第5話



 ドスッ




 胸に何かが当たった。


 硬いような、——深く、入ってくるような。



 男の目は充血していた。


 眉間には皺が寄ってて、とても人間の顔には思えなかった。


 肩に手が触れた瞬間だった。


 バッとこっちを振り向き、充血した目をギョロっと向けてくる。


 直前まで、俺の存在には気づいてなかった。


 少しだけ、驚いた様子だった。



 …少しだけ?

 


 …わからない…



 俺は俺で無我夢中だったから、相手がどんな様子だったかを、正確に覚えてるわけじゃない。


 とにかく胸に、へんな感触が走った。


 何かがぶつかってきた。


 男は手を伸ばしてた。


 “俺に向かって”だ。


 天井から降ってくる蛍光灯の光と、レジの壁に貼られたポスターと。



 思わず視線を下げた。


 体が重い。


 不意に掠めてくる感覚に、意識が取られる。



 “引っ張られる”



 そう言った方がいいんだろうか?


 足の裏に重なる地面の感触が、不意に、遠くに感じられた。


 喉から下が、鉛を入れられたように重くなった。


 “舌”が、体の中に沈んでいく。


 体の奥が、きゅっと引き締まる。


 そんな感覚だった。


 耳をつんざくような切れ味が、どこか、すれ違っていくような気がして。




 

 ドクンッ




 …なんだ?



 …一体、何が…




 今、自分が何をしているのかもわからなくなった。


 恐怖も、緊張も。


 直前まであったはずの全ての感情が、薄く引き延ばされるように遠くなった。


 確かな感覚はあった。


 それは冷たい金属の表面のように、硬く、——平らな手触りを届けていた。


 ただ、どうしようもないくらいの膨らみが、意識を遠ざけるように鋭い輪郭を描いていった。


 それがどこから来たものかはわからなかった。


 息苦しくなる呼吸と、抜けていく力。


 思うように動けなかった。


 意識ははっきりしてた。


 何もかもが鮮明に見えて、眩しすぎるくらいに煌々とした明かりが、視界の片隅に漂っていた。


 ザラついた舌触りが、体全体に流れていた。


 痛みも、苦しささえも、そこにはなかった。


 時間が止まったかのようだった。


 目の前にある全ての「音」が静まり返る。



 ——透き通っていく景色が、瞳の中を通り抜けていた。


 白く泡ぶく光だけが、そこに横たわっていて。

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