2-1.皇帝暗殺

 人々が寝静まった夜。

 由羅は城壁の上に立って、一つ息をついた。

 

 この仕事――皇帝暗殺などと言う物騒な事はしたくはないのだが、事情が事情だけに仕方がない。

 それに失敗すれこちらの首が飛ぶのだ。

 

 由羅は緊張を抑えるように、大きく深呼吸した。

 そして足音も立てずに軽やかに城壁の上を駆ける。

 

 足音を消すことも、素早く駆け抜けることも、“黒の狼”の一族である由羅にとっては朝飯前だ。

 見張りの兵士が見えたが、由羅の存在に気づく者はいなかった。

 それ故、皇帝の寝所まではあっという間に着くことができた。

 

 (間もなく寝所ね。……でもここから行くと見張りと遭遇エンカウントしちゃうな)

 

 さすがに皇帝の寝所の周りには見回りの兵士が多い。

 

 由羅は茂みに身を潜め、その兵士が一人になる隙を見計らってそっと背後に近づく。手刀を首に食らわせると、兵士は音もなく崩れ落ちた。

 それを繰り返し、最後の見張りも気絶させた。

 

 (よし、第一関門突破)

 

 後は皇帝を殺すのみ。

 たかが一人の人間。

 しかもそれは武道の達人ではない非力な人間だ。

 

 由羅自身も一族の中では剣の腕が立つ方ではないが、それでもある程度は訓練を受けている。

 

 (大丈夫、落ち着けばできるわ)

 

 そう自分に言い聞かせるよう頷くと、素早く皇帝の寝所の扉を開けて中に体を滑り込また。

 そして足音もなく皇帝の寝台まで行く。そっとその脇に立てば、人がこちらに背を向けたまま安らかな寝息を立てて眠っていた。

 

 (申し訳ないけど、その命、頂戴します)

 

 由羅は眠る皇帝を刺そうと剣を振り上げた。

 それを一気に下ろす。

 その時だった。

 

 「はっ!」

 「!!」

 

 皇帝は小さく叫んで起き上がると寝台に隠していたと思われる短剣で由羅の剣を瞬時に弾いた。

 由羅は咄嗟の事に驚きながらも、後ろに飛びのいて体勢を整える。

 

 「っ!」

 

 由羅はそのまま皇帝に向かって剣を繰り出すが、その度に皇帝は剣で応戦する。

 二度三度と打ち合いが続く。

 

 月明かりもない室内は真っ暗で、そんな暗闇の中で由羅の剣を正確に防ぐ皇帝に驚きを隠せない。

 由羅は夜目が効くためこの暗がりも問題ないが、まさか皇帝が反撃できるとは思わなかった。

 

 (なんで!?)

 

 動揺していると、逆に皇帝が決定打となるべく一撃を繰り出したので、由羅は慌てて身を反転させ、そのまま壁を蹴って勢いをつけると上から剣を振り下ろした。

 

 「はあ!」

 

 だが皇帝はその剣を弾く。同時に由羅の腹に思いきり蹴りを入れた。

 痛みで顔を顰めた由羅は蹴られた勢いのまま屏風を薙ぎ倒す。

 

 後ろに飾られていた壺と思われる陶器が割れる音が室内に響いた。

 由羅は床に倒れたまま体勢を整える間もなく皇帝の剣が振り下ろされる。それを転がるようにして避けた。

 

 「くっ!」

 

 由羅は手近にあった椅子を掴むと皇帝へと投げつける。そして直ぐに動いた。

 皇帝の意識を椅子に向け、由羅は身を潜ませて皇帝の右斜め下へと入り込み、その死角から一気に立ち上がり、喉元を目がけて剣を下段から上段へと振り上げた。

 

 だが、皇帝は素早く身を躱し、由羅の剣をすれすれのところで避ける。

 行き場を失った剣が虚しく空を斬った。その一瞬の隙を、皇帝は見逃さなかった。

 

 シュンと音がしたかと思った時には由羅の喉元に皇帝の剣が突きつけられていた。

 

 動けば死ぬ。息を呑んだまま硬直して動けずにいると、今まで厚い雲でその姿が隠されていた月が現れ、部屋を照らし出す。

 

 そして互いの顔がはっきりと見えた瞬間、由羅は愕然とした。

 同時に皇帝も由羅を見て驚いた表情を浮かべ、瞠目したまま互いに動けなかった。

 そして声を絞り出したようにようやく紡ぎ出した言葉は、静かな室内にやけに響いた。

 

 「君は……」

 「紫釉しう様?」

 

 そこには、昼間街で助けた紫釉の姿があった。

 

 (紫釉様が……皇帝?)

 

 混乱したまま由羅が紫釉の顔をじっと見つめていると、部屋の外から兵士が切羽詰まった声で呼びかけてきた。

 

 「陛下、何かありましたか? 物音がしましたが」

 

 その声に由羅も紫釉もハッと我に返った。このまま兵に捕らえられてしまうのだろう。

 そう思って由羅は身を固くしたが、紫釉は平静な声で兵士に答えた。

 

 「大丈夫だ。よろめいて壺を割ってしまっただけだ」

 「左様でしたか。片付けに侍女を呼びましょうか?」

 「いや、大丈夫だ。それより、茶を用意して欲しい。茶器は2つ持ってきて貰えるか。それと凌空と泰然を呼んでくれ」

 「御意」

 

 兵士が去る一方で、由羅は紫釉の対応に戸惑ってしまった。

 

 本来ならば由羅を兵に引き渡すだろうが、紫釉はそうしなかったからだ。

 混乱する由羅をよそに、紫釉は入り口で侍女から茶器を受け取ると、そのまま茶の準備を始めた。

 

 ※

 

 どうしてこうなった?

 

 由羅はまだ混乱したまま目の前に置かれた茶器を見つめた。

 茶器からは湯気が立ち上り、ジャスミンの華やかな香りが漂っている。

 

 「さぁ、飲んで。毒は入ってないよ」

 「はぁ」

 

 そもそも毒を入れるなら、殺そうとしている自分が入れるべきではないか。

 紫釉を見るとにっこりと笑って目でお茶を飲むように促してくる。由羅は促されるままにジャスミン茶を一口飲んだ。

 

 (美味しい……)

 

 昼間に飲んだものと同じくらい、いやそれ以上に香りのよいジャスミン茶であった。

 だが頭の中は突然の展開についていけない。

 

 先ほどまで殺そうとしていた皇帝と、何故お茶を飲んでいるのだろうか?

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 

 (暗殺に失敗したってことは私は死罪よね)

 

 死ぬのは怖くない。

 今までも死線を乗り越え、死と隣り合わせの世界で生きて来た由羅にとっては来るべき時が来てしまったのだと悟った。

 由羅の手にあるお茶が、最後の飲み物になるかもしれない。

 

 そう思うと由羅はゆっくりとそれを飲み干した。

 その様子を笑みを浮かべて見ていた紫釉が徐に口を開く。

 

 「由羅はなんで俺の命を狙ったの? 誰かに命じられた?」

 「……はい」

 

 由羅は床に視線を落としながら小さく頷いた。

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