11-1.情報共有①

 由羅の目は青い空に向いてはいるが、瞳はそれを映してはいなかった。

 頭の中が2つの事柄でいっぱいだったからだ。


 一つは事件の事。

 未だに全貌が見えず、殺害方法でさえ掴めていない。


 そしてもう一つは紫釉のことだった。

 先日ヴァルティアに襲われた後、触れられた紫釉の柔らかな唇の感触を、ふとした瞬間に思い出してしまう。


 そうすると胸がじんと甘く痺れるような感覚に襲われるのだ。

 なぜそうなるのか?

 今まで感じたことのない気持ちに戸惑ってしまう。


(って、事件に集中しなくちゃ! それでみんなの元に帰るのよ!)


 由羅が気持ちを切り替えようとしていると、廊下で何やら切羽詰まった声がして、由羅は廊下を覗いた。

 そこには蘭香と紫釉付きの官吏が焦った様子で話していた。


「まぁ、どうしましょう」

「急いでもらわないと困るんです」


 このまま無視することもできず、由羅は2人に声をかけた。


「どうしたの?」

「実は、主上にお茶をお持ちしようと思ったのですが、急用ができてしまい……」

「なら私が持って行くわ」

「よろしいのですか?」

「ええ!」


 特に急ぎの用事もないし、時間はたっぷりある。

 由羅がそう申し出ると蘭香は申し訳なさそうに眉を下げ、持っていた盆を由羅に渡した。


「ではお願いします」


 そう言って蘭香は官吏と共に足早に去って行った。

 その後ろ姿を見送ったあと、由羅は碧華宮に作られた紫釉の執務室へと向かった。


 ※


「失礼します。お茶とお茶菓子を持ってきたのですが……」

「由羅か、入っていいよ」


 紫釉の言葉を受けて、執務室の扉を開けた。

 中に入った由羅が一番最初に目にしたのは泰然の姿であった。


「泰然様! 来てらっしゃったんですね」

「お、由羅、元気にしてたか? また脱走してないだろうな」

「ふふっ、さすがにもう脱走はしてませんよ。今は元気に捜査していますよ」


 久しぶりに会った泰然に駆け寄ってそう答えると、その会話に割って入るように紫釉が大きなため息をついて言った。


「最初に声をかけるのが夫の俺じゃなく、泰然なのは薄情じゃないか?」


 そこには大きな執務机に座っている紫釉が筆片手に頬杖をつきながらこちらを恨めしそうに見ている姿があった。


「夫って……紫釉様は夫じゃないですよね?」

「そんなことないよ。だって由羅は俺の妃だろう?」

「ですがお飾りですよね」


 何をむくれているのかピンとこない由羅だったが、ふと見れば紫釉の机の上に大量の書類が積み上がっていることに気づいた。


 蘭陵の部屋にも本がうず高く積まれていたが、紫釉も負けず劣らずの書類の山である。まぁ、前者は怠惰の結果であるのに対し、紫釉のは不可抗力と言ったところだろう。


「すごい量の書類ですね」

「左半分の書類は片付けたんだけどね。まだ残りがこんなにあるんだよ……」


 紫釉はそう言って深いため息をつきながら、右の紙の山を見た。

 左半分の倍はある右半分の山を由羅も紫釉につられて、沈痛な面持ちで見てしまう。


 その時、つかつかという足音がしたかと思うと、凌空が右の紙の山に更に紙の束を容赦なく置いた。


「これで今日の分の確認は終わりです」

「はあ……まだこんなにあるんだ」

「由羅さんの件で、だいぶ紅蘆派を刺激していますからね」


 凌空の言葉に由羅は首を傾げた。

 この書類と自分に何の関係があるのだろうか?


「あの、何故私の名前が出てくるんですか?」

「貴女を娶ったことで紅蘆派が反発して、色々と難癖をつけた意見書や法案を提出してくるんですよ。まぁちょっとした嫌がらせですね」


「でも、そのどうでもいい書類も確認しなくてはならないし、棄却するにしろ正当な理由を書類に書いて返答しなくてはならないからね。……いちいち面倒で」


 紫釉は頬杖をついたまま右の一番上の書類を手に取ると、ぴらぴらと振りながらうんざりとした様子で言った。

 その様子を見た凌空は、呆れた表情を浮かべた。


「ですが、後宮で執務なんていう馬鹿なことをしたために、紅蘆派の動きがさらに加速したんですから、自業自得です。むしろ巻き込まれた私は被害者ですよ」


「それは悪かったと思っているけど、由羅と一緒に過ごす時間を取るためなんだ。我慢してほしいな」


 悪びれもなくにっこりと微笑む紫釉の言葉を聞いて、凌空は「言っても無駄」と言うように小さくため息をついた。

 そのため息の意味を気づかないふりをして紫釉が話題を変えた。


「由羅はお茶を持ってきてくれたんだね。ありがとう」

「では、ちょうど切りもよいですし、休むことにしましょう」

「お、いいな! 俺もちょうど小腹が空いてたんだ」


 紫釉は流れるようにさりげなく由羅の持っていた盆を取ると、執務室の続きになっている休憩部屋へと移動した。


 熱々の胡麻団子と唐朝烏龍茶を一口飲み、ほうと息をつく。昼下がりの穏やかな空気が流れる。

 だが、それを壊すのが申し訳ないと思いつつ、せっかくこの面子が揃ったので、由羅は事件の捜査状況を確認することにした。


「あの、事件の捜査がどういう状況なのか、情報共有させてもらえないでしょうか?」

「そうですね。せっかく泰然からの報告もきましたし、今の捜査状況を整理しましょう。由羅さんはこの間殺害現場に行って分かったことがありましたか?」


 凌空の言葉に由羅はこの間の現場検証と証言者の内容を端的に説明した。


「えっと、まず死因についてですが、毒は口から摂取したと見て間違いないと思います」


 5つの毒の摂取方法――経口摂取、注射による投与、吸入投与、点眼、経皮投与のうち、これまでの調査から、経口摂取以外は否定された。

 だが、その説明に泰然は待ったをかけた。


「でも蘭陵の話では食べると呼吸困難になる毒芹も福寿草も食べていないだろう?」


「はい。今回現場に行って関係者に話を聞きましたが、それらの食べ物は食べていませんでした。亡くなる直前に口にしたのは紅玉薬だけ。……それで一つ確認なのですが、泰然様に確認をお願いした件は何か分かりましたか?」


 泰然には以前、被害者には食べた後に体に異変が出るような食べ物があったかを調べるように依頼していた。

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