第8話

更に時は遡る。あれはやっと、塔に行くことをシスターに許してもらえた日のことだ。

シスターたちに対しては、自分を守れるくらい強くなって、この街に残りたいと断固として大教会へ行くことを拒否し続けたし、その方法を教えてもらえる見込みがあることも必死に説得した。

洗礼式が過ぎてすぐの頃のユーリは、教会での役割を終えるとサイモンや双子を振り切り、森を駆け抜けた。しかし、いざこれから塔の男に会うのだと思うと、微かに恐怖が湧き上がる。数回の会っただけの相手だが、あの男が発している威圧的な空気は、決心をもって塔へと駈けるユーリの足でさえ、なんとなく鈍らせるのには十分だった。

「おはよう、ございます…」

塔の扉は施錠がされていなかったようで、ノックするとひとりでに開いていく。恐る恐る中に入ると、自分にも聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で挨拶する。

塔の中は、しんと静まりかえり人一人いないように思えたが、水場の方からカタッと何かが動いた音が聞こえた。その音が耳に届くと同時に自分の体もびくりと跳ねるが、深呼吸をひとつして心音を落ち着かせると、水場に足を向けた。

「だれかいるの?」

意を決して水場を覗くと、水場の縁に座り、壁に背をもたれかけながら眠っている塔の男がいた。

水場に差し込む朝日が、大きな窓からたっぷりと注いでいて、塔の男を優しく包んでいる。陽の光を浴びる男の髪は艶やかなのに、煌めいてみえ、肌はきめの細やかさと陶器のような滑らかさを持っていた。やっぱりこの男はきれいだな。人の姿を装ってはいるが、人が持つ美しさやきれいさで表現できるものでもないと直感的にユーリは感じた。

ユーリは吸いこまれるように、男に近づくと、そのきれいな肌に手を伸ばす。

瞬間、男の目が見開かれた。瞳の中にユーリの姿を写したのをはっきりと見てとれた。

驚いたユーリは、手を引っ込めることも忘れて男と見つめあったまま静止した。

「何をしてるんだ」

男は、微かに視線をユーリの手に移したあとに、またユーリの目を見据えて問うた。男の鋭い目とは対照的なやわらかい声に思わず、本音をもらしてしまう。

「きれいだなって、つい」

言っているそばから恥ずかしくなり、頬が朱に染まるのを隠すようにうつむくと、ふっと柔らかく息を吐く音が聞こえた。

笑った…?ユーリは男の顔をみようとすぐに顔をあげるが、男はすでに立ち上がりユーリの横を通り過ぎようとしていた。

「なぜここにいる」

「お、教えてもらいに…身の守り方を」

ユーリは、男に咎められたように感じて、言葉尻が消えゆくように訴える。

もしかして、あの時の言葉は気まぐれで言ったのだろうか。男はこめかみを揉みながら「今日からだったか?」と自身に問うように呟いた。勝手に押しかけたことに気づいたユーリは気まずさに苦笑いを浮かべつつ男の次の言葉を待つことにした。

「まぁいい、俺はこれから寝るから本でも読んでいろ」

「え?今から寝るの?」

「そうだ、俺に教えを請う気なら俺の生活に合わせるんだな」

「いい大人が今から寝るの?」

鬱陶しそうに目を細めた男は、何も言うことなく水場を去っていく。せっかくシスターを説得してここにきたのだから、何かを得るまでは寝かせまいと必死でついていくと寝室と思わしき扉の前で男が急に立ち止まった。

「寝ないでよ、教えてくれるまでついてくよ」

声かける好機だと思ったユーリは、立ち止まる男の背に向けて、教えてくれとせがむ。男は深い息を吐き出した。

「俺は一緒に寝てもかまわないがベッドはひとつだ」

「他人とは寝たくないかな…」

「お前は俺の運命だからな、他人ではないな」

「またそれ?」

実感が伴わず、あきれた声も隠そうともしないユーリだったが、男は振り返ると真顔でユーリを見下ろしてくる。まさか、本気で一緒に寝ようって誘っているのか、この妖精。

これは人間の生活とはなんたるやを教えないといけないかもしれないと、ユーリも密かにため息をついた。

「あのね、朝陽が昇ったら起きるの、寝ないの。だから、寝ないで教えて」

「それはお前の習慣だろう」

「うん、でもあなたに合わせてたらちっとも進みそうもないんだもん。だから俺に合わせて」

この一瞬でずいぶん図太くなったなと自分でも感心してしまいそうになったが、ここで引いてはいけないと感じていた。男はユーリの言い分などまるで介していないかのように、無表情のままだったが、やがて「こい」とユーリの腕をつかむと半ば引きずるように、本で埋め尽くされた書斎に連れていく。

