第9話

「ちゃんと、教えて!」

「いや俺は読めとしか言ってない」

「読んだ!しかも、教会のみんなと手もつないだ」

「は?」

「ちゃんと教えてくれないのが悪いんじゃん。湖の側でやってた時は近くにいた妖精たちにも笑われたんだよ!」

「それは、予想外すぎる」

男は、笑いが漏れないように口元を抑えてはいるが、肩の震えから笑っていることが伺えた。男の笑うところなど初めて見るが、その珍しさよりも、からかってきた小妖精たちを思い出して憤慨していたユーリは、切に訴える。

「あなた以外の妖精なんて産まれてはじめて見たのに、喜ぶどころじゃなかったよ! あんたが師匠になってくれるって言ったんだから、責任取って!」

「弟子にした覚えはないんだがな」と呟く男を、キッとにらみつけたユーリは、両腕を伸ばして手のひらを男に向ける。

「ほら、早く!」

まだ笑いが収まらない様子の男だったが、差し向けられたユーリの手にそっと指先で触れると、そのまま長い指はユーリの手のひらの感触を確かめるように添わされていく。一回り大きな手は思ったよりも優しく重なった。

「あ」と吐息のような小さな怯えを漏らしたのは、湖にいた妖精たちが「あれじゃダメよ」とクスクス笑いながら、サイモンにすらも置いて行かれて落ち込んでいるユーリを取り囲んできた時、その小さな手のひらでユーリの髪や腕にぺたぺたと触ってきた時に感じた、何かに近いものの感触があったからだ。

それはピリピリ、パチパチ、という感触に近いものもあれば、スッと冷えるような、あるいはじわりと熱さが広がる温度の感じ、不意に針を刺されたような痛みだったり、身体の内側からつねられるような感触だったりと、ユーリをいじめて楽しんでいる妖精の悪戯のように感じたのだ。

「待って、ちょっと怖い」

「なにも怖いことなんかないだろう」

塔の男は手を離すことなく、まったく動じていないかのような態度でユーリを見下ろす。ユーリからしてみれば、大きな手から放たれる悪戯は、どれほどの衝撃だろうと怖くて仕方ないのだが。

「風をまとわせるイメージだ。捕まえられるか?」

くっついたまま、硬くなって萎縮してしまったユーリの指のまわりを、なにか軽やかなものが包んでいくような感触があった。くすぐったいというよりも、こころよくサラサラとした、生まれたばかりの新しい風が、自分の手とも男の手とも、どちらとも言えないようなあたりからどんどん溢れ出してくるような気がした。

「風…、風って捕まえられるの? まとったり、自分の側に置いておけるものなの?」

見上げるユーリが素朴な疑問を投げかけると、伏せ目がちに見下ろす男は、静かな声音で「風はいちばん難しい」と、言った。

最初は簡単なものから教えてもらえるものだと思っていたユーリは、その返事に露骨に眉をひそめる。やはり妖精は悪戯で意地悪をしてくるのには違いないじゃないか、とまた文句を言いかけた。

「資質を循環させる感覚を知るには、まず自分の中にそれを通す感覚を知ることだ。外から受け入れて、自らも差し出す」

男がそう言った瞬間だった。指先のまわりに絡まっていた風が、するりと身体の内側に入り込んできて、ユーリの中を一気に通り過ぎるように背後に吹き抜けた。

「……!今の、身体の内側が風の通り道になった気がした! 風がぶつかってくるんじゃなくて、俺のいる場所をそのまますり抜けたよ」

わけのわからない感覚に興奮して目を見開いても、男は「気持ちがいいだろう」と穏やかに告げるばかりだったが、ユーリは今日まで繰り返し脳内で思い出した本の解説と、先ほどの男の言葉を思い起こして気持ちが先を急ぐ。

「俺も、あなたに送ってあげることができるの? これを循環させて、交換するの?」

「こうやって自分たちで回しあっても、役には立たないな。これは慣れて感覚を掴むための、遊びのようなものだ」

「遊び?」

何度でもユーリがたずね返す。ここは室内で、今日は塔のどこかの窓が大きく開け放たれているのを見た記憶はないのだが、朝露に浄められたような風が惜しげもなく二人の手の間から湧き出している。寒くはない。目の前の塔の男の髪も、風に晒されたように不思議とそよいでいる。きっと自分の前髪も同じだろうとユーリは思った。

