42.

 〈霊峰山脈の悪夢〉に挑むべく、クロムたちはオルドヴスト騎士隊の馬車に揺られながら霊峰山脈に旅立った。これまでに決めた霊峰山脈の麓までの経路は帝都から馬車で通常は六日から七日かかる。ひとまずの目的としていた六合目は二日でたどり着く予定だった。

 霊峰山脈の麓まではそれなりの規模の村が数か所あり、どのような道で通っても二か所は村があるから食料の心配はあまりしないで済んだ。

 六日で麓へと着き、一日半休んでから騎士隊と別れて山脈を登り始めた。三合目まで登った頃に数度魔獣との戦闘を行ったが、誰も怪我することなく切り抜けた。


「ここの魔獣は…中層の、下層寄りくらいの強さだな。まだ余裕がある。」

「ああ。迷宮での経験は良いものだったようだな。気を張って行けよ、サイラス。」

「勿論です、隊長。」

「そうだ。ここはまだ木が生えているからそれなりに足場が崩れにくいとはいえ、四合目からはもっと足場が悪くなるし、坂のせいで余計に体力を使う。これ以上はもっと坂は急になるし、魔獣も強くなるよ。あんたみたいに凄い勢いで走り回るようじゃこの先心配だよ。」

「…そうだな、気を付けよう。」

「だってよ、レラ。言われてんぞ。」

「ガハラもダロ。」


 笑い声が上がった。会話はまだ多く、気持ちに余裕がある。

 周囲が暗くなったらミーアが〈発光〉の魔術を使って進んだ。二度魔獣に遭遇した。ここまでに遭遇した魔獣より強かったが、サイラスとジェイドが軽い怪我をした。ラーダとミーアの〈回復〉で怪我を治して更に進んだ。

 二度目の戦闘が終わった後、安全を確保してから休むつもりで薪を燃やした。炎が薪を舐めて爆ぜる音を供にして、交替で夕飯を食い、眠った。

 クロムとサイラスが見張りの番になった。ぱち、ぱちと爆ぜる音と共に、気配が一つ近づいてきた。その気配にはクロムが先に気付き、一拍遅れてサイラスが気付いた。


「…魔獣か?少し見てくる。」

「わかった。何かあったら笛を吹けよ。俺も用意しておく。」

「ああ。」


 今回は人数が多いから、不寝番が笛型の迷宮品〈夜明けの鶏笛〉を持つことにしていた。これには周囲の寝ている者の意識を覚醒させる力があるという。異常があった時は躊躇なく吹くよう、ライオネルから渡されていた。

 気配のした方向へ、クロムは慎重に進んだ。魔獣であることを半ば確信しながら、ただの野獣ならいいと願ってもいた。

 気配の正体は小さな生き物だった。暗闇に目を凝らして見れば、ぼさぼさの尻尾はゆらゆらと揺れていて、まるで煙のように見えた。


(なんだ、ただの猫か。)


 クロムが身を翻し、悟られないようにその場を離れて仲間たちの下へ戻った。

 なんでもなかった、と言おうとしたとき、サイラスが険しい顔で叫んだ。


「クロム――――――!」


 サイラスの劈くような声の直後、鋭い痛みが首を抉った。


 一瞬だけ、クロムは自分の身体が、首から上を失う姿を見た。

 クロムは弾き飛ばされるように転がって倒れ、それとほぼ同時にサイラスが〈夜明けの鶏笛〉を吹いた。直後に全員が起き上がり、クロムを襲ったその正体を見た。


「なんだ、アレ…?」


 困惑が広がる中、クロム以外の全員が戦闘態勢に入った。

 戦いが始まってからようやく立ち上がったクロムはその時は何が起きたかわからなかったが、〈白輝蜈蚣の外套〉の効果である〈依代〉が発動したためクロムの致命傷が無効化されたのだ。

