第5話 指の痛み
公民館にウクレレの弾き方を教えてもらった次の日。
キッチンのテーブルに、クリップのついた黒い液晶画面のものが置かれていた。
「もしかしたらと思ってたんだけど、家にチューナーがあったの」
「え?」
買わなくて良かったとママが喜んでいる。
まな板の上では玉ねぎが切られていた。千穂の頭の中は疑問でいっぱいだった。
「どうして家にあるの?」
「それギターとか他の楽器も使えるものだから、パパかおじいちゃんのじゃない?」
後でパパに聞いたけれど、そうかもしれないけど。
忘れてしまったと言われた。
これでチューニングが出来るようになって良かったけれど、何か引っかかると千穂は思った。
公民館での練習は二週間に一度。
最初はママと一緒だったが、次は送り迎えだけと言う。
一人にされるとは思わなかった千穂はがっかりした。練習した部屋に怖そうな人は居なかったけど、一人でもちゃんと出来るだろうか。
練習には通いたいけれど、あの帰りがけに声をかけてきた男の子が怖い。
また居たらどうしよう。
千穂の持つ、ウクレレを見て「どうして持っている」と言っていた。
持っていたらいけないの?
やっぱり、何か不吉なウクレレなんだろうか。
謎と悩みはあるけれど、今はとにかく練習しよう。
公民館でウクレレを教えてもらった日から、千穂は同じ練習を家でも始めた。
ドレミファソラシドと、きらきら星。
音が鳴るのは楽しいが、十分と経たずに指や手首が痛くなってしまう。
今までこんな風に手や指を使ったことが無かった。
弦は固く、抑えると指の腹にそのまま直線の形が付く。その状態で弦を弾き続ける、さらに力が加わって痛んだ。
部屋で弾いていたらうるさいのではないかと心配したが、ドアと窓を閉めているとほとんど聞こえないと、パパとママは言う。
そもそも力を込めて弦を弾かなければ、大きな音は出ないことがわかった。
部屋での練習は、指の位置を覚えることを中心とした。
何度か練習するうちに、タブ譜の0が好きになった。
0は左手で弦を押さえる必要がない。
そのまま弾けばいいのだ。指が居たくない。
きらきら星はドである0から始まる。
0は簡単で、次に3とあるのは、ネックに引かれた線の2番目と3番目の間の
ウクレレの長い部分、ネックには4本の弦が張られている。その下に、
何番目の弦で、何番目の間かを、タブ譜を見ながら左指で押さえる。それから右手親指で弾く。
どの位置を抑えるのかを見るために、千穂はウクレレを傾けたり、前のめりになったり。
「見えない……」
基本姿勢は背筋を伸ばすと教わったが、背中を曲げないと指の位置が見えなくて、違うところを押さえてしまうのだ。
繰り返し練習することで「見なくても、だいたいどの位置か分かるようになるよ」と足立さんは言っていた。
最初はわからなくて当たり前と言われたが、本当に見ないで出来る日が来るだろうか。
練習を重ねる千穂の本気を見たせいかパパが「楽器屋さんでちゃんとした弦に変えてもらおう」と予約をしてくれた。
ウクレレは、あの日に渡されたままの状態だった。
それまで千穂は楽器屋さんがあることさえ知らなかった。
弦を張りなおす修理を店の奥でしてもらう間、パパと店の中を見て回った。
お店の壁には、ヴァイオリンや、ギターがずらりとかけられていた。
「パパは昔、ギターを弾こうと思ったことがあるんだ」
続かなかったけどねと言って、笑った。
「じゃあ、チューニングあの機器もパパのだったんじゃない? 本当に忘れちゃったの?」
「十年以上前のことで、処分したはずなんだよね。あれはパパのじゃないと思う」
なぜか、はっきりと否定する。
じゃあ誰の持ち物だったの?
