七色 正仁

「マンションのそばで女の人が死んでいる」

 七階建て。一人暮らし専用のマンションの住民からの通報。

 遺体の身元はすぐに判明した。

 マンションの三階、三〇二号室のドアは開け放たれており、そこから七階まで駆け上がったのが一目でわかる血の足跡。屋上に続く階段を封鎖している扉を開こうとドアノブを握った痕跡。それを諦めて、廊下の端まで走り抜けて何の躊躇いもなく飛び降りた、廊下を強く蹴った跡。

 三〇二号室についてありとあらゆる基本的なことを調べ終えれば、その部屋の住民は『神谷かみや 真子まこ』という二十六歳の女性で、部屋から採取された指紋やら髪の毛やらは、遺体が彼女であると明確に示した。現場にいた誰もが予想していた通りのもの。

 電車で二時間くらいかかる距離にある実家に連絡すれば、両親はすぐに飛んできた。


 遺体の身元確認を終えた後。

 安っぽくて足の短い長椅子に腰を下ろして「あの子が、自殺する、なんて」と母親が涙声を震わせた。

「本当に自殺何ですか……あの子はこんなことをする親不孝な子じゃない……」

 それに呼応し、父親は目の前に立つ警察官――七色なないろ 正仁まさひとに問いかけた。

 あー、あの子は自殺すると思ってましたよと言う親は早々いないだろう。警察官となり、このような気まずい状況に立ち会うのは初めてではない。基本的には無難な対応を進めるが、七色にはどうしても引っかかっていることがあり、それについては二人に聞かなければならないと思っていた。

「この度はご愁傷様です」

 適当な慰めの言葉は時に相手の神経を逆撫でしてしまう。それで余計に泣きだされたり、お前に何がわかるんだと暴れられたりした経験から、七色はそれだけ言った。

「申し訳ないのですが、一つ確認させていただきたいことがありまして」

 そう切り出すと、母親が顔を上げて七色を睨みつける。まるで娘の仇でも見るような顔だ。正しくは空気を読め馬鹿野郎と言いたいのだろうが、そんなことをしていては仕事にならない。七色は母親の圧を無視して、言葉を続けた。

「娘さんのご遺体を確認された際、ショックを受けられていたことや動揺されていたことはわかったのですが。お二人とも、ご遺体は娘さんで間違いないかと確認した時に顔を見合わせましたよね?」

 七色の聞きたいこと。それはつい三十分ほど前に遡る。

 愛娘の遺体と対面した両親は、ショックと動揺でただでさえ白かった顔がより蒼白になった。七色にとってはテンプレートのような光景だ。だから、七色もテンプレートに倣い問いかけた。

「神谷真子さんで間違いございませんか」

 疑問形ではなかった。とっくに遺体が神谷真子であるということはわかっているのだ。

 この場合、どちらかが頷いたり、どちらも頷いたり、何も言わなくともその場で泣き崩れたりすることでそれを認める形になったりするパターンがある。が、二人は違った。顔を見合わせ、しばらくの間の後にこくりと頷いて見せたのだ。

 その『間』が引っかかった。まるで互いに「この死体は自分達の娘だよね? 確かだよね?」と確認をしているように思えたからだ。現実を受け止められない両親ではなく、言葉そのままの意味として、死体が娘であるということを確かめ合っているような不自然さ。

「私も家内も、驚いたんです。娘が随分と……変わっていたものですから」

 七色の問いかけに、父親があっさりと答えた。

「変わっていた?」

 父親はええ、と短く返事をして鼻をすすり、ポケットからかなり旧式のスマートフォンを取り出した。おぼつかない手つきで操作し、ようやっと七色に見せてきた画面には一枚の写真が表示されている。画質は良くないが、十分に顔の判別はできる写真だ。

 正月に撮影したものなのだろう。テーブルにおせち料理や雑煮が並べられている。被写体は一人の女性で、餅を食べている所を撮影されているのに気づき、口元を覆い隠して笑っていた。黒髪を低い位置で雑にまとめ、化粧っけがない。服装は学生時代に使っていたジャージだろうか。ややふっくらとした純朴な女性。

「娘です」

 なぜこの写真を、と七色が問いかけるより先に、父親が言った。思わず口から「は?」と抜けた声が漏れ出してしまい、失礼と詫びる七色。しかし、両親は共に不快感を示さなかった。二人は無言で、その反応が当然だと納得しているように見える。