 魔獣は不安定な形をしていた。

 巨大な爪が霧散するように小さくなり、猿の手のようになった。しかしその立つ姿は熊のようであり、頭は狼の形をしていた。後足は虎のように、尾はぐずぐずと燻された煙のように形なく広がっている。


「影獣!」


 ラーダが確信めいて叫び、前へと出た。次いでジェイドが前に出て、サイラス、トーラン、レラ、ガハラが続いた。ミーアとディンは魔術を放つ準備を始め、それを守るようにライオネルとパトリオットが立ちふさがる。


「〈発光〉!」


 ミーアの魔術で周囲が照らし出され、魔獣が照らし出される。

 クロムは何が起こったかわからないまま起き上がると、異形の姿を見、次いで戦う仲間たちを見て、今自分はあの異形に襲われたのだと気付いた。


(くそっいつの間に…いや、もしかしてあの猫か?)


 主武器として使うつもりだった〈夜叉の太刀〉を抜いて真っ直ぐに魔獣のもとへと駆け寄り、勢いよく放つ。

 その攻撃が当たる直前、魔獣がクロムを見てあざけるように笑った

 クロム渾身の一撃は受け止められることもなく、煙を斬った時のように手ごたえが無かった。

 驚く間もなく、猫の手が巨大な猿の手のような形に変わり、クロムに殴りかかる。


「ッ……!」


 ラーダが間に割って入り、その拳の力に踏みとどまれず十数歩分は弾き飛ばされた。


「ヌン!」


 魔獣の背後に回ったトーランが、〈火〉の魔術を纏う棍棒を横薙ぎに振り抜いて魔獣の頭を破壊した。すかさずサイラスが〈風〉の魔術を纏わせた突きを放ち、魔獣を貫く。

 しかし、二人して手ごたえを感じることはなかった。

 魔獣は通常いきものとしてあり得ない―――背から巨大な腕を生やして、トーランを突き飛ばし、胸から現れた狼の頭が伸びて、サイラスを襲った。サイラスは間に悪込んだジェイドの盾に守られて無事だったが、魔獣は更に変化を重ねる。

 黒い霧に姿が覆われ、直後闇夜に紛れられるような黒く小さな狼が現れた。


「アレが!〈悪夢〉!」

「クソッ距離を取れ!」


 誰もが対峙したことのない異形に、困惑と見えない恐怖を覚えた。

 コガナとディンがすかさず〈爆発〉の魔術を放った。一瞬だけ怯んだ隙に前衛たちは魔獣から距離を取った。

 ラーダとトーランも起き上がり、魔獣を囲む。


「クソ…どうすんだ、こいつ!」


 クロムは〈夜叉の太刀〉を握り直して、もう一度接近し切りかかる。今度はフェムトがクロムに合わせて魔術を放った。


「〈火〉っ!」


 真っ直ぐに放たれた魔術はクロムより先に魔獣の顔の右側に命中し、派手に飛び散った。クロムはそれに合わせて右上から振り下ろした。

 ぎょろりとした目が、今度は右肩から生まれた。それに構わず振り下ろしたが、魔獣は勢いよく飛び退いて攻撃を躱した。


「…オイオイ。なんだよ、本当に。」

「〈変身〉ってあんなに自由に使えるの?」

「…あそこまで自由ではないはずです。」

「バケモンが。」


 苦しい戦いが始まった。

 魔術も剣も、当たる直前に煙のように変化するこの魔獣の前ではまともに当たらない。当たっても、〈変身〉の効果なのか新たに腕や首が生まれ、傷は修復される。

 ラーダが突っ込み道を開こうとしたが、突如現れた長い腕に横から殴られて膝を付いた。

 すかさずミーアが〈回復〉を飛ばし、近くのジェイドが庇うように立ちふさがるが、魔獣の攻撃を何度も受け止めてきた盾はひしゃげ、亀裂を生じた。


「クソッこいつ、強すぎる!」


 ディンがクロムの知らない魔術を放つ。茨が魔獣の足元を固定したが、煙のように足が消えて拘束を抜け出した。

 ライオネルが〈水〉の魔術を唱えながら〈波濤〉で一撃を加えるが、たいして効いていない。魔術を纏った攻撃をサイラスとトーラン、レラがしていたが、それも有効そうではなかった。

