4-2.老人と本

 由羅はそう思って手伝いを申し出ると、老人は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが次の瞬間には深々と頭を下げた。


「すまんの。ではお願いしよう」

「はい! もちろんです。どちらにお運びしますか?」

「書庫までお願いできるだろうか?」

「書庫……」


 言われてはたと気づく。

 皇城内の大まかな建物の位置は把握しているが、三省六部以外の細かな建物までは覚えていない。


「えっと……」

「こっちじゃよ」


 由羅が戸惑っていると、老人は薄紫の長袍上着を翻して道を促してくれたので、それに付いて行くことにした。


「儂はしゅう 伯瑜はくゆと申すもの。お前さんの名は?」

「私は由羅です」

「そうか、由羅と言うのか。由羅は最近皇城こうじょうに来たのかい?」

「はい、そうですが……」


 由羅は何故そんなことを聞かれたか分からず一瞬考えたが、すぐにその理由に思い至った。

 書庫の場所を知らなかったからだ。


「伯瑜様はお勤めされて長いんですか?」

「そうさねぇ。先々代の皇帝にお仕えしておるのでここには長いこと勤めているの。主上がお小さい頃には少し学の手ほどきをさせてもらったもんじゃ」

「えっ、じゃあ伯瑜様は紫釉様の先生ということですか!?」


 由羅は驚きながら伯瑜の姿を見ると、薄紫の長袍上着は上質の綿めんでできており、結い上げている白髪の留め具も小さいながらも銀でできていた。

 実はかなりいい家柄の人間なのだろう。


「あ、申し訳ございません。礼儀を欠いた態度を取ってしまいました」


 由羅が慌てて言うが、伯瑜は全く気にしていない様子で、緩く首を振りながら言った。


「いやいや、そうかしこまらずに。ずいぶんと昔の話じゃて。今は書庫でのんびりさせてもらっとる一官吏じゃ。……それにしてもあの小さな皇子が今や妃を娶るほど成長したかと思うと、歳月の流れは早いものじゃね」


 伯瑜は懐かしい思い出に浸るように、優しい顔で空を見上げた。


「そう言えば紫釉様はなかなかお妃が決まらなかったらしいですね。妃候補が次々と呪い殺されたからだという噂を耳にしました」

「ああ、儂も劉家が呪ったのだとかいろいろ噂は聞いたがの、さてはてどこまでが本当なのやら」

「伯瑜様は噂を信じてらっしゃらないのですか?」


 確かに妃候補の殺人については呪いなわけがない。

 だが、噂を信じていない様子の伯瑜には、信じない根拠があるのだろうか。

 由羅の問いに、伯瑜は難しい顔をしながらゆっくりと返答を述べた。


「そうさねぇ。確かに劉家は主上に反発している一族じゃて、そう言われるのも不思議ではない」

「では魯家と藍家は現朝廷に対して中立ということですか?」

「さぁて、中立に見せているが分からん。魯家や藍家も腹のうちは分からんからなぁ。あとは筆頭五家ならば楊家と趙家だが、あそこは主上を支持しているのは明らかじゃ」


 確かに楊家の凌空と趙家の泰然の2人が紫釉に対する態度を見れば、紫釉に忠誠を誓っているのは疑いようもない。

 そんな話をしていると、いつの間にか図書寮へと足を踏み入れていて、奥にある書庫殿に到着した。


「ここじゃよ」


 伯瑜に促されて中に入ると、古い書物特有の古紙の匂いが鼻孔を抜けた。

 少し埃っぽい室内には書棚が整然と並び、そこにはぎっしりと本や巻物が並べられている。

 由羅は伯瑜に案内され薄暗い部屋の奥まで進むと、その一角に書卓があり、山積みにされた本が目に入った。


「ここに置いておくれ」

「はい」


 伯瑜の指示に従い、どんと書卓に本を置いた。

 一仕事終えて、由羅がふうと息をついていると、伯瑜は飾り棚の扉を開けながら由羅に声をかけた。


「よければ礼に茶の一杯でもご馳走したいのじゃが」


 魅力的な誘いではあるが、さすがにそろそろ戻らないと宮を抜け出したことがバレてしまうだろう。

 由羅は申し訳なく思いながら誘いを断ることにした。


「大変嬉しいのですが、仕事が残っているので戻らなくてはならないんです」

「そうか。それは残念じゃが仕方ないの。まぁ、儂はここにおるから、いつでも茶を飲みにくるとよい。茶菓子を用意して待っとるよ」

「ありがとうございます! では」


 由羅は一礼して書庫を出ると、足早に廊下を歩き、図書寮を抜けて後宮への道を急いだ。


 この角を曲がれば、抜け出した時に乗り越えた塀に辿り着く。

 そう思いながら曲がり角を曲がろうとしたところで、見知った顔がいることに気づいて慌てて足を止めた。


(な、なんでここに泰然様がいらっしゃるの!?)


 このまま見つかるわけにはいかない。

 由羅は急いで回れ右をしようとした時には時すでに遅しだった。

 泰然とばっちりと目が合ってしまい、由羅は動くに動けなくなってしまった。


「あ……」

「由羅!? お前、なんでここにいるんだ!?」

「えっと、その……」


 なんとか誤魔化せないかと脳を高速回転させて言い訳を考えようとしたのだが、更に最悪なことが起こった。

 泰然の名を呼びながら一人の兵士が駆け寄って来たのだ。


「泰然様! 一大事でございます!」

「なんだ?」

「翡翠妃様が宮からいなくなられたとの報告が!」

「いなくなっただと?」


 泰然はそう言うと、由羅の事をちらりと見やり、頭をガシガシと掻きながら大きなため息をついた。


「あー、その件は問題ない。翡翠妃様の捜索は不要だ」

「しかし……」

「問題ない。すぐに見つかるさ。お前は持ち場に戻れ」

「はっ!」


 兵が一礼して去って行くのを見送った泰然はくるりと由羅へと渋い顔をして向き直った。


「はぁ……とりあえず、戻ろうぜ。言い訳は帰ってから聞くからよ」

「はい……」


 由羅は自分の運の悪さを呪いつつ、がっくりと肩を落としながら、泰然に連行されるように碧華宮へと戻った。

 そこで待っていたのは死にそうなほど青ざめた紫釉と冷笑を浮かべる凌空の姿だった。

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