25.
二十一層へと降り立った。奥に兎の魔獣が一匹、うずくまって震えていた。
「あ、あれ、あれです!」
魔獣の後ろ姿は群兎にそっくりだったが、群兎とは違って気配が妙に深層の魔獣に近い。あれが群兎に紛れ込んでも気付くまい。あれが群兎の中からいなくなっても気付けまい。
クロムは頷くと腰の剣を抜き、魔獣へと突進した。
十分近づいて剣を振おうとした瞬間、魔獣が鳴いた。
「え?」
「なっ…」
目の前の相手を見て、とっさに攻撃を止める。目の前にいたのは魔獣ではなくディンで、もうわずかに攻撃を繰り出すのが速ければディンを切っていた。
「すまん。大丈夫か。」
「は、はい。」
ディンが元居た場所を振り返ると、そこに追われ兎がいた。魔獣は面白くなさそうに鳴いた。
「何が起こったかわかるか?突然お前が目の前に現れたぞ。」
「お、恐らく〈転移〉です。」
「〈転移〉?それは階層の移動じゃないのか?」
「ぼくの位置をまず〈転移〉させて、あいつはぼくの位置に〈転移〉したんだと思います。」
「ディン、お前の魔術であいつの移動先は制限できるか?。」
「はい。」
追われ兎はまた体を震わせている。何かするつもりだ。
「〈爆弾〉」
ディンが魔術を撃ち出す。リュードの使っていた魔術だが、ディンのほうが発動も飛ぶ速度も速い。凄まじい速さで魔獣へと迫るが、魔獣の姿は消えて離れた場所に現れた。
「〈業火〉」
地に触れて爆発が起きた直後、部屋中が炎に包まれた。さすがの魔獣も転移先には困っただろう―――そう思った直後、ディンの足元に魔獣は現れた。そこが安全地帯だとわかっているかのようだ。
すかさずクロムがディンの足元を剣で突くが、魔獣は再び消えて、部屋の端、炎の消えた床に現れた。
「〈木〉」
蔦が追われ兎の足元に絡むが〈転移〉で再び別の場所へと現れ、ぎゅう、と魔獣が不機嫌そうに鳴いた。
再びクロムが肉薄する。攻撃の動作を見せるとディンが目の前に現れる。ディンが広範囲を巻き込む魔術を放てばディンの傍へと非難し、クロムが攻撃して追い払う。それを三度繰り返した。
攻撃の仕方を変えて、ディンが誘導したところへクロムが切りかかろうとした。
魔獣を誘導するところまでは良かったが、クロムの目の前で転移し、ディンを転移させることで同士討ちをさせようとしてきた。
クロムは何とか攻撃を止めたが、こんなことが続けばクロムたちが消耗するだけだ。だが冷静さを欠いたらディンを斬ってしまう。無理矢理に感情を追い出し、魔獣を一心に見つめた。魔獣が笑ったような憎たらしい表情をしたのが目に映りこんだ。
「チッ…あいつ自体は弱いって話だったが、厄介だな。」
「クロムさん、〈迷彩の鎌〉はありますか?」
「ああ。だが十歩以内に近付かれれば気付かれるぞ。」
「クロムさんの目の前にあいつを転移させます。そこを斬ってください。」
「わかった。」
今のところ、魔獣から攻撃を仕掛けてくる様子はない。聞いた通り、攻撃能力は低いのかもしれない。獲物をより深層へ呼び込み、他の魔獣に倒させるのがこの魔獣のやり方なのだろうと思った。
クロムが再び肉薄する。攻撃の気配を見せた瞬間、目の前にディンが現れる。
「〈迷彩の鎌〉」
クロムが〈迷彩の鎌〉の効果で追われ兎の目から姿を消し、魔獣が驚きの鳴き声を上げて身を震わせた。〈転移〉の魔術を使う前の動作だ。
「〈業火〉」
再び部屋を炎が覆った。しかし全体を覆うわけではなく、一か所だけ炎に包まれていない場所がある。魔獣はその空白地帯に転移したのとほぼ同時に、ディンが〈爆発〉の魔術を空白地帯へと飛ばした。ディンが走りだす。