 七色は納得した。彼女は確かに、随分と変わっていた。

 遺体で発見された神谷真子のロングヘアはミルクティーブラウンで、手入れを入念にしているのか艶のある美しい髪だ。体型は良く言えばモデル体型、悪く言えば痩せすぎ。三〇二号室にはたくさんのメイク道具、洒落た服と部屋着。アクセサリーやバッグが充実していた。食器類も家具も、クッション一つ一つにしても、明らかに写真を撮影した時の『映え』を意識して選んだとしか思えないものばかり。イマドキというか、インフルエンサーやら韓国のアイドルやらに憧れている女性、というのが七色の見解だった。

 しかし、写真を見せた後に父親が語った神谷真子はこうだ。

 昔から心配になるほど内向的な性格で、友人はいなかったこと。中学時代にいじめを受けて不登校になったため、高校進学、大学進学の時には「いかにこれまでの自分を知る人がいないか」を基準にしていたこと。都会で働き、暮らすのもやっとだというのに「今までいっぱい心配かけさせてきたから親孝行させて」と毎月決まった金額を父親の口座に振り込んでいたこと。

「仕送りが止まったのは三ヶ月ほど前のことでした。もともとこちらからお願いしているものではないですし、何より趣味や友達付き合いや、そうでなくても貯金に回しているとか。そんな風に思って、特に気にしていなかったのです。こちらからどうしたのか連絡したら、催促をしているように思われるかと」

 父親は今更ながらそれを後悔しているのか、画面に映し出された写真に目を落としていた。

「絶対に!! 悪い男に捕まったのよ!! ドメスティックバイオレンスとか、ホストとか、結婚詐欺とか!!」

 母親が急に大声を上げる。通りかかる他の警察官達が視線を向けつつも、面倒ごとに巻き込まれたくないと早足で去って行くのが横目にでもわかった。七色は「自分でもそうする」と思いながらまあまあと、母親を落ち着かせようと試みるが彼女は止まらない。

「きっと騙されて、生活も派手になって、騙されたことに気付いてショックを受けて……!! こんなの自殺じゃなくて殺人よぉ!!」

 母親の妄想と暴走は止まらない。

 確かに、娘の変貌ぶりを見ればその線を疑う気持ちは理解できた。

 しかし、彼女の部屋からは彼女以外が生活していたり、立ち入っていたりした痕跡は一切見つかっていない。

 肉体的なDVであれば体に傷は残るだろうが、死体に残っていた傷は落下時についたものと、死ぬ直前に部屋で暴れた際についた傷だけ。精神的なDVの場合であっても、一緒に暮らさない、部屋に立ち入らないということはほぼありえないように思えた。

 ホストに騙されたという線も薄かった。彼女の部屋の様子から、自己投資中心の生活なのは明白だ。普通の会社員である彼女がホストを楽しむ余裕はないだろう。借金をしていた、夜の仕事をしていたという話が上がってくれば別かもしれないが。

 結婚詐欺師の線も、彼女の部屋に他者の痕跡が残っていないためかなり薄い。外でばかり会っていたとしたら話は変わってくるが、そうなると結婚うんぬんまで話を進めるのは相当難しいはずだ。

 娘を殺した男を見つけて逮捕しろと喚く母親を宥める父親。七色も「もちろん今は事件の可能性も含めて捜査していますので」と父親に加勢した。


 七色は父親から正月に撮影した写真を送ってもらい、捜査本部に提出した。

 その日の会議で、神谷真子の『変貌』は大体四ヶ月前に発生していたことがわかった。

 彼女の勤め先に聞き込みに言った警察官が、社員達が口を揃えて「仕事はできる子だったが暗い印象で人付き合いの悪い印象だった。しかし、年度初めあたり突然明るくなって、どんどん痩せて綺麗になった」と語ったという報告が上げられたのだ。

 一部の男性社員は神谷真子にアタックしていたそうだが全員「今は恋愛のことは考えてなくて」とやんわり断わられたらしい。それが彼女の本音であったなら母親が妄想した男性絡みのトラブルの線は限りなくゼロになる。

 その他、SNSで知り合ったらしい美容仲間達も神谷真子が自殺したことが信じられないと語り、彼女のパーソナルトレーナーの女性も同じような反応だったそうだ。とにかく、対人関係でのトラブルは今のところ一切見られなかった。

 金銭面に関しては、借金はなく、クレジットカードのリボ払いや分割払いも利用していないことが判明。思い悩む要素など一つもない。夜の店で働いたり夜の街を遊び歩いていたりという話も出てこない。

