2.
魔術が碌に使えないとわかってから、狩りと採取、修練の日々が続いた。この頃になれば、武器の技でウルクスから細かい文句を言われることもなく、〈剛力〉もすぐに発動できるようになっていた。
他にも獲物の追跡方法や縄張りの見分けといった狩人の知識も教えられた。他にも生活に困らないようにと、常識や文字、金のこと、神代の話、信仰の事なども教えられた。ほとんどはクロムが頓着せず、特に常識など無いに等しかった。文字は元々書くことができたのか、書いて見せるとウルクスを驚かせた。
「お前、物書きや学者にでもなるか?」
「無理だな。」
その時にそんな会話もした気がする。しかしクロムはやはり、何か学ぶよりも体を動かしたかった。
山が色付いて冬も迫ってきたころ、日課の狩りから戻ったクロムはウルクスの姿を探した。家の中にはいない。鍛冶場だろうかと思っていたが、日暮れになっても帰ってくる様子はない。
この日は大きな鹿に遭遇した。出会い頭に首を裂いて、止めに頭を落とした。内臓と血を抜いてから持って帰ったが、鹿の解体は一人ではまだ大変だったからウルクスに手伝ってもらうつもりでいた。だがウルクスは家のどこにもいない。
(珍しいな。いないのか。)
(鍛冶場か?)
(自分で言っていた魔獣のことを忘れたか?まあ歳だしな。)
剣を片手に、急いで鍜治場へと向かう。日が暮れてからの山は危ない。ただでさえ秋は獣が冬越しのために活発になるというのに、話に聞く魔獣―――歪な獣の姿をした異様な生き物―――がいたら危険だ。ウルクスに拾われてからしばらくして、一緒に山奥へと入った時にクロムは遠くから一度だけ魔獣の姿を見たことがある。
あれは夏の頃、ウルクスと共に山中で狩りをしていた時のことだった。
獣の叫び声と激しい衝突音が周囲に響き、急いで索敵をした。その原因はすぐに見つかった。頭に巨大な殻を被ったような姿の猪だった。クロムの背丈ほどの大きさに、不気味なほど大きく白い頭に血を浴びて、何かを食っていた。食われているのが熊だとわかると、容易に勝てる相手出ないと思った。
「わかったな?じゃあ逃げるぞ。今の装備じゃあ相手にできん。静かに逃げるぞ。」
その時、魔獣は獲物に夢中だったこともあるだろう、気付かれる前に逃げることができた。
ウルクスに引っ張られるように逃げた先でしばらくの間警戒していたが、どうやらクロムたちの方向に向かっていないとわかり安堵した。山の奥へと消えていったのだろう。
秋になればあの魔獣もまた現れるかもしれないとウルクスが呟いたのを覚えていた。それから一度も見かけることが無かったが、もし山を徘徊しているなら戻ってきていても不思議はない。
先に足を外し、胴の骨と肉を分けた。肉を薄く削ぎ落して、脂と肉を分け、窯に水と大量の塩を入れ、そこに脂を取った肉を入れた。窯はすぐに満杯になった。
臭い消しの薬草をいくつか入れて窯を火にかけ、しばらく置いた。白いものが浮き出てきたが、これは掬って捨てた。湯を捨て、肉をなんとかつまんで笊に肉を並べて、これをしばらく干すのだ。四つあった笊は薄い肉で埋まった。
そこまでして日ももう落ちる頃だというのに、ウルクスは帰ってくる様子が無かった。
鍛冶場はここから谷へ向かう途中にある、もう一つのウルクスの拠点だった。クロムも何度か足を運んだこともあり、ウルクスが家にいないときは大抵そこで鉄を打っていた。
(残りの肉はすぐ傷まないとはいえ…。急ぐか。)
軽く支度をして、鍛冶場へと走った。火事場の扉が少し開いていて、そこから見慣れた炉の光が漏れていた。
「師よ、鹿を狩ったんだが解体を…」
扉を開けたとき、最初に見えたのは赤だった。驚いて一歩後退る。
それは赤い毛並みの猿だった。その陰にウルクスがいるのか、その脚が見えた。
(魔獣!)
猿はクロムの背丈よりは頭一つ分は小さいが、その体躯と赤色の毛並みがただの猿でないと明確に告げていた。
剣の柄に手をかける。瞬時に近づいて剣を横薙ぎに振い猿の首を飛ばそうとした。しかし首に食い込んだものの、切り飛ばすには至らなかった。斬れないとわかると素早く剣を引いて距離を取った。
(硬い!)
