第7話

数年後、王都郊外の教会。


「シスター、それじゃあまたね」

「ユーリ、何かあったらいつでも戻ってきてもいいのよ」

心配そうに見つめるシスターたちを見下ろす日がくるとは。大丈夫、もう大人だからね。と教会の入り口に置かれた少ない荷物を手に持った。

本当にありがとう、とだけ言うと名残惜しさを振り切るように、足早に歩き出した。

この数年で少年の無邪気さをどこかに置いて、大人びたユーリは道行く人が振り返るほど美しく成長した。伸びた髪が風に攫われて柔らかくなびいている。颯爽と街を歩くユーリに街娘はため息をつき物陰から見つめている。

「ユーリ、ばあさんが探してたぞ」

「ああ、ユーリ!薬切らしてしまったの、あとで頼めるかしら」

「この間の薬とてもよく効いたよ、ありがとうな」

街を歩くと、四方から声がかかる。一人一人に答えていくユーリはこの街の薬師として認められるようになっていた。それもこれも、あの男のおかげである。

街の用事を一通り済ますと、ユーリは小高い塔へと足を向ける。今日からあそこが帰る家になるのだ。数年前の俺には想像もつかないだろうが、あの男のおかげで穏やかな生活を手に入れることができるようになったのを感謝せねばならない、と懐かしむように当時のことを思い出した。


「師匠ー、蜥蜴さん!起きる時間ですよ。俺のお勉強の時間ですよ!」

この男と過ごすようになってから知ったことがいくつかある。まず生活サイクルが俺と真逆、陽が沈みだしてから起きてくる。そして、起きない。相当うるさくしても無反応なのだ。今だって、鍋をお玉で打ち鳴らしているのに布団を頭の上まで被り微動だにしない。布団を思い切り剥いで耳元に近づく。

「起きる、時間、ですよー!」

うるさい、と不機嫌な声色で呟くと長い手がユーリに伸びてくる。その手に捕らわれないようによけると空を掴んで戻っていく。最初のうちはこの手に掴まれてベットに引き込まれ、ホールドされたまま起きるのを待つしかなかった。初めは美しい造形が目の前にあることに胸が高鳴って落ち着かなくなっていたが、それにも慣れてしまってからは、肌をつまんでこねて遊ぶことを覚えた。そして、今は避けることを覚えたことで前よりも早く起こすことが出来るようになっていた。

「ああ、起きないとなのか…」

やっとのことで起こして水場につっこむまでが、勉強開始までのルーティンになっていた。

顔を洗って身なりを整えた男が戻ってくる。先に席に座って、本を開いて待っていたユーリは、遅いよ、蜥蜴さん。と少し不貞腐れたように言うが、悪びれる様子のない男は、ふっと息を吐くように笑った。蜥蜴さんが、勉強机の横に簡素な木椅子を引いて座る。その横顔を見つめて紡がれる言葉に耳を傾けながら、視線を首に移せば、首元の動物の入れ墨がご機嫌で動き回っている。入れ墨が動く。あり得ないことに驚いたユーリも今では微笑ましいとさえ感じていることに苦笑いを浮かべた。

初めて入れ墨が動いてるのを見たのは、彼を起こそうとして返り討ちにあい、ベットへと引きずり込まれた時だ。黙らせるついでのように抱きかかえられてしまい、動けないまま暇を持て余したユーリは、やすらかに寝入る男の顔を食い入るように観察し終えると、首筋に彫られた入れ墨の動物に視線を下げた。

「ヤモリ?」

そっと首筋に彫られた動物に指を添わせると、くすぐったいというようにユーリの指から逃れて、男の鎖骨の方に逃げていく。

「わあっ!」

大声を上げて思わずのけぞるが、ホールドされている体は少しも動かない。

「ちょっと、あんた、起きて。ヤモリが、ヤモリが動いてる!」

「…何のことだ」

不機嫌であるという声色の男の眼はいまだに閉じられている。

「首!首だよ、あんたの首!」

「…これはヤモリじゃない。トカゲだ。全然違う」

「そうじゃなくって、それが何でもいいけど動いてるよ!動いたんだって!」

「動くだろう、使い魔だから」

思い返してもなんて理不尽な答えだろうと思えるほど、当たり前のことのように言う男に、何も言えなかった自分が悔しい。今なら、あんたの当たり前を当たり前と思うなくらいは言ってやれるだろう。