 神谷真子の遺体や部屋を調べた結果については、自殺する直前、彼女はなぜか家の中の鏡という鏡を叩き割り、殴りつけ、それらの破片のせいで手足が傷だらけになっていたこと。姿が映るものに対して恐怖していたのか、ミニキッチンのシンクにすら包丁で無数の傷が残されている異様な状況だったことが語られた。

 隣人は何かが割れる音は聞いたが、特に気にしていなかったらしい。少なくとも助けを呼ぶような声や悲鳴は聞こえなかったそうだ。

 神谷真子は鏡の破片が食い込んだ手足のまま部屋を飛び出し、マンションの階段を駆け上がった。屋上に続く階段を締め切る扉のノブを回したものの開かず、そのまま最上階の廊下を駆け抜けて、飛び降りた。

 廊下の塀は神谷真子の身長から考えると彼女の胸くらいまでの高さはある。それを飛び越えるためにわざわざ助走をつけて強く地面蹴った痕跡から、それだけ何の躊躇いもない自殺であることはわかりきっていた。

 万が一、いつの間にか部屋に潜んでいた、ないしは押し入ってきた不審者に襲われたなら叫び声を上げながら下の階へ、マンションの外へ逃げるのが自然だ。

 つまり、神谷真子は一人で暴れた後、確実に死ぬために最上階まで駆け上がったということになる。

 彼女の変貌や自殺の動機について謎は残るものの、何をどう調べても『自殺』以外に繋がりそうな糸は見えてこない。事件性なしと判断が下るのも時間の問題だった。


「なあ、佐藤」

「おん?」

 昼飯時。適当な定食屋に入り、七色は焼き鯖定食、相方の佐藤はからあげ定食を頼んだ。七色は出されたお冷を一口喉に流し込む。

「女ってのは四ヶ月程度で見た目だけじゃなく中身まで変わるもんなんか?」

「あ、出た、関西弁」

「うっさ……うるさい」

「神谷真子のことか。まー確かに、めちゃくちゃ変わってるけど。きっかけがあればそうなるんじゃね? ほら、憧れのアイドルができたとかさ」

「そんなもんか」

「俺らもガキの時は仮面ライダーになりたかっただろ?」

「ガキの時の俺らと大人の女を一緒に考えるものじゃない」

「まあ、俺は今でも仮面ライダーになりたいけどね」

 佐藤は笑いながらお冷を飲み干し、テーブルに置かれたピッチャーを手に取った。その時、ガラガラと定食屋の扉が音を立てる。そちらを見て「ちょうど大人の女が来たぞ」と佐藤が呟いた。

 店の入口を見てみれば、そこには鑑識官の水無月が立っていた。彼女は二人の姿を見るや否や近づいてきて、しれっと同じテーブルに着く。

「ゲーミング刑事に苗字優勝刑事じゃん。昼飯? 私も昼飯~」

 セルフカットだというショートの髪に、切れ長の目。華奢な体つき。黙っていればかなりミステリアスでクールな雰囲気を纏っている水無月だったが、口を開けば風船のように軽い言葉がぽんぽんと出てくる。

 水無月は現場で出会う人々に直感でおかしなあだ名をつける癖があり、七色は「ゲーミング刑事」で、佐藤は「苗字優勝刑事」と呼ばれている。彼女いわく、知り合いで苗字優勝刑事というあだ名の警察官は五人以上いるらしい。

「だめだ。この人は参考にならない」

 七色の中では彼女は個性的過ぎて一般的な感性からは外れている。それに神谷真子より年齢は十以上も上だ。しかし、水無月は「なになに~。参考にしてよ、ほらほら」と二人に交互に目配せしながら口角を上げている。

「水無月さんなら神谷真子の突然の変身っぷりの気持ちとかわかるかなーって」

 参考にならないという七色の言葉を無視して、佐藤は水無月に問いかけた。すると水無月は「あーそれね」と何度か頷いて見せた。神谷真子の部屋を鑑識した人間なりに、何か思う所があるのかと七色が目線を向けると、水無月は「わっかんない」と期待外れの言葉を発した後「かつ丼大盛り!」と大きな声で注文をした。

 それ見たことか、と今度は佐藤に視線を送れば彼も「ですよねー」と苦笑いを浮かべている。

「ああ、でもねえ」

 水無月は注文を終えた後だというのにメニュー表を見ながら言葉を続けた。

「あの子はあの子なりに変わりたかったんだと思う。部屋に日記帳があってさ。大体毎日、普通のことしか書いてなかったけど。その中には確かにちらほら、私も誰々さんみたいに綺麗になりたいな~とか、漠然としたことは書いてたよ」

