第7話 文明功罪

 ここのトイレは人が入れば自動で付くシステムで、個室でじっとしていたから消えていた。つまり誰かが入ってきた証拠だろう。大きめのポリの袋に段ボールを突っ込んで私は公衆トイレを出た。朝陽が眩しくて、人間寝ようと思えばどこでも寝られるのだと実感する。


 私はそのまま銭湯に行き、更衣室の置時計は4時半を示していた。最悪風呂の中で寝てしまおうと考える。浴場に入るとこの時間帯の割には結構人がいて、私はとにかく怪しまれないようにシャワーを浴びる。願わくば、ここが「そういう銭湯」でないことを願って。


「そこの若えの、こんな朝にどうしたんだい?」

 私が身体を洗い終えたころ、「親切」そうな年配の男性が私の隣の台に座る。割と人がいるとはいえ、わざわざしなくても良いのに。彼は「トナラー」なのだろうか。トナラーはトイレとかサウナに生息しているとは聞いたことがある。


「1人旅の身です」

「どこに行くんだ?」

「考えていないですよ」

「おう、1人かあ。良いもんだけど大変だぞお。昔休暇使って1週間放浪したことがあるけど……」


 私は表向き愛想よく彼の話を聞く。結局の所彼は多分私がどこに行きたいかではなくて、自分の話をしたいだけな気がした。多分私のことなど覚えてはいないだろう。かえって好都合だが。そもそも1週間は放浪なのか……?


 彼の元をようやく離脱した私は10分だけお風呂に浸かり、移動を始める。今から電車で2時間、甲府まで向かうつもりである。家族は私と彼女の旅行が家出になっているのを知っているのだろうか? 一度も双方の親から連絡は来ていない。それだけ信頼してくれていることがかえって私の心を弱くする。


 30分ほど待って、ようやく甲府まで行く電車に乗り込んだ。甲府についてもまだまだ10時にもならない。私と彼女は9時にも定期連絡することを決めていた。車内はわりかし混んでいて、私はなんとか1席を確保してスマホの電源を入れる。


 メールの通知が3件来ている。私はそれを上手い具合に既読が付かないように読んだ。

{あっちのお母さんから、広島に位置情報があったって言われたけど何かあったの?}

{大丈夫? ちゃんと大阪ついた?}

{本当に大丈夫なの?}

 私はしまった、と思った。


 例のスマホのやつは彼女の案だ。私が聞いた時は位置情報アプリの弱点を突いたように思えた。しかし、よく考えてみれば大阪まで行くことに対して広島は明らかにおかしいこと気づく。それでもある程度なんとかなるような気がした。


 今私たちは広島にいると親は考えていることだろう。そうすれば第一義的には広島を中心に捜索するはずだ。色々あるだろうがあと3日、いや2日だけでも逃げられると思った。


 9時直前の甲府は30度に迫る勢いで、少し標識の通り歩くと武田信玄像が見えた。私は近くの公衆トイレの裏で時間を潰す。この監視カメラジャングルの中、駅から出るだけで足取りは掴まれてしまう。


 だからといって私が車を運転できるわけではないし、どこかに伝手はない。最終的に私は東京に向かうよりないことを感じた。彼女は恐らく西日本方面であろう。東京は逃げ場がない、という。考えてみればそうかもしれない。東京は1つの島みたいなもので、じわじわとやがて人がやってくる。


 そんなどうでも良い、というより止めることのできない歯車の延長のことを考えているうち、彼女からの着信が来た。

「もしもし、私だけど」

「知ってた。で、まあバレた」

「どういう状況で? 私100円玉突っ込んだから詳しく言って」

「正確に言ったらまだ。メールが来てて『位置情報が広島にあるけど』ってさ」

「それでどうしたの?」

「ほら、俺らは大阪旅行って嘘ついてるじゃん? で、広島はどうみてもおかしい、てこと」


「ああ、そっかあ……盲点だったわ盲点」

「まだ既読はしてない。どうする?」

「もう何もしなくて良いんじゃないかな。とりあえず私は広島行かないようにすればいい?」

「うん、そうしといて。俺は色々経由して東京行くつもり」


「分かった。私今ね、名古屋にある家出少女が集まってるとこ? うん、そこにいるんだよね。今日には京都とか、三重の方とか出発しようかなって思ってるけど」

「できれば大きな都市が良いと思うよ。すぐばれちゃうから」

「オッケー。5時半また掛けるね」

「ちょっと待って、お金はまだある?」

「入れれば。別にいいよ」

「ありがと。ちゃんと聞かせて? 君はこの旅を終わらせたい?」

「なるようにしかならないよ」


 彼女は即答する。それがどっちなのか私には分かる。少なくとも私より「当事者」の電話の向こうは、少しだけ笑っているように感じた。

「あなたは嫌なの? そういえば久しぶり聞くけど」

「正直分かんない。結婚するなんてなったら、俺より君の方が辛いと思うから、だから君の言ったことを参考にしてた。ごめん」

「ううん、ありがとね。私も1人の人間だからさ。自分のことは自分に責任をちゃんと持つよ。だからあなたの本心を聞かせて」


 彼女は優しく、私を滅ぼすような声でそう言う。

「難しい? じゃああと5分したらもう一度掛けるから」

「待って。お金は使わせちゃうけど、今答える」

「分かった」


「……うん。俺は旅、まあ家出だけど続けるよ。そうしなきゃ、俺らはどうにもならない」

「そっか」


 そして電話は切られた。気づくと母親からテキストメッセージと2枚の写真が送られていた。それを見ずとも家出声明のそれだということが理解できる。私は帽子を変えて甲府駅に戻ることにした。


 一応最低限の抵抗である。ニュースレベルでは「黒い帽子の男」みたいな感じで報道されている気がしたからだ。後は堂々と歩くこと、らしい。場合に寄りけりだが。


 私は塩尻行きに乗り込んだ。路線図的には東京に向かえることは知っている。けれど私は今シートの上である。なんとなく、その順当な歯車の向こう側に抗いたくなったのかもしれない。ちょうど歯車を逆向きに回して摩耗させるみたいに。


 どうせその回る力に負けることを知っていたのに、それでも私はこの逃避行を続けることを止めなかった。それは背徳感? いや全能感? 旅を続けたところで分かるとも知れないその問いを過ぎ去っていく木々にかけた。


 シートに座り続けたせいでお尻が痛む。一度もトイレに行かないというのはやはり応えたようで、塩尻から折り返してしまう寸前にようやく脱出できた。正午を迎え、燦々と太陽が私を焦がしてゆく。


 いや彼女もきっとそうだろう。今彼女がどこにいるか知るにはあと数時間を待つ必要があるが、彼女のことだから楽しく生きていることだろう、あの時の彼女の言葉を反芻する。なるように、あるがまま。


 ずっと冷房の効いた中で移動しているからか、汗は思ったほどかいていない。東京に着いたらずっと電車でぐるぐるする訳にはいかないだろう。私はしばらく駅内のベンチで放心、もとい仮眠を取っていた。盗まれるかもしれないが、そうだったら周りの人が教えてくれることに期待する。


 人の往来が激しくなって私はビクリと目を覚ます。

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