 クロムもその中に混じって〈夜叉の太刀〉を振ったが、魔獣を捉えられないまま空振りした。突如生えてきた猿の腕に殴られて、〈夜叉の太刀〉が弾き飛ばされた。


「…武器!」


 クロムはとっさに叫んだ。右手に現れたのは数打ちの剣で、それを振ったが当然影獣は避けるような素振りもなく体表で受け止めた。

 剣を捨てて再度、武器、と叫んだ。

 今度は槍だったが、勢いよく叩きつけるように振り下ろしたがこれも体表で受け止められた。物理攻撃は通じない相手というのはわかっていたが、牽制にすらならない。

 細かい攻撃で少しずつ魔獣を攻撃出来てはいるが、いざ強力な魔術を放つと煙のようになって逃げられる。

 全員が少しずつ疲労を貯めはじめ、最初に離脱したのは腕に怪我を負ったアリシアだった。ミーアも治療のために一次離れた。

 アリシアの穴を埋めるべくフェムトが前に出る。しかしミーアの穴は埋められない。

 じわじわと形成が悪くなっているのを感じた。


(このままじゃまずい!)


 騎士たちが魔術を交えた攻撃をしてもいまいち通用しているようには見えない。

 術士たちはミーアやディンですら魔獣を捉えられずにいた。

 辛うじてレラやガハラ、ラーダ、ジェイドが魔獣の攻撃に割り込んで、逸らしたり凌ぐことで耐えられてはいるが、このままでは崩壊は時間の問題だ。

 クロムは左拳を握りながら、魔術を発動すべく本型の迷宮品を取り出そうとした。少しでも魔術による攻撃を試そうと思ったのだ。

「迷宮品っ!」

 しかし手に現れたのは見覚えのある小さな曇り鏡だった。オセ迷宮で手に入れた、〈現世の鏡〉だった。


(ち、違―――)


「よそ見してンじゃネエ!」


 鏡に気を取られている間に、影獣の頭がクロムの目の前に迫っていた。

 頭を庇うように、腕を上げた。きらりと〈現世の鏡〉が小さく光を発した。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――――――!」


 直後、魔獣が叫び動きを止めた。苦しそうな叫びの直後、黒い霧が霧散した。そこには小さくなった―――巨大で歪な姿が、〈変身〉の魔術が解けて正体を現した小さく黒い影獣がいた。


「〈火〉!」


 影獣に、ついに誰かの魔術攻撃が直撃した。その直後、凄まじい勢いで何かが目の前を通り過ぎ、魔獣を切り払っていった。


(また〈変身〉が!)


「〈鋼鉄〉!」


 間近で黒い煙が湧き立つのを見て、攻撃の通用した手応えを感じ、更に殴りつける。

 魔獣もまだ諦めておらず、元の姿から狼のように変身しつつクロムにとびかかる。

 再びクロムに迫った爪が、ラーダに阻まれる。体を投げ出してクロムを庇ったのだ。


「ぐっ…」

「ラーダ!」

「構うな!」


 横からライオネルが魔獣の首筋に雷を纏った剣が突き刺した。

 魔獣は逃げようとしたのか〈変身〉を使おうとしたが、クロムが魔獣に向けている〈現世の鏡〉の効果で〈変身〉は霧散し、抵抗虚しく突き刺さった剣から逃げることができない。

 二つの魔術が魔獣を捉えた。

 眩いほどの白い炎が魔獣に絡みつく。大地が槍のように突き出して魔獣を貫く。

 影獣が必死に暴れるが、魔術が捉えて離さない。


「ハァ!」


 ライオネルの気合と共に雷を纏った剣が魔獣の首を落とした。首が地に落ちたとき、魔獣の抵抗は弱くなり、やがて体は崩れ始めた。

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