 そんなこと書いていたかと七色と佐藤は首を傾げる。そうしていると二人の注文していた定食がおまちどおさまとテーブルに並べられた。水無月は美味そうと一言漏らしてから、話を戻す。

「日記自体に自殺の動機とか事件に発展しそうなこととか書いてなかったから。誰も注目しなかったんだよ。私だって、今その話が出たから思い出したくらい」

 それくらいありふれた内容だったよと、水無月は落ち着きなく厨房の方を見ている。カツ丼を待ち侘びているのだろう。

 ありふれた内容。ありふれた願望。

 しかし実現には相当の努力が必要な願望。神谷真子はそれをたった四ヶ月で実現した。きっと血の滲むような努力が必要だったに違いない。無理なダイエットをして、決して良いとは言えない給料の中から美容費を捻出し、他者との関わりを積極的に行い、SNSで自分をさらけだす。

 両親から聞いた彼女の人物像を考えればかなりの行動力と勇気が必要な行動だ。それをして、なりたい自分を手に入れたはずなのに。なぜ死んだ?

 神谷真子の自殺は、警察組織の中でありふれた自殺という形で幕を引こうとしている。

 七色の目の前では鯖が香ばしさを放ち、食欲を刺激しようと必死だ。しかし、朝食すらとっていない彼のそれは、神谷真子の変貌と自殺により忘れ去られてしまい、焼かれた鯖はどんどん香ばしさを放つことをやめていく。水無月のカツ丼がやってきてようやく、七色はやや冷めた味噌汁から手を付け始めた。


 その日の夜。

 七色は神谷真子の家にやってきていた。まだ、部屋の前には新人の警察官が一人配置されている。

「七色巡査部長、お疲れ様です」

 礼儀正しく挨拶する若い警察官は、少し首を傾げながら「どうしてここに?」と言いたげな顔をしている。事件性は限りなく低いどころか皆無。ありふれた自殺が発生しただけのマンションにやってきて、自殺者の家を見に来る奴などいない。七色は「ちょっと、中見たくなって」とだけ言って三〇二号室に入った。

 ここに来るのは二回目だ。靴にカバーをつけて部屋に踏み込んだ瞬間、大量の鏡の欠片で覆われた廊下がメリメリメリと音を立てる。神谷真子はこの上に裸足で立っていたのだと思うと、それだけでぞっとした。

 電気をつける。神谷真子に対する情報を持った上で見ても、やはり印象は変わらない。暴れた痕跡はあるが、部屋に置かれたものからは最初に感じ取った女性像しか思い浮かばない。

 ふと、おそらくパソコンデスクに目がいく。神谷真子所有のノートパソコンは鑑識が回収しているので、そのデスクの上に主役はいない。その代わり数冊の本が置かれていた。数冊の自己啓発本、ビジネス本。その中の一冊のタイトルが目に入った。

『書けば変われる! なりたい自分になるための書く習慣!』

 手袋を付けてそれに手を伸ばす。指先が背表紙に触れた時、七色の背筋に悪寒が走った。自分しかいないはずのこの部屋に、明確に、何者かの気配を感じる。部屋の前に立っていた警察官が入って来たなら、玄関側から物音がするはずだ。

 ゆっくりと本から指先を遠ざけ、視線だけを動かして気配を探る。絶対に何かがいる。徹底的に調べられた部屋のどこかに何らかの方法で変質者が隠れていたとすれば、神谷真子の死に事件性がある可能性も出てくる。

 しかし、変質者が隠れているという可能性はあっさりと否定された。七色が視線を窓にやった時。思わず体のバランスを崩し、腰を抜かしてローテーブルの上に尻を強く打ちつける。洒落ていて脆弱なそれの脚がバキリと音を立てて折れ、そのままずるりと七色の尻はふわふわの白いカーペットの上に滑り落ちた。

 当然痛みはあった。しかしそんなものどうでもよかった。

 ベランダに続く大きな窓。夜の闇の中に、反射した部屋の中と床に座り込んだ自分が反射している。その窓に、女がべったりと張り付いていたのだ。黒い髪。ややふっくらとした輪郭と体型。素朴な顔。そんな女が。

「神谷……真子……?」

 彼女の父親が見せてきた写真。あれに映っていた神谷真子だ。七色は確信した。

 しかし、彼女は死んでいる。ここにいるはずがない。いくら別人レベルの変貌を遂げていたとはいえ、DNAが 『この死体は神谷真子である』と証明している。

 どうして窓に、と思ったが七色はあることに気付いた。仮に、もし仮に、以前の神谷真子に似た誰かが外から張り付いているとしたら。もっと姿がはっきりと見えるはずだ。でも今、目の前にいる女はガラスに反射する七色と同じように見えている。夜の闇に映し出された自分の姿と部屋の中と同じ、彩度の低い女の姿。

