第5話 逃避行か旅か
9時電は8時やら7時に比べれば遥かに少なく、楽々とボックス席を確保できる。この町を最後にする可能性があることを思い出した。クソみたいな町だけど、けれど旅で戻った時にはきっと懐かしくなる、そんな故郷。
いくつかの駅を経由して、定刻通り各駅停車はB駅に到着した。新幹線の出発までは1時間ほどある。
「今の内に最終確認しておいたら? まだ買い足せるしさ」
「あーいいかも。ってか弁当でも買っておかない? 車両販売今してるっけ?」
「あるはずだけど、売り切れ怖いしそうだね。コンビニでも行こっか」
私は幾分かの水と弁当を買い、彼女も彼女で何かパンを買ったようで、2人エアコンのある休憩所にいた。小さな方のリュックのチャックを開けた先は、少し前の記憶を強く想起させる。
「もう行っちゃおうか」
なんとなく消毒の匂いが立ち込める休憩所の中、彼女はゆっくりと立ち上がり、言った。
「大丈夫? 確認はした?」
「うん。なんか起きて走りたくないし」
「それもそうだね」
梅雨明けした眩しき日光が降りかかる、その中を私と彼女は歩く。
今、「戻ろう」とか「やめよう」なんて言葉を掛けたら彼女はどう思うだろう? 軽蔑するだろうか、いやそれはない。
でも私にはそれを彼女に言うことはできるはずもなかった。私と彼女という歯車はもう自分たちの預かり知らぬところで、その最初の歯車が回り始めているからだ。
そして私にその言葉を鈍らせるもう1つは、今決断をしなくてもさしあたり困ることがないことである。東京でのその自由席を買う時、静岡に着いた時、これからあと数時間の間にそんな機会があって、その時まで次のチャンスを考えてしまうのだ。
でも、「サンクコスト」とか「コンコルド」みたいに結局は戻れないことも知っている。それでも私は次を期待して、気づけば新幹線用の改札口に立っていたのである。
「便利だね、東京まで2時間半でしょ? これが無かったら何時間かかったんだろ」
彼女は地上数階に位置するホームの小さなベンチに腰かけて、私は2人分のジュースを自販で買っていた。
「どうせ東京よりは混みはしないのに指定席で、東京からは自由席ってちぐはぐね」
「仕方ないだろ」
「ええ、ええ、分かってるわよ。今だけはまだ文句言えるんだから」
「やっぱり……嫌?」
彼女の返答次第では、この逃避行をただの大阪旅行にすることもできるだろう。私に議決権がないわけではない。けれどもこれからの結婚生活で辛いのは多分彼女である。だからそこら辺は彼女に任せてしまおうと思っていた。
「やらなくてダメより、やってダメの方が良くない?」
たまに校長の「ありがたい」お話のセリフを、それの最大限マイナスの用法を彼女はしたように感じられた。
到着を表すチャイムが、少しだけの選択肢の残る私と彼女を急かすように鳴り響く。私は彼女の答えを数度反芻してからその車両に乗り込んだ。指定席には自由席券を買っていたカップルがいて、少しだけ温もりがある席に2人で座る。
「新幹線って300キロ?」
「どうだっけ? あと20キロあったかも」
「風情がないわけじゃないけど」
10時間もかけて東京に行く気も無いのに、彼女は防音シートとトンネルの眺めに文句を言う。
私の遅延していく思考の結果はよそに、新幹線は定刻通りD駅に到着した。
「食べよっか、11時半だし。緊張しちゃって朝食べてないの」
「俺はいつも腹減ってるから良いよ」
「それで良く太らないわね。私ならすぐおかしくなる」
「運動部だから? 大学入ったらマズいかも」
「私学は行けなくなるかな? 家出が続いたら」
「多分。でも一般入試で国公立なら大丈夫じゃない? それより高校卒業できるか考えなきゃ」
「そっかあ、ワンチャン退学か」
彼女はピリピリと包装を破って総菜パンにかぶりつく。私はそれを見て、少しだけ冷めた弁当を食べた。
「何か欲しいおかずある?」
「うん? 唐揚げ、天ぷら……あとは」
「多い多い。今来てるし買うよ、じゃあ」
「冗談冗談。私あんまり食費かからないから安心しな」
「別に一緒に暮らす……いや」
「――そんなに気を配らなくてもいいよ。今は夢、いつでも覚めれるそんな夢。だから今は、まだ好きにやろうよ。明晰夢みたいにさ」
彼女は「ちょっと手を洗ってくる」と言って、その僅かな時間色んな考えが脳裡を巡った。彼女にすれば単純なことかもしれない。その不用意かもしれぬ言葉は今の私を酷く混乱させる。
「ごめん、ちょっと時間かかったでしょ?」
「気にしないよ。俺トイレ行くから見てて?」
「オッケー」
私にとめどなく、パッと、霧箱実験みたいに流れる思考を捉えるのに少しだけ疲れてしまったみたいだ。それでも今の所、隣には彼女がいて、それは多分合っている。今の私にはそんな演繹をしなければ、何の平安も得られない。
気づけばD駅を出発して久しい新幹線は白河の関をいつしか越えていた。
「3週間したら色々変わってるかな。家に監禁されてるかもしれないし、どこか凄い場所にいるかもね」
「だろうね」
「けれど、間違いなく私たちの関係は変わっちゃうよね。だから今が一番最後ってこともあるんだけどさ」
「何かあった?」
「ううん。懐かしいな、なんて。今まで10年も許嫁で、あと10年したら『夫婦』って名前が変わるだけだと思っていたのに」
車窓を眺める彼女越しに停車していく度大都会の容貌が現れてきて、私はそれに数度ため息をついた。
東京。言わずと知れた日本最大、メガシティであれば世界最大の都市である。東京を目的には家族と修学旅行で3回ほど行った記憶がある。しかし今回は今から購入する自由席特急券の時間までだ。
「とりあえず窓口行っちゃう?」
「そうだね。そっからちょっとだけ地下周ろう?」
「地下?」
「そりゃ東京あちぃもん。熱中症なったらどうしようもねえし」
「キスする?」
「しない」
私と彼女が窓口に行って、新大阪行きの空きを確認すると50分後のに空きがあるということだった。私と彼女はチケットを購入し、迷宮地下街を歩き始めた。特段お土産気分というわけでもないけれど、地下ほど涼しくて時間の潰せる場所を知らなかったからだ。
夏休みだからか、地下でさえ歩くのに気を置かなければいけないようである。A町はともかくB市のスクランブル交差点でさえこんなことはなかった。行き交う人々の言葉にも「東京み」を感じてしまい、別の国から来たのか、そんな感覚に陥る。
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