トランペットや、ピアノと同じ鍵盤の形をしたキーボードが並んでいる。
名前の分からない首の長い楽器、金色でピカピカしたかたつむりみたいな楽器、機械の笛みたいな楽器。
「パパの持ってたギターは、どこにあるの?」
「引っ越してくるとき、人にあげちゃった」
「えー、聞きたかったのに」
楽譜のコーナーには、ウクレレの本も並んでいた。中を開いてみると、千穂には読めない。難しそうだった。
でもいつか、もっと上手になったらクリスマスか誕生日に買って貰おうと思った。
「ギターはね、弦がかたくて。指が痛くて、あんまり練習できなかったんだ。もう弾けるかわかんないよ。ウクレレはギターより、指が痛くないって聞くけど」
「ウクレレも痛いよ。手首も、肩も痛い。たくさん弾くと慣れるって言われたけど」
「指の皮膚が強くなっていくんだろうね。水泳選手は、たくさん水の中で練習するから指の間の皮膚が伸びて、鳥の水かきみたいになるんだって。楽器を弾く人も、たくさん練習すると体が楽器に合わせて変化するのかもね」
それはちょっと面白い。
運動する人は、運動に合った身体に。
音楽を引く人は楽器に合った身体に。
じゃあ、絵をかいたり、歌を歌う人も変わるのだろうか。
「千穂がウクレレ弾いてくれて良かった。和子お祖母ちゃんも喜ぶよ」
「そうかな?」
ウクレレを見てほしかったお祖母ちゃんから、昨日家に戻ってくる時期が延びると連絡があり、がっかりしていたのだ。
お祖母ちゃんのお姉さんの怪我が、あまり良くならず長引いているらしい。
電話で『ウクレレを練習している』と話すことはすぐ出来るが、どうせなら直接驚く顔が見たい。
驚かせるなら、もっと上手になってから知ってほしい。
だからまだ秘密にしようと決めていた。
「帰ってきたら、お祖母ちゃんのぼた餅が食べたいな」
「ええ……、ぼた餅」
千穂はあのご飯かおやつかわからない感じが嫌いだ。
「蒸しパンとか、マドレーヌがいい」
「そういえば、前にさ。夜のテレビでドーナッツの特集を見たあとで」
パパが笑いがこらえきれない様子で話し出す。
千穂も思い出し、つられて笑いながら続ける。
「あのとき、お祖母ちゃんがどうしても食べたくて我慢できないって。すっごい真夜中、台所で」
「ドーナッツ作り始めて、ママがかんかんに怒って」
トイレに起きて、物音に気付いた千穂は、甘い匂いにつられ台所で作業するお祖母ちゃんの横に見に行ったのだ。ジュウジュウと油が熱くなる音がしていた。
次の日は学校が休みの祝日だった。
お祖母ちゃんが、突然真夜中にお菓子作りしてる。
千穂もすっかり目が覚めてしまった。
そこにママがやって来て……。
「こんな深夜に揚げ物するなんて信じられない!! って」
怒ったママが台所を出たあと、揚げたてのドーナツがテーブルに並んでいた。
その前で、反省のしょんぼりした和子お祖母ちゃん。
作っちゃったんだからと、まだ起きていたパパと千穂とお祖母ちゃんは顔を見合わせた。
三人でこっそり食べよう。
揚げたては、窓の外は真っ暗な時間なのに、美味しかった。
次の日、変な時間にドーナツを食べらせいで、千穂は朝食を食べれなかった。
それを見たママは、お祖母ちゃんにまたちょっと怒っていたけど。パパと千穂には深夜のドーナツ事件はとても面白い話として残った。
「和子お祖母ちゃん、ときどき変なことして面白いよね」
「ママと血が繋がっているのに、ママの方が真面目」
二人で笑う。
「奥村さん」
ウクレレの弦が貼り終わりましたと、呼ぶ声がした。
パパはその日、ウクレレを持ち運ぶケースと、楽器とつなげて首からかけ落ちないように演奏できるストラップも買ってくれた。
早く一曲でも、弾けるようになったらいいのだけど。
そうしたら亜理紗にもお祖母ちゃんにも、聞いてと言える。
でも今は、弦をうまくおさえられなかったり、指が動かなかったり。音楽は途切れ途切れ。
ちゃんと弾けるまでには、長く時間がかかりそうだった。
昼間に何度もウクレレの練習したためか、その夜はきらきら星の夢を見た。
真夜中の学校の屋上に千穂は立っていた。
空の色は、真っ黒と言うより、やわらかな
屋上は禁止でカギがかかっているから、行けるわけないのに。夜空は、パパの車で星を見に行った時のように、無数の光がいっぱいで輝いていた。
きれいと、見上げた先で、星がピカピカと
「あ、流れ星」
あまりにたくさんで、あっちもこっちも見ていると首が居たくなるほどだった。
夢の中で誰かが、きらきら星のハミングをしていた。
誰の声だろう。
その声は小さいけれど楽しげで、千穂は励まされたたように明るい気持ちで目が覚めた。
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