突如攻撃を受けた猿が怒りと驚きの表情でゆっくりと振り向く。標的をクロムに変えたのか、ウルクスを手放して拳を突き出した。その大ぶりの拳を簡単に躱すことはできたが、壁が簡単に破壊された。僅かに背筋に冷たいものが走った。
赤い猿からも見えるように鍛冶場から離れた。赤い猿はクロムを追ってくる。
「〈剛力〉!」
呪文と共に力が漲る。既に目の前に恐ろしい形相の猿が迫っていたが、それを両断するべく真っ直ぐに剣を叩きつけた。
ゆっくりと流れるわずかな時間で幾つかのことが起きた。
まず、クロムの剣が赤い猿の頭を両断し、胸元まで裂いた。そこで剣は折れた。
赤い猿の突進はそれで弱まることなくクロムを襲った。攻撃の直後で避けることなどできず、強烈な衝撃にクロムは突き飛ばされた。
宙に投げ出され、地に体を打ち付けた。坂を転げ落ちている途中で、クロムの脳裏に誰かの声が浮かんだ。
―――…ときに、〈カリプス〉が有効だ。すぐ発動できるよう練習しろ。
低木にぶつかってようやく止まった時、ちかちかする目で必死に敵を探る中で、浮かんだ言葉を反芻した。
(…カリプスとはなんだ?)
赤い猿がまだ動いていた。頭は割れて目は別の場所を見ているが、クロムのもとへとゆっくりと歩いてきている。
頭を割れば獣は死ぬし、血を失っても死んだ。だが、目の前の魔獣はまだ動いている。頭を割って死なない生き物はクロムにとって初めてであり、その異常さはクロムに恐怖を覚えさせた。
「ま、まだ生きているのか!」
赤い猿は再びクロムの前へと迫り、豪快に腕を振り回す。
何とか立ち上がるものの、攻撃は避けきれない。そう思ったとき、自然と脳裏に浮かんだ言葉を叫んでいた。
「〈
殴られて再び宙を舞った。しかし、強力な攻撃を直撃したというのに先ほどよりも衝撃は小さい。思い出したカリプスという単語は魔術の発動のための呪文で、防御用の呪文だったらしい
(攻撃を〈剛力〉、防御を〈鋼鉄〉。良い組み合わせに見えるが、体術は教わってなかったな。付け焼刃で通じるか?)
再び近づいてきた拳を躱し、赤い猿の横腹目掛けて拳を突き出す。拳は深く沈みこんだが、致命的な一撃にはならない。猿の血が噴き出しただけだ。急いで猿から離れ、反撃を躱す。
「どうすればいい…?クソッ!」
魔獣の動きはより緩慢になってはいるが、クロムを捕捉しているのかゆっくりと近づいてくる。幾度か近づいては殴り、離れることを繰り返した。
猿の振う腕は更に遅くなり、かなり避けやすくなっている。だが破壊力は健在で殴られた木は簡単になぎ倒されている。
辺りは既に暗く、視界が悪い。だが、魔獣の目だけは不気味に爛々と輝いている。魔獣の位置だけはわかるのだ。
(生き物の急所は心臓と首だ。拳じゃ心臓は狙いにくい。首を狙うしかない。
…そうだ、捩じるか。背後から、一気に。)
果たしてクロムの目論見は正解だった。正面から魔獣へと向かい、振るわれた腕を身をかがめて回避して背後を取る。勢いのまま跳ねて、頭を鷲掴みにし、顎を掴み、勢いのまま力任せに捩じった。
ごきゅん、と嫌な音を立てて首が沈んだ。首の骨が外れたのだ。猿はびくんと体を震わせ崩れ落ちた。
猿はまだ息があったが、その四肢は動いておらずかすかな呻きだけが聞こえた。起き上がらないことを何度も確認して、クロムは鍜治場へと走った。破壊された壁から僅かな明かりが覗いていた。
「おい、大丈夫か!」
返事はなかった。鍜治場へと入る。ウルクスは倒れたままだ。姿を見て、一目見ただけでは気を失っているだけに見えた。
…血まみれの左胸が潰れていなければ。
ウルクスが死んだ。最期に話すことすらもできないままに。
その夜は何も考えることができず脱力して呆けていたが、日が昇ってからウルクスが死んでいることを再度認識した。炉の火は既に消えていた。
痛む体を動かしてウルクスを担ぎ、谷底へ運んだ。血を失った老人はあまりに軽かった。
谷底に着いてからは浅い穴を掘った。それから枯れ木を集めてきた。
穴にウルクスを寝かせ、震える声で何度か〈火〉を唱えてウルクスを焼いた。ようやく火が点いたとき、枯れ木を上に置き火が消えないようにした。
以前、死んだ者は炎で焼いてから土に埋めるとウルクスは言っていたからそうしたのだ。
人の形をした炭の傍に剣を添えて土をかけた。手ごろな岩を一つ、墓標代わりに傍へと置いた。
それを終えてから少しの間放心していたが、最後に手向けとして頭を垂れて手を組み、死者のせめてもの安寧を祈った。
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