第3話

確かにそこに塔は見えているのに、一向に森を抜ける気配がない。ここまで奥深い森だとは思っていなかったユーリは、少しの焦りを感じる。振り返っても馴染みのある湖は全く見えない上に、戻る道も分からない。

この時期は陽が落ちるのが遅いはずなのに、森の中は暗く鬱蒼としておりユーリが知っている森の様子とは明らかに違い、心細い気持ちがこみ上げる。いや、ここまで来たら進むしかないぞ。と自身に活を入れ、また一歩森の奥へと足を踏み出す。

突然、風もないのに低木の葉が大きく揺れる。揺れた方に体を向けて、目を凝らすが暗さと茂る低木が遮って何も見えない。近くに武器となる棒は落ちていないかと、少し目線を落とすが都合よくそんなものはない。

潔く諦めて、揺れた低木から目をそらさず後退りする。後方には塔が見える。あそこまで全速で駆け抜けるしかないと意気込むと、低木の葉がまた揺れるとともに低いうなり声が聞こえてきた。この唸り声は野犬だ…!

「おいおい、勘弁してくれよ…」

こんなところに野犬がいるなんて、なんてついてないのだろうと半ば泣きそうになりながらも低木との距離をとっていく。

じりじりと距離をあけていくと暗がりの方から野犬の姿がぬっと現れユーリの視界に飛び込んでくる。まずい。と思った瞬間には体を翻し、塔をめがけて走り出していた。

急に走り出した獲物を追いかけるように、唸り声と荒々しい呼吸を吐きながら野犬も走り出す。塔に近づくにつれて木々の枝が絡まりあい、体が小さなユーリが屈めば通れるような隙間しかなくなってゆく。体を拗じるようにくぐり抜けるのにもたついてしまい、野犬を撒くどころかどんどん距離が縮まっている。

くそ、遠くからは小高い丘に見えるだけなのに、こんなのは、まるで、山じゃないか!

シスターの言いつけを守らなかったことを後悔し始めるが、後悔したところで野犬が消えるわけではない。枝が、葉が、ユーリの柔肌に細かい傷をつけていくが痛みなど感じなかった。

ユーリの足元はおぼつかなくなり、体力も限界を迎えそうになったとき、大きな木の根が足をからめとる。しまった、と思った時には遅かった。転んだユーリの頭上を野犬が飛び越えていって進行方向に立ちはだかったかと思うと、間髪入れずに飛びかかってきた。

野犬の黒々とした瞳はユーリを捉えて離さない。ユーリもその野犬から目を反らすことができない。

助けて…!

神か、はたまた天使にだったか。ユーリは咄嗟にペンダントを握り締めながら心の底から助けを求めた。

すると、眩むような光が服の下から放たれる。咄嗟に目を腕で覆うが、光が放たれている場所が悪い。ユーリは視界のすべてを奪われる。野犬も、突然の閃光をもろに受けてしまいユーリを飛び越え低木の中に転がりこむように倒れこんだ。

何が起こったのか。光は収束し辺りはまた暗くて鬱蒼とした雰囲気を取り戻してはいたが、一向に視力は戻らない。野犬が転がっている隙になんとか立ち上がり、前に手をかざして、一歩一歩確かめるように足を踏み出すとすぐに何かにぶつかる。かざした手には、布のような感触が伝わる。

いまだに視界はぼんやりとしているが、ぶつかったものを確認しようと顔を上げると、確かにそこには人の顔をした何者かが立っていた。

「わっ、だ、誰なんだ!」

先ほどまでいなかった者が、急に現れたことに驚きを隠せずに大きな声を出し、後ずさろうとするが、ユーリは腕を掴まれ、その場に留まることとなる。逃れようと暴れると、低い通る声は「静かに」とだけユーリの頭上で言った。その言葉に暴れるのを止めて諦めたように項垂れる。

大人しくその言葉を受け入れたわけではない。ただ、相手が大の男で、野犬と男を同時に撒くことは今のユーリには無理だと悟ったからだった。

男は掴んだ腕を離さずに、少し屈みもう一方の手でユーリの顎を掴むと顔を持ち上げ、左右に傾けてしげしげと眺めている。

「小汚いな」

言い返そうと男の手を振り払った瞬間、野犬が回復していたのかユーリの背後から唸り声をあげながら襲いかかってきていた。油断した。と固く目を閉ざし衝撃に備えるが、一向に衝撃はこない。その代わり、突風が肌を掠めると怯えたような甲高い鳴き声と低木の枝が折れた派手な音が聞こえてきた。