「今日はこの本を読め」

男は、本棚にしまわれていた本を取り出してユーリに手渡す。そして次の瞬間には捕まるまいと素早くその部屋を去って行った。手渡された本を眺め、あっけにとられたユーリだったが「読めない…!」部屋の外に向けて大声で言うと、「読める」と男の声が返ってきた。その声は決して大声ではないのにユーリの耳もとで確かに聞こえた。

半信半疑ながらも、所在のないユーリは手元の本のページを捲ると、教会では読めなかった文字がはっきりと分かった。

なぜこんなことが可能なのか。俺に何かしたんだろうか。それともこの本に?瞬間的に尽きない疑問が脳内を駆け巡るが、今まで読むことのできなかった本が読める事の衝撃が上回って、すぐに目の前に集中することになる。

「資質の循環…?」

内容が読めたとしても、意味がわかるかは別である。

初手から、ユーリには何について書かれているかさっぱりだった。そのページに人間を模した形の中を循環しているようにぐるぐると矢印が描かれている挿絵があったが、その絵を指でなぞりつつ、他に手がかりがないことに途方にくれる。

読めないのならば実践か。なぜかどこからともなくできるような根拠のない自信が湧いてくる。ユーリが、この実践が無謀な行為ということを知るのは、ほんの少し先だった。

さて、挿絵の通りなら「循環」とは体の中を何かしらぐるぐるすることであろうと、ユーリは体の中に意識を向けてみる。

「じゅん、かん…」

口に出してもみる。が、何の変化も起きない。そのあともふん、はん、と体に力をこめてみるが「循環」している状態に到達してるとは思えない。しばらく、思い付く限りの様々な方法を試したが、全く進展がない上に、変に力んだせいか、体がだるく感じたため、実践することはやめて、一人掛けのソファに体を深く沈めた。

「教えるとか言って放置じゃん」

まじめに読む気が起きずに、本を片手にページを無造作に捲ると、また新なページに挿絵をみつける。

「これ、は…できないわけだよ」

なんとそこには、手を繋ぐように人型が二体描かれ、その絵の下には他者から学ぶのが早いと注意書きのような文言があった。

自分がどれほどの時間がかかることをしようとしていたのか、その一文で途方もない気持ちにさせられた。その後のユーリは、なんとか気力を取り戻したが、資質を混ぜて魔法を使うにはどうするかを書かれた書物を大人しく読み続けるほかなかった。


こうなったら男の生活に意地でも食らいついてやると意気込んだユーリは、帰ってすぐにシスターに無理を言い、昼までの約束だったところを、次は陽が傾く頃まで塔に居残ることを頑固にねだった。

更に、資質をまぜて体を巡らせるというそれを、自分の工夫でなんとかできないかと考えを続けた。

最初は、シスターたちに片っ端から「ちょっといい?」と声をかけ、挿絵の構図を真似て手を重ね合わせることから始めた。手を合わせながらぶつぶつと小声で、覚えてしまった本の解説を復唱するように呟いたり、シスターに「混ぜてみて!」などと唐突に懇願するユーリの奇行は、その様子がとても真剣なことでシスターたちをおおいに困惑させた。

次はサイモン、双子たちにも手を繋いでもらう。こちらはその度にからかわれたり、くすぐったがられて笑われ続けたり、本気でユーリがおかしくなったかと心配されたりと、散々な目にあった。

頑張った分だけ、もう塔の男に文句を言ってやろうと思い切る頃には、ユーリは怒りを越えて途方にくれてしまうほどだった。

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