瓦礫が崩れ落ちる音が部屋に響いて満ちる。うっすらとユーリが目を開くと、禍々しい黒いオーラを纏うローブ姿の男が、ユーリが括り付けられた祭壇と、剣を振り上げたまま硬直する狂人の間に浮いていた。

浮遊する男は、パチパチと弾ける小さな雷撃たちを身に纏い、ローブをはためかせ、張り詰めた不穏な空気を醸し出している。

「名を、言え」

怒りを抑えるような低い声が放たれ、ユーリが体をビクつかせて目を瞬かせる。声をあげようとすると、急に現れたローブの男を挟んで向こう側に、長剣を携えた狂人とユーリの目が合った。我先に、と長剣を携えた男のほうが先に名乗りを上げてしまう。

「私は、ゾムスだ…!あ、あなた様は、か、神なのだろう…?」

自らの名前を張り上げ、たどたどしく続く言葉を紡ぐと、ゾムスと名乗った男は膝から崩れ落ちる。そのまま浮遊する黒衣のローブに縋ろうとしたが、見えない壁に雷撃が走ったかのようにバチバチッと凄まじい音が鳴り響く。瞬間、ゾムスの体を大きく後方へと弾き飛ばした。

弾き飛ばされたその行方よりも、耳を疑うような言葉を、ユーリは反芻せずにはいられない。

「神…だって?」

しかし、未だに禍々しいオーラを放つローブ姿の男が近くにいるせいで考えることに集中出来ない。思いつきそうな、その考えに至りそうなのに。

吹き飛ばされた向こうでうつ伏せた身体を震わせ、男が起き上がろうとしているが、それに構うことなく黒衣のローブがユーリの方を振り返り「名は…?」と先程よりも更に低い、地を震わせるような声で問いかけてくる。

「と、かげ…さん?」

振り返ったその姿は、額から黒々と艷めく角が剥き出しに生えている。ローブのフードで見え隠れする首元の鱗も、少しの光を吸収して反射しているためか、ひとつひとつの輪郭が浮き上がって見える。確かにその容姿は蜥蜴さんであるが、普段の見慣れたその人とは打って変わって、全く知らない別物として認識せざるを得なかった。

状況も、周囲の存在をも忘れ、二人は暫しの間無言で見つめ合う。蜥蜴さんがおもむろに手を差し出してユーリの頬を撫でるが、いつもの蜥蜴さんではない気がして体が強張る。

「名と願いを告げよ」

いつもの蜥蜴さんではない。けれど、確かにこの存在は、この声の響きは蜥蜴さんであると確信できる。意を決してユーリは名前を告げ、助けて、と絞り出すような声を出した。「契約は成された」と、無機質な表情から言葉が返ってくると、括られていた縄が自ら解けていく。

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