1-2.何故か求婚されました
美丈夫に連れられて街を歩いて行く。
雑多な露店が広がる市場を抜けると、しっかりとした店構えの店が立ち並ぶ街並みへと景色が変わっていった。
「ところで、君の名前を聞いてもいいかな?」
「私は由羅と言います」
「由羅……? そう……なんだ」
由羅の名前を聞いた青年は一瞬驚いた顔をした。
そんなに珍しい名前ではないと思うのだが。
「あの?」
「あぁ、何でもない。俺は
「紫釉様ですね」
由羅がそう言うと、紫釉と言う名の美丈夫は小さく微笑んだ。
少しだけ眩しいものを見るような視線を受けて、由羅は微かな違和感を感じたが、紫釉が足を止めたためその思考はすぐに消えてしまった。
「ここだよ」
「えっ!?」
紫釉が足を止めた店は、臙脂色の漆塗りの門構えで、欄干の部分には細かな彫り物が施されており、更にそれが金で彩られていた。
一見して高級料理店と分かる店構えである。
正直、一介の平民の娘がおいそれと入れる店ではない。ましてやこちらは衣が土埃まみれなのだ。
場違いにもほどがある。
「さぁ、入ろう」
「いえいえ! こ、こんな凄いところには入れません!」
「大丈夫だよ。ほら、行くよ」
「でも!」
怖気づく由羅の肩を紫釉はがっちりと掴む一方で、優雅な足取りで店の中に入っていく。
店内は予想通り貴族御用達といった様子で、床はピカピカに磨かれた黒曜石、鮮やかな朱塗りの柱に金の竜が描かれた
入店すると紫釉は常連なのか、慣れた足取りで個室へと向かって行った。
「ここなら気軽に過ごせるだろう?」
「お気遣いありがとうございます」
促されて黒塗りに螺鈿が施された椅子に座ると、すぐに由羅の前に桃饅頭と飲茶の類がいくつか並べられた。
「どうぞ、召し上がれ」
「ではいただきます」
店の高級さと並べられた食事の量に戸惑いつつ、由羅は恐る恐る小籠包を食べた。
その途端、口の中いっぱいに肉汁が広がる。
あまりの美味しさに脳天に雷が落ちたような衝撃を受けた。
(美味しすぎる! もちもちの皮もジューシーな餡もたまらない!)
ついつい箸が進んで食べていると、不意に視線を感じて由羅は顔を上げた。
そこにはにっこりと楽しげに由羅を見つめる紫釉の顔があった。
「す、すみません! はしたなかったですよね」
「いや、美味しそうに食べると思ってね」
「実際、美味しいので! でもあんな程度のお礼にこんなにご馳走になってしまってすみません」
たかだかスリを追いかけただけなのに、このような食事をご馳走になるのは、礼としては過分すぎる気がする。
だが、紫釉は首を振ると、柔らかく笑った。
「ううん。財布が無くなるのは流石に困るからね。こっちこそありがとう。さぁ、どんどん食べて」
紫釉はそう言ってゴマ団子を由羅の前に置いて勧めてきたので、由羅は恐縮しつつもそれを食べてしまった。
まるで餌付けをするかのように紫釉は由羅の目の前に食事を運び、由羅はそれを美味しく食べていると、気づけば目の前には大量の空になった食器が並んでいた。
一生分の贅沢をしたような気がする。もう二度とこんな食事にはありつけないだろう。
「お腹いっぱいです。ご馳走様でした」
由羅はそう言って両手を合わせて深々と礼をした。そして最後にジャスミン茶が運ばれてきたので、それをゆっくりと口に含んだ。
紫釉もまた優雅にそれを口に運びながら、まるで天気の話でもするかのようにさらりと由羅に告げた。
「ねぇ、由羅。俺のお嫁さんにならない?」
「っ!? は!?」
「だってこうやって会えたのって運命だと思うんだ」
思わず茶器を落としそうになる由羅に対し、紫釉は頬杖をつきながらこちらを見てほほ笑んでいる。
正直意味が分からない。
出会って直ぐに結婚なんて、金持ちの考えることは理解できない。
妾にでもなれと言う事なのだろうか?
(いや、そもそも冗談よね)
このような冗談を言われ慣れていない由羅は、どう返答したものかと悩んだ。
ここは深く考えず、軽く受け流すように言おう。
「えっと、紫釉さんって冗談が好きなんですね」
「冗談じゃないよ」
間髪入れずに帰されてしまう。よく見ると口元だけ見れば微笑んでいるように見えるが、目は本気だ。
どうしてなのか理由は分からないが、とにかく断らなくてはと由羅は本能的に思った。
「いえ、それは……ちょっと無理です」
「どうして?」
「どうしてって……重要な仕事があるんです」
「そうか……残念だな」
紫釉はそう言うと、一つため息をついてからジャスミン茶を綺麗な所作で飲んだ。
(今のは何だったんだろう? 揶揄われただけかもしれないけど、何か意味があるような……?)
頭に「?」と浮かべていると、気づけば茶器が空になり、由羅たちは店を出ることにした。
「今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそありがとう。仕事、頑張って」
紫釉はそう言うと金の髪を靡かせて去って行った。その後ろ姿を見送りながら、由羅はポツリと呟いた。
「仕事頑張って、か」
由羅が絶対に成し遂げなくてはならない重要な仕事。
それは――皇帝暗殺。
次の仕事であり、由羅がやらなくてはならない仕事なのだ。
正直、簡単な事ではない。だがやるしか由羅が生き残る道はない。
(あんな美味しいご飯を食べれたんだから死んでも悔いはないかも。いや、死にたくないけど)
そうして、由羅は紫釉とは反対方向へと歩き出した。
だが、この出会いが、国家を揺るがす事件の始まりになるとは、この時の由羅には知る由もなかった。
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