コレットⅡ
「我が愚息が、本当に申し訳なかった!」
ジョエルの家に私が両親と共に文句を言いに行くと、ジョエルの父親がガバッと大きく頭を下げた。こちらにも手紙を送るなりしていて、彼等も事情を知っているのだろう。ジョエルの父親の顔はやつれ、母親もジョエルの言動で悲しみ、涙したのだろう。兎のように目を真っ赤にしていた。
二人のその様子に私達は少し怯んでしまったが、父が一息ついて気持ちを入れ替えてから怒鳴った。
「ジョエル君からコレットへ婚約破棄の手紙が来たぞ! これは一体どういうことなんだ!? 戦争が終わって平和になった。その平和な世を二人で支え合って生きていく。そう決め、誓ったからこその婚約じゃなかったのか!?」
「ああ、そうだとも。そうだとも!」
「仮に婚約を無かったことにしたいのだとしても、こんな紙切れ一枚で済まそうとするのではなく、面と向かって直に言うのが筋だろうが!」
「ああ、そうだとも。そうだとも! だが、アイツがリゴンには戻れないと告げた以上、決めてしまった以上、親だとしてもこちらにはどうしようもないんだ!」
「そんな訳あるか! ジョエルを捕まえ、我々の前に……」
出せ! と言い切る前に、父の言葉は止まった。
気付いたのだ。気付いてしまったのだ。それが非常に難しいことに。そして、私もまた気付いてしまっていた。
そのことをジョエルの父親は言葉にした。
「戦争は終わった。だが、ツイードとの国交が正常化された訳ではない。それが正常化されるには最低でも数ヶ月、下手すれば何年もかかるだろう。その上で、仮に正常化されてツイードへ行けるようになったところで、アイツが何処にいるのか皆目見当がつかん!」
手紙はラフラン軍から届けられたので、差し出し元は分からない。そして、仮に差し出し元が分かったところで、そこにずっといる可能性は非常に低い。行くのにたくさん時間がかかるならば、尚のこと。
ジョエルの父親は一つ大きな溜め息をついてから私の方を向き、問い掛けてきた。
「コレットちゃん、確かに君の父親言う通りジョエルが直接君に詫びるのが筋だろう。だが、それはいつ出来るようになるのか分からん。いつになっても出来ないかもしれない。君はそれを待つのか? 君には新しい生活があり、時が過ぎれば別の人を愛し、愛され、新しい家庭もできているかもしれない。その時になって、仮にジョエルが元婚約者でござい、あの時は済まなかったと言って、君に何か良いものがあるのか?」
私は想像してみた。何処かの公園を夫と小さな息子を連れて歩いているところを、前から汚れた軍服を来たジョエルがやって来て、あの時は済まなかったと謝ってくる姿を。
ああ、ただ私は困惑するだけだろう。ジョエルがどんなにボロボロで不幸になっていたとしても、それをざまぁと嘲笑えてしまう程に私は残酷にはなれない筈だから。
ジョエルの父親に向かって、まだ何か文句を言い続けている父を止め、私は言った。
「いいえ、私は待たないわ」
「コレット!」
困ったような顔で大きな声を出した父に、私は首を横に振ってみせた。
不誠実なことをしたジョエルに怒りを抱くのは当然で、私の怒りはまだ治まってはいない。だが、いつ来るか分からない、それどころか来ること自体分からないジョエルを、怒りながら待ち続けるのはあまりにも馬鹿馬鹿しいことだ。
「パパ。私、就職するわ。戦後の人手不足の今ならば何処かで働けるでしょう。そうすれば気持ちも入れ替えられると思うの」
「しかし、コレット……」
「パパ、ジョエルは帰って来ないわ。そしてこんなマネをした以上、帰ってきたところで許せる訳がない。じゃあ、待つだけ無意味よ」
ある意味幸いだったのか、ジョエルとの婚約は口約束だけで役所へ何かしら出した訳ではない。つまり私が忘れるだけで、この婚約は綺麗サッパリ無かったことになる。
私は一つ大きく息を吐いてから言った。
「だから、私は忘れることにするわ。ジョエルのことは全部」
「…………そうか。コレットがそう言うのならば」
父は眉を動かしながら何かしら考え、少し唸ってからそう言った。その父に向かって、私は軽く頷いた。新しい日々を始めるのだと。
そんな私達の向かいで、ジョエルの父親は何かを取り出し、用意しだした。それが何なのか私には予測がつき、その予測通りのことをジョエルの父親は言った。
