10-3.ヴァルティアの影
そして、瞬間足首をぐっと掴まれた感覚に襲われたかと思うと、次の瞬間には地面にひきずり込まれた。
突然、目の前が真っ暗になり、自分がどこにいるのかも分からない。
「ここは……どこ? 何が起こったの?」
「由羅……探したぞ」
聞き覚えのある声だった。
低い艶のある男の声だったが、体に纏わりつくようなねっとりした声音であった。
「……ヴァルティア王子」
由羅がそう呟くと、暗闇の中からヴァルティアが音もなく姿を現した。
はだけた胸元からテフェビア人特有の褐色の肌が露わになり、赤銅色の髪を後ろだけ長くしている。
金の瞳は獰猛な獣のように鋭く。だが薄い唇に浮かぶ笑みが不釣り合いで不気味に見えた。
ヴァルティアは由羅を見据えながらゆっくりと近づいてきた。
恐怖からか、由羅の息が詰まり、体が硬直したように動かない。
がくがくと震えてしまいそうになる足に力を込め、由羅はヴァルティアを睨みつけたがヴァルティアは由羅の鋭い視線など意にも介さず、上から下へと舐めるように見た。
そして突然由羅の手を掴んだ。
その速さに由羅は霊獣の力を使う暇すらなかった。
「俺の証はどうした?」
証――あの呪いの紋様の事を言っているのだろう。
「呪いは解いてもらったわ」
「ほう、まさか俺の術を解くとはな。お前の白い肌に俺の証である真紅の紋があるのは美しかったのに残念だ」
ヴァルティアはくつくつと笑ったかと思うと、由羅の甲にそっと口づけた。
ぞわりという悪寒が背中を駆け抜ける。
「触らないで!」
反射的にヴァルティアの手を振り払おうとしたが、その抵抗は無駄に終わった。
逆にぐっと手首を掴まれる。あまりにも強く握られたので由羅は痛みで顔を顰めた。
「っ!」
ヴァルティアは由羅の手首を握ったまま、強引に引き上げた。
由羅の体は宙に浮きかけ、足元が不安定になる。
「由羅、俺の元に帰ってこい。どうせ行き場などないのだろう? おとなしく戻ってくれば飽きるまでは可愛がってやる」
ヴァルティアの唇が由羅の首筋をなぞり、さらには耳朶に触れる。
その感触に背中に毛虫が這うような感覚がして、不快で吐きそうだった。
「嫌!」
由羅は顔を背けてぎゅっと目を瞑った。
(誰か、助けて!)
「由羅から離れろ!」
その声と共に剣が振り下ろされる音がしたかと思うと、同時にカギンという金属音が響いた。
ヴァルティアが手を放したため地面に倒れ込んだ由羅の前に、紫釉がヴァルティアから庇うように立った。
「紫釉様……」
紫釉は剣を構えたまま、ヴァルティアを睨みつけるのに対し、紫釉を見たヴァルティアは薄く笑った。
「この異空間に来れるとは驚きだな。その霊獣の力……さては、俺の証を解いたのは貴様か。どけ、そいつは俺のものだ」
「断る。お前に由羅は渡さない。命が惜しければ去れ」
両者は剣を構えたまま無言でにらみ合う。
一瞬でも隙を見せれば殺される。張りつめた空気に由羅は思わず息を呑んだ。
だが最初に剣を下したのはヴァルティアだった。
「俺の空間とは言え、影だけを飛ばしている状態では分が悪い。今日は退いてやろう」
そう言って踵を返したヴァルティアだったが、ちらりと由羅を一瞥すると、口の端を持ち上げてにやりと笑った。
「お前には帰る場所など無い。俺の元に来るのを楽しみにしてる」
「由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない」
紫釉の力強い言葉にヴァルティアは鼻で笑い、来た時同様に闇に溶けるように姿を消した。
同時に気づけば、由羅たちは市場に戻っていた。
活気にあふれる喧騒と人々の熱気が由羅の周りに満ちていて、先ほどの事が夢だったかのように思えた。
だが、ヴァルティアに触れられた時の不快な感触がまだ残っており、あれが現実であったことを示していた。
由羅は紫釉に手を取られ、人通りの少ない路地へと連れていかれたと思うと、ぎゅっと抱きしめられた。
すると先ほどの緊張や不快感が一気に消え去り、由羅の心が安堵と安心感でいっぱいになった。
「由羅、大丈夫?」
「紫釉……様。大丈夫です。来てくださってありがとうございました」
「何かされてない?」
「……少し、体を触られて程度です」
「……は?」
紫釉の問いに答えた由羅の言葉に弾かれるように体が離された。
そして眉間に皺を寄せた紫釉が、低い声でさらに尋ねて来た。
「どこを触られたの?」
「えっと、右手の甲と首と……耳ですけど」
「あの男、やっぱり殺せばよかった」
紫釉はそう吐き捨てるように言ったかと思うと、唇で由羅の手の甲に触れた。
だがそれには全く嫌な感じはしなかった。
唇から紫釉の優しさと愛おしさが伝わってきて、由羅の心がほっとして張りつめていたものが解けていくようだった。
紫釉はそのまま由羅の首筋に口づけを落とし、最後に耳朶に触れた。
「消毒完了」
紫釉は満足そうに笑った。
ヴァルティアに触れられた時は虫唾が走るほどの嫌悪感を覚えたが、紫釉に触れられるのは恥ずかしくはあるが全く嫌ではなかった。
むしろ紫釉に触れられたことで、ヴァルティアに触れられた不快感が全て取り除かれた気がする。
「じゃあ、帰ろう」
そう言って紫釉は由羅の手を優しく握った。
一瞬驚いた由羅だったが、そのまま手を引かれて皇城へ戻っていった。
その時、由羅の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。
紫釉が先ほど言った言葉。
『由羅の帰る場所はお前の元じゃない。由羅は俺が守る。もう二度と離す気はない』
帰る場所……そして、二度と離す気はないという言葉。
どこかで聞いたような、何か大切なことを忘れているような。
だがそれが何なのかが思い出せない。
それが気にならないかと言えば嘘になる。
でも、繋がれた紫釉のぬくもりを今は感じていたい。
そう思って、由羅は紫釉の手から伝わる優しさと穏やかさに身を任せた。
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