「お前の風は、俺と相性がいい。呼べば返ってくる」

返ってくる、と言われた瞬間。今度はさっきとは逆に、身体中の呼吸を一気に男に吸い上げられたような感覚になった。ユーリ自身が差し出したのではなく、無理矢理なにかを持っていかれたような感覚に、思わず苦しくなって息を詰める。

「ん…っ?!」

「大丈夫だ。手が繋がっている」

塔の男がユーリに歩み寄って身体を寄せ、互いの視線が絡む。空っぽになりかけたユーリの元にはまた柔らかな風が返ってきて、安堵と快さと共に全身を満たす。それが、さっきのように背後へと吹き消えてしまう前に引き止められると、今度こそ「循環」するかのように、男の元にゆっくりと戻っていく感覚が確かにわかった。

わかった。と伝えたいのに、言葉を漏らせばそこから空気が漏れ出してしまうような気がして、ユーリは塔の男の端正な顔立ちを潤みかけた瞳で見上げながら、唇をわずかに動かすことしかできない。

こんなものは遊びで役に立たないと男は言ったが、呼吸を分かち合うように循環が繰り返されるたび、風はむしろ浄められたように純度を増して、美しさが磨かれていく。ユーリにとって優しくて、どこか懐かしさを感じる風の感覚は、塔の男の人間離れした美しさそのものに包まれている気がして、頑固なユーリがいずれ、この行為がもっと上手くできるようになりたいという決意をかためるのに充分だった。


結局はじめての時は数分ほどでユーリの集中力が切れてしまったが、風の素質を捕まえたことは、ユーリの中では人生観が変わるほどの鮮烈な経験になった。あれ以来、ユーリがねだって互いの手をよく繋ぐようになり、時に男はユーリを傍らにぶらさげたまま万年筆を机の上で走らせ、時に寝落ちをする。男の身体を存分に練習台にしながら、ユーリは自分の中だけでも素質の純度を高めるような循環の方法を見つけつつあった。

「大教会に行って祈り手になる時、みんなこういう練習をするの?」

疑問を問いかけると、男は視線をユーリの方へと寄越して答える。

「こんな古典的なことはしない。というよりも、素質をそのまま扱うような考え方は絶えてしまったんだろう。前にも言ったが、祈り手は薬作りや回復魔法の専門だ。そちらの腕をあげるのに専念するだろうな」

「回復魔法…。こうやってあなたと循環をしていたら、ちょっとした風邪とか怪我も治っちゃいそうだけど。感覚じゃなくて、もっと難しい勉強をするっていうこと?」

何かユーリが面白いことを言ったのか、塔の男は目に微かな笑いを含ませた。これが男なりの微笑みだと言うことを、ようやくユーリは覚えてきた。

「それだけでも心地がいいのは、相性のせいだ」

断定されてしまい、ユーリは二の句が告げなくなる。運命と相性の話は、複雑な計算や用語が出てきてしまい、ユーリにとってはややこしくて難しすぎるし、今は彼のように占星術師になるつもりもなかった。

「ううん…それなら、初めて会った時にあなたは回復魔法が苦手だっていってたよね? じゃあ、次は薬の作り方を教えてほしい」

「薬の根幹は材料」

そう言った蜥蜴さんが指をならすと、机にあった紙類や本が、ひとりでに片付いていく。ユーリは、いつもそうやって片づけたらいいのにと蜥蜴さんの無精さに苦笑いしつつも、ひとりでにしまわれていくその光景を黙って眺めていた。

一通り片付いた書斎の机には、しまわれていったものたちと交換に、ユーリが抱えるには少し大きい革張りのケースが置かれていた。

「これは何?」

そっとケースに触って蜥蜴さんに問うと、ためらいなく蓋を開けてその中身を見せてくれる。そこには宝石というほどには磨かれていないが、それでも大小さまざまな彩りの神秘的な鉱石が詰まっていた。

「鉱石だ。今まで資質を循環させてきたろう、今度はそれを鉱石に留めるんだ」

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