「では、此処にあるお金を持っていってくれないか。これはジョエルがコレットちゃんに渡すよう我々両親へ言っていたお金、慰謝料だ。君の将来の為に役立…」
「要らない!」
ジョエルの父親が言い終える前に私は拒否した。裏切り者の施しで生活を再建するというのが、気に食わなかったからだ。父もうんうんと頷いた。
ジョエルの父親は少し長く息を吐いてから、そんな私に言った。
「ジョエルのことが許せない気持ちは分からなくもない。だが今は戦後の混乱期、どんなお金であろうとよりあった方が良いのでは? そして、これがジョエルのコレットちゃんへ出来る最後のことだ。致命的ではあるが、その一つの過ちでそれさえも拒否するのか? それ程ジョエルとの日々は後悔に満ちていたのか?」
「……………………」
私は瞳を閉じて、ジョエルとの日々をゆっくりと思い返してみた。
引っ越しで隣家同士になり、お互い恥ずかしそうに初めましての挨拶をした幼い頃のこと。
家の近くの小さな雑木林まで二人で、大冒険な気持ちで手を繋いで遊びに行った幼い頃のこと。
草木の陰に隠れ、親に内緒で初めてのチュウをした少年少女の頃のこと。そして、婚約の真似事をしたこと。
学校を進学し、これからの二人の将来の為に向かい合って勉強会を盛んに行っていたこと。
これから就職というタイミングで戦争になり、ジョエルが徴兵されてしまい、戻ったら結婚しようと約束し、本当の婚約をしたこと。
戦争になって離れ離れになっても、時折行えた手紙のやり取りでお互いの愛を感じられたこと。そして、そして……
最後の婚約破棄の手紙に違和感が出てしまいそうな程、過去の私達には優しさと愛が溢れていた。それなのに、どうして?
一瞬そう思ってしまったからか、私の頬を一滴の涙が零れた。これまで黙っていた母は、そんな私の肩に手を乗せて言った。
「コレット、頂いておきましょう」
「マ、ママ?」
「私にはジョエル君がどうしてこんな裏切りをしてしまったのかは分からないわ。でも、その最後以外の貴女達には優しさと愛が溢れていたことはコレット自身がよく分かっていたじゃない。これはきっと、ジョエル君からコレットへの最後の優しさであり、愛よ。それを無下にしてしまうと、きっとコレットは後悔してしまうと思うの」
「…………」
私は少し考え、確かに母の言う通りだと思った。ジョエルとの思い出は良いものばかりで、最後の婚約破棄だけが最低最悪なだけだった。此処で私が拒絶したならば、ジョエルとの全てが最低最悪になりかねない。
そう考えると、最初から選択肢などなかったのだ。私はジョエルの両親に頭を下げて言った。
「では、有り難く頂戴致します。ジョエルへは素直にお礼を言えそうにはないけれど。……こ、これまでどうもありがとうございました」
私とジョエルは幼馴染。最後はこんなことになってしまったけれど、それは変えようのない事実。つまり、ジョエルの両親には小さい頃からずっとお世話になっていたのだ。
それも今日この時、終わる。それを改めて実感した私の前で、ジョエルの父親は涙ぐんでいた。私もきっと、同じだろう。
ジョエルの父親は言った。言ってくれた。
「こちらこそ、これまであの子を大切にしてくれて、愛してくれて有り難う。嗚呼、本当に有り難う」
何故、ジョエルは私達にこんな想いをさせる裏切りをしたのか。こうなるのが分かっていなかったのか!?
怒りと悲しみと、ほんの少しの違和感を持ちながら、私達はジョエルの家族と別れた。そしてもう、こうして面と向かって話すことは二度とないだろう。
私はジョエルから渡された慰謝料で就職活動用のスーツを買い、さらに家を含めて身の回りのものを整えた。
それだけ整えても余るくらいにジョエルからの慰謝料は多額だったが、ジョエルの両親がこれまでのお礼ということで加算してくれたのだと思い、そう気に留めなかった。
ジョエルからの婚約破棄を告げた手紙もやけに字が下手じゃないかと思いはしたが、これまでの手紙と一緒に暖炉の中へすぐ突っ込んでしまったので、そう気に留めなかった。
それより新しい生活だ。就職活動は上手くいって銀行の受付窓口の職を得、私はそこに就職した。それからは日々を忙しく過ごし……
気が付けば終戦から3年の月日が過ぎ去っていた。
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