10-2.心臓が止まりそう

 それを見た由羅はソワソワと落ち着かなくなってしまい、気恥ずかしさを誤魔化すように、わざと大きな声を上げた。


「あっ、お代払ってませんでしたね」

「いらないよ」

「でも……」

「由羅が美味しそうに食べてくれたのがお代だよ」

「それはお代とは言いませんよ」

「気にしないで。俺がしたくてやっていることなんだから」


 お金を差し出しても受け取ってくれない紫釉に由羅は困ってしまった。


(うーん……どうしようかしら)


 悩んだ由羅にふと一つの案が思い浮かんだ。


「じゃあ、碧華宮に戻ったら紫釉様のために何か料理を作りますよ。菓子でも点心でも、たいていのものは作れると思いますから!」


 以前、標的ターゲットから情報を聞き出すために、料理人見習いとして潜入したことがある。その時に店のオヤジさんにみっちり料理を叩き込まれたのだ。

 だから、料理の腕には自信がある。


「そっか。じゃあそうしてもらおうかな。ふふ、由羅の手料理、楽しみだよ」

「任せてください!」


 由羅が自信たっぷりにどんと胸を張ったところで葱油餅ツォンヨゥピンを食べ終えた。すると紫釉は徐に懐を探った。


「そうだ、さっき干し柿を売っているのを見つけたんだ。由羅は柿が好きだったよね。ほら、食べよう」


 紫釉はそう言って懐からこの時期には珍しい干し柿を取り出して由羅に手渡した。

 確かに由羅は柿が好きだが、それを紫釉に言った記憶がない。


「よく私が柿が好きって知ってましたね? 言ったことありましたっけ?」

「うん、前にね」


 だが記憶を辿ってみるがやはり話した覚えはない。


(お酒を飲んだ時に酔って言ったのかしら?)


 そんなことを考えていると、紫釉に声を掛けられた。


「由羅、口を開けて」


 言葉の意味を考えるより先に由羅が反射的に口を開けると、そこに柔らかい干し柿が差し入れられた。

 思わずもぐもぐと咀嚼すると、柔らかな触感と共に甘さが口いっぱいに広がった。


(美味しい……けど!?)


 ふと気づく。

 これは世に言うところ「あーん」というやつでは?

 恋人たちがこうやって食べさせているところを見たことがある。

 そう意識した瞬間、カッと頬が熱くなった。


(いや、深い意味はないはず。ほら、宇航ゆはんにもお粥を食べさせてもらったことがあるし!)


 そう思って平静を装おうとしている由羅だったが、追い打ちをかける事態が起こった。


「じゃあ、俺にも食べさせて」

「!?」


 これこそまさに恋人同士がすることだ。

 紫釉は悪戯っぽくそう言うと、由羅の顔を覗き込むようにして顔を近づける。


「由羅が食べたんだもの、俺も食べたいな。それとも由羅だけ食べて満足しちゃうの?」

「そ、そんなことは……」


 好物の柿を貰えたのは嬉いし、紫釉にも食べて欲しい。

 だがこのような形で食べてもらいたいわけではない。

 由羅が動揺して固まっている間に、口づけをするのではないかと言うくらいの距離に紫釉の唇が迫る。


「黒の狼は義理堅いんじゃなかったんだっけ?」

 

 黒の狼を持ち出されると由羅も弱い。


「じゃないとこのまま口づけしちゃうよ」

「~!」


 紫釉の口がわずかに開き、それが妙に艶っぽく、違う意味でもバクバクと由羅の心臓が高速で動いてしまう。


(ええい! ままよ!!)


 由羅は恥ずかしさでぎゅっと目を閉じて紫釉の口元に干し柿を差し出した。


 するとふっと気配が消え、由羅がゆっくりと目を開けると満足そうな表情を浮かべた紫釉の姿があった。

 漸く体が離されて、由羅はホッと一息ついた。

 だが先ほどの間近に迫った紫釉の整った顔がを思い出され、紫釉の顔がまともに見れない。さっさと皇城に帰ろう。


「紫釉様、もう帰りましょう。人も多くなってきましたし、身分がバレちゃうかもしれませんし」


 夕暮れ時で夕飯の食材を買う人や屋台で食事をする人が増えて来て、通りも混んできた。

 由羅はもっともな言い訳をすると、紫釉の返事も聞かずに踵を返そうとした時だった。


 大声で話しながら歩いて来た酔っ払いが、どんと由羅の肩にぶつかっきたのだ。

 勢いよくぶつかられてしまい、由羅はそのまま突き飛ばされてしまった。


「わっ!」


 倒れる。

 そう思った由羅をふわりと白檀の香りが包み込んだ。


「大丈夫?」


 耳元で紫釉の声が響く。

 吐息が耳朶にかかり、仄かな熱が伝わる。


 その時、由羅は初めて紫釉の胸に飛び込んでいることに気づいた。

 トクトクという紫釉の心臓の音と、逞しい胸板、そして体温が伝わってくる。


「人の流れが多いから、少しこのままでいて」


 そう言って紫釉が由羅を包み込むように抱き寄せた。

 この数時間の間に何度心臓が音を立てただろう。

 心臓が余りにも忙しなく動いたせいで、このまま止まってしまうのではないかと思ってしまう。


「し、紫釉様……」


 この緩い拘束を解いてもらいたくて紫釉の名を呼んだ時だった。

 由羅の背中にぞわりとした悪寒が走った。

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