4-3.妃という存在

 泰然に連れられて部屋へと戻った途端、由羅は突然白檀の香りに包まれた。

 それが紫釉に抱きしめられていることに一拍遅れて気づく。


「良かった……無事で」


 耳元で囁かれた言った紫釉の言葉には、安堵の色が滲んでいた。

 だが、何故抱きしめられているのか。

 状況が掴めずに戸惑う由羅は視線を感じてそちらを見ると、そこには口元に微笑みを湛えた凌空の姿があった。

 しかし、その目は笑っておらず、纏う雰囲気から静かな怒りが伝わってくる。


「由羅さん」

「は、はい!」


 名前を呼ばれただけで、由羅の背中がゾクリとして冷たい汗が流れた。

 荒れ狂う吹雪の雪山にいるかと錯覚するほどの冷気が部屋中を満たしているのを感じる。


「貴女は、自分がしたことの意味を分かっていますか?」


 部屋の隅には俯いた蘭香が立っていた。

 目の下が赤く、泣いていたのが見て取れた。


「動揺した蘭香を宥めて事情を聞けば、貴女が宮から消えたというじゃありませんか。もしかして誘拐されたのではと、総出で探しましたよ」


 凌空のその言葉に、軽い気持ちで抜け出したことが思った以上に大事になってしまっていることを由羅は理解した。


「もし貴女に何かあったら衛兵や蘭香の責任問題になって、何かしらの刑罰を受けることになっていたのですよ」

「そんな! 私が勝手に出たのに?」

「それが今の貴女の立場なのですよ。たとえお飾りだとしても、ね」


 その時、由羅は初めて事の重大さを知った。


 妃という立場は自分が思っているよりもずっと重いものなのだ。人の命運を大きく左右し、最悪の場合、命を奪うことすらある。

 それが妃なのだ。


 今まで由羅は黒の狼として貴族の依頼を受けることはあったし、貴族というのはある意味身近な存在でもあった。

 それに、黒の狼として彼らと接する場合は対等な立場であることが多かった。


 だから忘れていたのだ。

 貴族が平民の人生を簡単に変えられることを。命令一つで命を奪えることを。

 例えばヴァルティアが由羅にしたように……。


「考えが及ばなくて……すみませんでした」


 俯く由羅に紫釉は優しく声をかけた。


「どうして勝手に宮の外に出ようと思ったんだい? 何か嫌なことがあった? それとも何か不満があった? 言ってくれればなんでも用意したのに」


 紫釉の問いかけに由羅は首を振った。

 宮の中では快適に過ごせたし、物が欲しいわけではないのだ。


「怪死事件がどうなっているのか知りたくて。早く解決したかったんです。でも紫釉様は何も教えてくださらないし。だから、自分で調査をしようと」


 由羅の言葉に困ったように眉根を顰めた紫釉に対し、凌空は柔らかな声音で言った。


「貴女一人で解決できると、そう思ったわけですね」


 そう言った凌空は口元に笑みを浮かべていた。だが、そこには嘲笑の色が浮かんでいる。


「はっきり言いましょう。貴女ごときがしゃしゃり出て解決できるほど簡単な事件ではありません。貴女に何ができるというのですか?」

「それは……」


 確かに刑部でさえ調査が難航しているのだ。何の力もない由羅が単独で調査したところで、大した成果は得られないだろう。

 それでも黙ってこの部屋で結果を待つなどできない。


「紫釉様は事件の捜査で危ないことに巻き込みたくないと言いますが、私はただ守られて、一人で何もしないで待っているのは……辛いんです。早く事件を解決して、後宮を出たいというのが本音です」


 その言葉に紫釉の眉がわずかに動いたように見えたが、それを確認するより先に、凌空の抑揚たっぷりの声が部屋に響いた。


「何もしないで待っているのが辛い、ですか。なるほどなるほど」


 そう言って凌空は大仰に頷いた。


「分かりました。でも主上も私も忙しい身です。これ以上貴女に時間を割く余裕はありません。ですから今日はこれで帰ります。では」


 そう言って部屋を出て行く凌空の背中を、由羅は苦い思いで見つめるしかなかった。

 紫釉は視線を由羅に向け、苦笑しながら由羅の頭をポンと頭を軽く撫でた。


「今日はゆっくり休んで。後でまた来るよ」


 結局由羅の願いは届けられず、凌空に一蹴される形になった。

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