閉ざした目を恐る恐る開けると、野犬は遠くまで飛ばされ気を失っているのか、こちらに戻ってくる気配はしない。

助けてくれたのだろうか。

「あの…」

「手当をしよう」

回復魔法は得意じゃないんだ。と少し不機嫌そうに呟き、考え込むようにユーリを見つめる男の顔はこの世のものと思えないほど美しいが、鋭利な視線で切りつけるようなその瞳はとても冷たい。いつの間にか、ユーリの視界は鮮明に周りの景色を捉えられるまで戻っており、目の前の男を認識し、怯えていたように瞳を瞬かせた。その様子に男は、深いため息をついた。そしておもむろにユーリを肩に担ぎ上げる。抵抗する間もなく、またしてもユーリの視界は奪われ暗転した。

今度は、陽の光の下だと認識できた。足も地面についている。開けたその場所は高くそびえる塔以外は何もなく、目指していた場所だった。

「俺…ここ来たかったんだ」

不可解そうにこちらを見た男は、なぜ来たかったのかとは問わずにその塔に入っていく。ここの主人だったことに驚いたユーリは一瞬呆けてしまったが、おいて行かれまいと小走りで男の背中を追いかける。扉を開けて待っていた男が、丁寧に招き入れてくれたことで警戒することも忘れ、好奇心の赴くまま塔へと入り込んだのだった。

誰も近付かない塔は中が魔境になっているかと思っていたが、想像していたよりも綺麗に整えられていた。人が住むように調理場や水場もあるが、塔の主要部分は大量の本と書きなぐられた羊皮紙たちが重ねられた、この部屋が占めているのだろう。簡素だが艶のある木で作られた書斎机には、座ってしまえば顔が隠れてしまうほど紙類や本が重なり、空いているスペースはわずかだ。

その部屋には申し訳程度にソファが置かれているが、見事に本に埋まっている。男が手を払うとソファに置かれた本が宙に浮いてひとりでに書棚に戻っていく。申し訳程度に片付けたソファに座るように促され、男は濡れた布でユーリの顔を丁寧に拭うと、手元の木箱から小分けの薬入れを取り出した。蓋を外し、中に入っていた粘り気のあるものを擦り傷に塗っていく。

「いっ…た」

「明日には目立たなくなる」

木箱に薬入れをしまい込み、また軽く手を払うとそれは元にあった場所にひとりでに戻っていく。

魔法を見るのは初めてではないが、今まで見てきた魔法と呼ばれていた事柄と目の前の出来事がかけ離れていて、思考が止まってしまう。

生活魔法はより平民に馴染みがあるため、火を起こす、風を吹かせる、井戸の水をきれいに保つ、土を耕すなど、そこかしこに溢れている。しかし、魔法は精霊が力を貸すことによって初めてもたらされる。そのためには対価を渡さないといけないのだ。語りかける精霊や力の大きさ、望むものによって対価は様々だが、今目の前の男は精霊との語りかけはおろか対価すら渡す素振りもなかった。

魔法を行使するというより、魔法そのものという表現が似合う男は、陽の光の下でみるとさらに美しく神秘的な様相をしていた。

ふと、小汚いといわれたことを思い出したユーリは急にその場にいるのがいたたまれなくなって、思わず顔を両の手で覆う。

「なんだ」

「いや、あん…あなたが綺麗で俺が汚いから…恥ずかしくて」

ああ、と男は、先程自身が発した言葉を思い出し、納得したかのように呟いたが、座るユーリに近づくとそっと覆う手を開いて瞳を覗き込んでくる。この男は瞳まで綺麗だ。

「お前は美しく育ってる。あれは傷に対して言っただけだ」

男の声は静かで抑揚はないが、何故か心が凪いでいくのを感じる。

魅入られた。きっとそうだ。

目が離せないユーリに、さあ、もう帰れと瞼に唇を押し当てられ動揺しそうな瞬間に暗転する世界。夢から覚めたように、目を開けるとそこは教会で、陽はすでに傾いていた。

夢だったのではないか。いや、瞼に残るぬくもりは本物だ。あれは本物だった。

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