第32話

 ベッドの上で、微かに変化が生じた。

 それまで眠っていた森精種の娘が、目を覚ましたのである。


「あ……お気づきになられたのですね」


 傍らで木椅子に腰かけていたリテリアが、濃いエメラルドグリーンの瞳を覗き込んだ。まだ表情ははっきりとしていないが、苦痛の色は見られない。


「あの……ここは?」

「ご安心下さい。ここはクルアドーの宿屋です」


 応じてからリテリアは、木椅子の背もたれに上体を預けた。と同時に、壁際で別の木椅子に腰かけて資料を読み漁っているソウルケイジに視線を向けた。

 ソウルケイジは全く興味を示さず、手元の資料だけに目を落としている。


「相変わらずですね……ご自分で救って差し上げたのですから、お声がけぐらいしてあげても宜しいのに」


 リテリアは苦笑を滲ませつつ、小さく肩を竦めた。

 するとその直後、森精種の娘はあっと声を上げながら、勢い良く上体を起こした。


「そうだ……ボク、確か地下魔宮で、醜豚人の群れに襲われて……」

「それなら、もう大丈夫です。あそこに居るミスター不愛想が全て斃してしまいましたから」


 そのリテリアの言葉に、森精種の娘は呆けた表情でソウルケイジとリテリアの顔を何度も見比べていた。それもそうだろう。このクルアドーを拠点とする平均的な万職の力量では、20体を超える醜豚人を同時に相手に廻すなど、まず不可能と考えて良い。

 本来なら、複数名の万職でやっと足止めが出来るかどうかというレベルである。なのに、同室の黒衣の巨漢はひとりで始末したというのだから、普通は真偽を疑うところであろう。

 この娘の様な反応は、リテリアとしても、もう慣れっこだった。だからこういう場合の捌き方も、自分でも驚く程に心得てしまっている。


「それは兎も角として、私の指を見て頂けますか?」


 いいながらリテリアは右手の人差し指を立てて、森精種の娘の眼前に据えた。そうして手を、彼女の前で左右に動かす。森精種の娘はリテリアの指を追って、視線を左右に振った。


「どうやら、見えている様ですね。安心しました」


 森精種の娘は、リテリアが何を目的としてこの様なことをしたのか、しばし理解出来ていない様子だったが、ややあって、声が裏返る程の勢いで叫び声をあげた。


「嘘……全然、ぼやけてなかった!」

「それは良かったです。ちゃんと効いてくれたみたいですね」


 ソウルケイジがこの娘を肩に担いで宿に引き返してきた時、彼は、娘の目が毒にやられているとだけ告げた。それはつまり、リテリアの回復術で治してやれ、ということなのだろう。

 少なくともリテリアは、その様に解釈した。

 更に全身を診てゆくと、左脚の脛に大きな刀傷が開いている。他にも全身至る所に大小様々な傷が見られた。特に打撲傷が多かった様に思えたのだが、その理由までは分からなかった。

 ともあれ、これ程の傷を黙って見過ごすことは出来ない。リテリアは森精種の娘の全身が完治するまで、徹底して治癒術を施し続けた。

 そのことに気付いたのだろう、森精種の娘はシーツを撥ね退けて、己の全身をまじまじと眺めた。

 ところがその表情は、決して明るくならない。寧ろ、申し訳無さそうな色に沈んだ。


「あの、御免なさい……ボク今、全然持ち合わせが無くて……」


 探索班の仲間でもない限り、治癒術や回復術の施しには対価が必要とされるのが王国の常識だ。森精種の娘の反応は、或る意味正常であろう。

 しかしリテリアは穏やかな笑みを湛えてかぶりを振った。


「貴女を治せといったのは、あそこの黒ずくめの御仁です。もし支払い義務があるとすれば、私にその様に命じたあの方ですよ」


 しかしリテリアは、ソウルケイジに治療代を請求するつもりは端から無い。それ以前に彼女は、ソウルケイジからこれまでに多大な恩を受けているのだから。


「あ、そういえばまだ、お名前を伺っておりませんでしたね。私はリテリア・ローデルク。カレアナ聖導会所属の聖癒士です。あちらの方は万職のソウルケイジ様」

「えぇと、ボクはミルネッティ……操設士をやってます。それから、あの……もうお分かりだと思うけど、森精種です」


 最後の声は、半ば聞き取れない程に萎んでいた。

 リテリアは俯き加減のミルネッティの手を取って、優しく微笑んだ。


「はじめまして、ミルネッティさん。これもきっと聖なるお導きによるご縁でしょう。どうぞ宜しくお願いします」


 ミルネッティは驚き、そして戸惑っている様子だった。

 それからしばらくして、その美しい瞳が涙に濡れて、全身を小刻みに震わせ始めた。

 リテリアは流石に驚いたが、ぎゅっと手を握り返してくるミルネッティの、くしゃくしゃに歪んだ泣き顔を見ていると、つい体が勝手に動いて、彼女を抱き締めてしまった。


「きっと……私などでは想像も出来ないぐらい、辛いことがあったのですね。でも、もう大丈夫です」


 その時、木製扉が開いた。

 幾分緊張した面持ちのアネッサが飛び込んできた。彼女は一瞬だけミルネッティに顔を向け、安堵の色を浮かべたものの、すぐにその表情は厳しい色へと変じた。


「調べはついたよ……あの子、ドルーガーの探索班に居たみたい」

「そうか。あの森精種は丁度上手い具合いに操設士だ。こちらに引き抜く」


 ふたりは小声で言葉を交わしていたが、リテリアは耳をそばだてていた為、その内容は八割方、理解出来た。どうやら、ソウルケイジが動くらしい。

 そうして、その翌日。

 ミルネッティがそれまで所属していた、牙鋼級万職のドルーガー率いる探索班は突如として解散し、構成していたメンバー全員がクルアドーから去っていったという。

 その理由は遂に、万職相互組合でも分からないままだった。

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