飛んでくる魔術に一瞬固まった魔獣はディンのいた場所へと転移し―――また驚きの声を挙げて硬直した。魔獣のそばには剣を振りかぶったクロムがいた。
クロムの目が獲物を捕らえた瞬間、気合いと共に振り下ろされた刃先が魔獣の首を襲い、手ごたえと共に魔獣の首が落ちた。
追われ兎は最期、何が起こったかわからないというような顔をしたまま動かなくなった。
追われ兎は書き代わりで迷宮品へと変じることなく、その肉体を残した。何か貴重なものが手に入るかもしれないと思っていたから、少しだけ惜しく思えた。
〈階層〉を唱えてみれば、新たに二十二層は表示されず、地上だけが選択できた。迷宮はこの異常を元通りに取り戻したらしい。
「…ありがとうございます、クロムさん。これでこの迷宮に潜る学生たちが無用な怪我をしなくて済みます。」
「いや、ディンの機転がなければ、こいつが逃げ続ける限り俺は倒せなかった。礼を言うのはこちらの方だろう。助かった。」
最後、どうやって魔獣をクロムの前へ転移させたかを聞けば、〈
(…〈幻影〉に〈屈折〉か。だがそれだけじゃない気がするな。…まあ、魔獣は倒しているしいいか。)
二人が帝都へと帰り探索者協会へ行ってみれば、ロンウェー迷宮攻略の話題で持ちきりだった。
ロンウェー迷宮を踏破したのはやはり〈常闇の翅〉だった。最初はクロムたちと同じように上層から中層を周回していたが、埒が明かないと言って疑似的に迷宮内の魔獣すべてを消滅させられる最下層攻略を選んだという。一級パーティの彼らからすれば何日もこの周回にかかりきりでいたくないということだったから、噂は真実だろう。
タイデンにも会ったが、彼は最下層に行く気は無いと言っていた。
かつて一人で踏破してはいるが、今は無い迷宮品や魔道具があったから単独でもできたのだと言っていた。今はその魔道具は失っており、かつてのように潜れないと言っていた。
ロンウェー迷宮の休眠期間は十日だというが、クロムはもうロンウェー迷宮に潜る気は無かった。兎は野山で追いかけまわすだけで十分だった。
追われ兎は売却し、金貨十六枚になった。その死骸に特別な効果は見られないが、希少故に好事家には剥製か、あるいは毛や革として売れるのだという。この報酬はディンと分け合うことにしたが、生徒たちの治療費の足しにしたいと提案した。クロムも顔見知りが怪我をしているのは気分のいいものでもなかったため、リュードとハルトへ渡した。
金貨二枚を神殿に納めれば、中位以上の〈
失敗してもめげていない二人はもっと強くなるだろう、とクロムは漠然と思いながら二人とは別れた。
その日はどこか満足した気分で帰路へと着いた。
―――
「……またロンウェーに潜ったの?」
「ああ。」
話しかけたのは擦れた外套、銀の髪の女。女の前には以前もどこかで見た男がいた。
(む、また、夢か。)
「貴方一人では無謀とあれほど言ったのに。馬鹿なの?」
男は随分ボロボロで、以前見た猿の魔獣たちを殲滅したときよりも消耗しているようだった。男は拗ねたように顔を背け、怪我の治療をしていた。
「共に戦える仲間を集めろと前に言ったのはどうした?――――の身分なら集まろう。」
「フン。それで集めた仲間など別の――――――だろう?」
「……この世界でどこぞの神をも信じていない人間などいないことは確かだ。お前意外な。だが、お前と共に歩めるような人間もまた、探してみない事には…。」
「待て。あんたはそれでいいのか?」
「ああ。私は既に―――――――だからな。」
―――
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