それはそうと、困惑するユーリを見かねた男が、妖精の使い魔について教えてくれた。自分の分身のようなもので、代わりに仕事をこなしたり、雑用をこなしたり、家事までしてくれる存在で、用途は主人によって違うが、使わないときはアクセサリーとして身につけている者や、入れ墨として傍に置いておくのが妖精種の一般的らしい。これが知ったことの二つ目だ。


「聞いているのか」

ぼんやりとしていたのに気づいたのか、蜥蜴さんは講義を中断し、机に頬杖をついてこちらをみている。

「ごめんなさい。少し前のこと思い出してた。ほら、名前のこととか」

ユーリは自身の首元を指すと、男も自身の首元を触る。それがなんの事だか思い出したように男は頷いた。

男には名前がなかった。初めからないのか、捨てたのか、それはわからなかったが、名前を聞いたときに、無いと言われたユーリは不便に思って、首元の動物の名前で呼ぶようになったのだ。

固有名詞などなんでもいいと言っていた割には、名前で呼ぶと喜んだように表情が綻ぶ。これはユーリにしかわからないだろう。蜥蜴さんは、表情が豊かな方ではないが、一緒に過ごしていくうちに少しの機微でもわかるようになったことがユーリは嬉しかった。これも知ったことのひとつだ。

この美しい男の様々な表情や仕草、所作が自分にだけ向けられるのが、教会育ちのユーリには特別なことのように感じられた。

教会では、みんなに平等にひとつずつなのだ。でも、ここではユーリにだけをたくさんくれる。ユーリにとって蜥蜴さんが、一番になるのにそう時間はかからなかった。

ただ、それが友愛なのか、恋愛なのか。男が男を好きというのがどういうことなのか、その時のユーリには分からなかった。

勉強の時間が終わると、ユーリは教会へと帰るのが昨日までの決まりだった。教会までは、毎日のように蜥蜴さんが送ってくれたので、不信感を示していたシスターたちも今ではすっかり信頼しきっている。

そして、帰っていく蜥蜴さんの後ろ姿を見送る。そんな日々を送っていた。

まだ身体が成長しきらない頃は、陽が沈む前だけ塔に行っていたが、文字の読み書きや、知識が増えると本読む時間も増えていった。陽が高いうちから塔に入り込んでは、たくさんある書斎部屋の本を読み漁り、読み疲れたら図鑑を頼りに薬草を摘みに森に行ったり、覚えた魔法を使用して調合したりと、着実に学びを得ていく。

また、自分の身の守り方を教えてもらうのも忘れていない。生活魔法としての火や水の扱いは街でも目の前でみていたが、身を守る防壁や、攻撃を行使する魔法は難しかった。魔法はこの世界の精霊や妖精の力を借りて行使する。生活魔法は、果物や使い古した服、身近にある全てのものを触媒として利用出来るので、そこまで貴重なものはいらないのだ。しかし攻撃や防御の魔法となると、大きな力を貸して貰わねばならず、より大きな対価がいる。求められる対価は妖精によってそれぞれだが、ユーリは己の薬の価値を高めて触媒にすることによって力を貸してもらう。契約を交わすなどという確かなものはなく、その場にいる精霊や妖精に祈りを込めるのだ。

触媒の作成についても苦労した。半端な薬は精霊や妖精たちから嫌われ、少しも力を貸して貰えない。火、水、風、土。この四つの資質がバランスよく混じりあっていれば薬師として長けることが出来ると言われてはいるものの、魔法を行使する上で四資質を同じく引き出して薬に込めないといけないのだ。だから、資質が混じりあっていなければ薬師にはなれないではなく、四つの資質を上手く扱うのに長けてるのが、薬師なのだ。魂が混じりあっているものは少しだけ有利である、ただそれだけのことだった。

薬を調合する際に使用する魔法の触媒は、いく日か置きにくる商人と取引をしている蜥蜴さんが、ユーリ用に確保してくれた小さな鉱石を使っていた。毎日、飽きもせず勉強、収穫、調合を繰り返した成果として、ユーリの薬は街を越えて、商人との取引によって王都にまで届くようになっていた。

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