第5話
辺境の都市クルアドーに拠点を置く万職のアネッサ・ペルトンは、過去にカレアナ聖導会に所属していたことのある元聖癒士で、現在は治癒法士として活動している。
聖導会で治療術のいろはを叩き込まれ、ゆくゆくは上級聖癒士としての未来も嘱望されていたのだが、家族が借金苦に陥り、止む無く聖導会から志願除名となった。
下級や中級の聖癒士の収入は、決して高くはない。上級に到達して漸く下級貴族並みの暮らしが出来るといった具合で、下級ではせいぜい平民の新婚夫婦が子を持たずに生活出来るギリギリのラインだ。
当然ながら下級聖癒士だったアネッサの財力では、家族の借金を返済することは叶わなかった。
そこで、一発当てさえすれば実入りが良いとされる万職に、半ばイチかバチかの賭けに身を投じる思いで転職することになった。
幸い、クルアドーでは治療術に長けた万職がやや人材難気味だった為、比較的条件の良い探索班にスカウトされた。
そのお陰で一気に借金返済とまではいかなくとも、返済期限の延長が認められ、少しずつではあるが、徐々に元本も減りつつある。
今の生活を続けていけば、アネッサは家族を借金地獄から救い出すことが出来るだろう。
だが、人生そうは上手くいかなかった。
この日、アネッサは探索班の仲間と共に、クルアドー近郊の森に出没する緑小鬼(ゴブリン)の群れの討伐依頼を受け、現場へと急行していた。
当初は順調に緑小鬼共を撃破し、討伐証明である魔化石も滞り無く採取することが出来ていた。
ところが――。
「アネッサ、もう駄目だ! ジェイドは置いていこう!」
剣戦士のホレイスが悔しげな表情で叫んだ。
今、後方では赤い毛並みも禍々しい巨大な剣歯熊(サーベルファングベアー)が豪腕を振るって、仲間の万職達の攻撃を弾き返し、防御をずたずたに斬り裂きつつある。
本来ならば、街道近くの森や平原には絶対に現れない筈の怪物だ。それがどういう訳か、クルアドー近郊の森の中、緑小鬼程度が徘徊している街道付近の樹々の間に突如として姿を現したのである。
正直いって、今のアネッサ達では到底敵う相手ではなかった。
十年近い経験を積んだ歴戦の万職の戦士や魔法術士が揃って何とか撃退出来るという程の強敵だ。とてもではないが、万職になりたての初心者探索班では相手になる筈もなかった。
「アネッサ! ジェイドはもう手遅れだって!」
「そんなこと、勝手に決めつけないでよ!」
槍戦士のイオに、アネッサは涙目になりながら怒鳴り返した。
理性では、分かっている。意識不明の重体に陥っている駆け出しの魔法術士ジェイドを抱えたままでは、絶対に逃げ切ることなど出来ない。
ホレイスやイオが悔しさを押し殺して叫ぶ様に、ジェイドをこのまま置いてゆくのが最も生き残る確率が高いだろう。
しかしアネッサには、出来なかった。元聖癒士としての矜持が、それを許さなかった。
ここで自分が命を落とせば、誰が借金苦に苦しむ家族の面倒を見るのだろう。そう考えれば、ジェイドを見殺しにするという選択以外に、取れる道は無い。
それでもアネッサは、必死の形相でジェイドを背負ったまま足を動かし続けた。息が切れ、腰から下に力が入らない。いつ転倒しても、おかしくない。
足が止まった瞬間に、剣歯熊は一気に距離を詰めてくるだろう。そうなればもう一巻の終わりだ。
死の恐怖が、アネッサの心臓を鷲掴みにした。本当にここで、最期を迎えることになるのだろうか。
諦めなければ、必ず道は開ける。そう信じてここまで歩んできた人生だが、あの怪物と出会った時点で既に詰んでしまっていたのかも知れない。
そんな絶望がアネッサの脳裏に過り始めた時、不意に目の前に黒い影が現れた。
2メートル近い巨躯は、人間にしては大柄な方だろう。しかし剣歯熊の前ではただの雑魚だ。人間から見れば緑小鬼は小柄な魔種亜人だが、あの剣歯熊の巨体から見た黒衣の男は、人間と緑小鬼の関係性とそう大差は無いのではなかろうか。
「おい、あんた! 逃げろ!」
先頭を切って走るホレイスが叫んだ。
しかし黒衣の長身はその場に佇んだまま腰の辺りから棒状の物を取り出し、一方の先端を赤毛の化け物へと据えた。
黒い棒状の何かは、途中で短い分岐が伸びている。剣かナイフの柄の様なその突起部位を、男は握り締めていた。
その直後、凄まじい爆音が鳴り響いた。
雷が落ちたのか、或いは空間中で何かの炸裂型攻撃魔法が行使されたのか。
アネッサにはよく分からなかったが、黒衣の巨漢が剣歯熊に向けた黒い棒状の先端が一瞬、炎が弾けるかの如き閃光を放ったのを見たことだけは覚えている。
そして、信じられないことが起きた。
乾いた炸裂音が森の中で轟と響いた直後、それまでアネッサ達を執拗に追っていた剣歯熊の頭部が血肉を撒き散らして破裂していたのである。
頭部を失った剣歯熊は、勢い余ってそのまま地面を抉る様に倒れ込んだ。
黒衣の男は、先端から白い煙を薄く漂わせている棒状の何かを、再び腰に吊り下げた。その表情は最初から最後まで無に彩られており、感情の起伏など欠片も見られなかった。
◆ ◇ ◆
剣歯熊の脅威が去ったことで、アネッサは漸く瀕死のジェイドの治療に着手することが出来た。
「さ……さっきはありがとうな」
ホレイスがメンバーを代表して頭を下げた。黒衣の男はソウルケイジと名乗ったが、それ以上は何もいわず、そのまま踵を返そうとしていた。
「なぁ……あんたがあの怪物を殺ったアレは、ま、魔法なのか?」
イオが訊いてから、喉をごくりと鳴らした。そもそも訊いて良かったのかどうか。一部の万職は己の手の内を容易には明かさないとされている。余計なことを訊けば、その場で始末されることだって大いにあり得た。
しかし、このソウルケイジという男はそんな真似はしない様にも思えた。
「魔法ではない」
ソウルケイジは抑揚の無い声でただひと言、そう応じた。本当にその台詞ひとつで、他には何も語ろうとはしなかった。
「あ、ねぇ……もしクルアドーでまた会うことがあったら、何か御礼をさせて」
ジェイドに応急措置を終えたところで、歩き去ろうとしているソウルケイジにアネッサが慌てて呼びかけた。が、ソウルケイジは全く興味を示さず、不要だと短く応じるばかりだった。
そして後日――アネッサはソウルケイジがあの場に居た理由を知った。
ソウルケイジもまた、万職相互組合の依頼を受けて緑小鬼の討伐に当たっていたらしい。
(え……嘘でしょ? 剣歯熊を一撃で斃す程の凄腕が、緑小鬼討伐なんかやってるの……?)
受付カウンターで受付嬢アニエラからその様に説明を受けたアネッサだが、到底信じられないという思いでエントランス兼ロビー内にぐるりと視線を走らせた。
この日、ソウルケイジの姿はここには無かった。
アニエラ曰く、王都シンフェニアポリスへと向かう乗合馬車の予定を調べに行っているのだという。
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