10-1.被害者のために

 そうして姜家を後にした由羅であったが、脳裏に浮かぶのは樹璃と瑤琴の乳母の泣き顔だった。


 大切な人を失った無念さや辛さ、悲しみが伝わって来て、由羅の胸が締めつけられるような思いだった。

 黙って歩いている由羅を不思議に思ったのか、紫釉は足を止めて由羅の顔を覗き込んだ。


「どうしたんだい? 何か気にかかる?」


 由羅はどう言葉にいいのか、うまく言えない。

 だが自分の中の想いを整理するようにゆっくりと口を開いた。


「事件について気になるというより……少し罪悪感のようなものがあって」

「罪悪感?」

「はい。私は自分の事ばかり考えていたなぁとちょっと反省していたんです」


 由羅がこの捜査に参加した目的は、この事件を解決して一刻も早く後宮を出るためだった。

 早くこのお飾り妃という役割を終えて、宇航ゆはんたちの元に帰りたかったからだ。


 だけど翠蓮と瑤琴の家に行き、二人にはやりたいことがたくさんあったことを知った。

 翠蓮は皇妃としてより良い国を作りたいと思っていたし、瑤琴は父親のために刺繍を頑張っていた。


 だがその未来も希望も突然断たれてしまった。

 それは翠蓮と瑤琴だけでなく、れい 霜月そうげつ 紫霞しかもそうだろう。


「皆、夢や希望があったはずなのに、突然奪われてしまった。そんな単純なことに気がつかなかったんです。事件を解決するのは自分のためだったけど、今はそれよりも未来を奪われた彼女たちのために犯人を見つけなくちゃって思います」


 由羅は犯人に対する怒りを覚え、ぎゅっと拳を握りながら言った。

 自分のためだけじゃない。

 亡くなった4人の無念を、そして残された家族の無念を晴らすために、由羅は事件を解決したい。そう、強く思った。

 紫釉は眩しいものを見るように目を細めた。


「由羅は変わらないね。いつも他人の事を考える」

「え?」


「由羅は自分のことよりも他人の事を考えられる人間だ。この事件の捜査は、刑部は仕事だから、凌空も殺された従妹のためより皇帝の権威を守るために動いている。だけど由羅は被害者のために事件を解決しようとしている。そんな人の痛みに寄り添える由羅が、俺は好きだよ」


 あまりにも直接的に好意を告げられ動揺し、すぐには言葉が出なかった。

 紫釉はそんな由羅を見てくすりと小さく笑った後、困ったように眉を下げた。


「由羅の気持ちは分かるけど、俺としては複雑な気持ちだな」

「どうしてですか?」

「だって事件が解決したら由羅は後宮を出て行ってしまうだろ? 事件は解決したいけど、由羅には傍にいてほしいからね。でもまぁ、由羅の気が変わってくれるように、頑張るとするよ」


(頑張る……とは? 何を?)


 紫釉の言っている言葉の意味が分からず由羅はきょとんとしてしまう。

 だがそんな由羅を楽し気に見た紫釉は、皇城とは反対の市場の方に向かって歩き出した。


「じゃあ、行こうか」

「紫釉様、どこ行くんですか? 皇城は反対方向ですよね?」

「いいから来て」

「えっ?」


 由羅は困惑しながら紫釉の後について行くと、先ほど待ち合わせしていた場所まで戻ってきていた。

 そして紫釉は一つの屋台の前で足を止めた。


「あ……」


 驚きの声をポロリと漏らした由羅の前には、先ほど食べるかどうかの誘惑と戦っていた葱油餅の店があった。

 由羅の驚きをよそに、紫釉は手慣れた様子で葱油餅ネギ入りおやきを2つ購入すると由羅の前に微笑みながら差し出した。


「ほら、食べたかったんだろう?」

「……どうして分かったんですか?」

「待ち合わせの時、じっと見ていたからね」


 まさかそんなところを見られていたとは。

 物欲しそうな顔をしていただろうことを考えると、羞恥で地面に埋まりたくなった。


「それに、俺もお腹が空いてしまったしね。せっかく町に来たんだし、色々食べて帰らない?」

「でも、早く帰らないと凌空様が……」

「いいからいいから。ほら、早く食べないと冷めてしまうよ」


 一瞬、今朝見せたような疲労した凌空の表情が浮かんだが、目の前の葱油餅ツォンヨゥピンの誘惑には抗えなかった。


「ではいただきます」


 熱々なのでフーフーと息を吹きかけて冷ましながら葱油餅を頬張った。。

 もちもちとした皮に、ちょうどいい塩加減である。


(うううう空腹にしみる美味しさ)


 葱油餅を半分食べて、空腹がいくらか和らいだところで、不意に視線を感じて由羅が顔を上げると、紫釉の水色の瞳と目が合った。

 紫釉は満足そうな表情で、その眼差しには慈愛と思慕、いや恋慕に近い色があって由羅は思わず息を呑んだ。


「え、えっと……私、何か変でした?」

「いや。ただ由羅が美味しそうに食べてくれて嬉しかっただけだよ。ここに由羅がいるんだなぁって思ってさ」


 万感の思いを込めてしみじみと言った紫釉の顔には、恋人に向けるような甘さが含んでいた。

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