 ――中にいる。

 七色がそう直感した瞬間、部屋の扉が開かれてがさがさばりばりと忙しない音が向かってくることに気付いた。

「大丈夫ですか!?」

 部屋の前で待機していた警察官が、七色の尻もちの音を聞いて入ってきたようだ。それでも七色は女の姿から目を離せずにいたが、肩をゆすられた瞬間、まばたき一回の後にその姿は消えていた。

「どうされたんですか? 体調が悪いとか? ああ、テーブルが……」

 その言葉は七色の耳を通り抜けていく。消えてしまった女――以前の神谷真子が映っていた場所に手形がついていた。よたよたと立ち上がり、それに近づく。その手形の端の方をそっと指先でなぞると、そこが擦り取られた。

 やはり彼女は今、部屋の中にいた。

 自分は一体何を見たのか。幻覚か。そんなものを見る可能性があるほどの寝不足や疲労はない。では幽霊か? 馬鹿な。ありえない。

 気を紛らわそうと部屋を見渡す。急にこの空間が異様なもののように思えた。神谷真子という女の住処として、明らかな違和感を覚える。言葉では説明できない。ただの直感。本当に感覚的な話だ。

「あれ、こんなのありましたっけ」

 七色がカーテンを閉めて振り返ると、警察官がA4サイズの紙を拾い上げていた。

「なんでしょうか、これ。鑑識が見落としていたんですか、ね……?」

 そんなことはありえないだろう、と言いたげな口ぶりだ。

 七色は警察官が拾い上げた紙を見る。コピー用紙一枚。ほとんど余白なく敷き詰められた文字。七色もこれを拾った警察官も、特に何も言わず内容を確認し始めた。


『私は神谷真子。会社員。好きなことは自分磨き。綺麗になるための時間が好き。美容院にはきっちり通って、綺麗に髪を染めて手入れをしてもらう。週に三回はパーソナルトレーナーについてもらってボディメイク。小食だからなるべくバランスよく栄養を摂取できるように食生活にも気をつけている。SNSで自分の生活を発信して、同じ「綺麗になりたい」という人たちと情報交換や交流を欠かさない。仕事も完璧。毎日手帳を見返してしっかりタスク管理。一日の内にやるべきことは業務時間内に終わらせて、残業はしない。家に帰ったら――』


 A4サイズの紙一枚に、同じことが繰り返し書かれている。しかし、半分を過ぎたあたりから『異変』が起こっていた。

 筆圧がやや弱いのか、時折ボールペンのインクが掠れている。丸い字体が良い意味で女性らしさを感じさせる愛らしい文字。それが途中から、ちょうど良い筆圧でインクが掠れている箇所はなく、文字から丸みが消えて品を感じさせる美しい文字になっている。同じ内容のものを、途中から別人が書き始めた。そう考えておかしくないほどの変化だった。

 A4の紙を埋め尽くすまで、同じ内容が書かれたそれ。

「裏面は」

 七色の言葉にはいと返事をして紙を裏返した警察官が硬直する。それは七色も同じだった。裏面には赤いボールペンが使われていた。丸みのある愛らしい字と、品のある美しい字が混在する。

『わたしじゃない』『私は神谷真子』『わたしじゃない』『会社員』『わたしじゃないこんなの』『好きなことは』『わたしが神谷真子』『自分磨き』『だれなの』『綺麗になるための時間が』『あなたはだれなの』『私が神谷真子』『ちがうちがうちがう』『私が神谷真子』

 一見、二人の人物が筆談を交わしているように思えるそれ。しかし、言葉と言葉の間にわずかにインクの繋がりや見えることから、これらは一人の人物が続けざまに書いているのだというのは一目瞭然だった。

「なんですかこれ……」

「それは、俺が聞きたいわ」

 呆然とする警察官に、七色はそう返すことしかできなかった。


 新たに部屋から出てきた紙から『神谷真子は解離性人格障害を患っていた。四ヶ月前から別人格が日常生活の大半を占拠してしまったことで、本来の人格に多大な混乱とストレスを与えた結果、自殺に至った』と結論付けられた。

 捜査本部は解散。七色と佐藤はすぐに別の事件へと駆り出されることになる。今回は殺人事件らしい。

 あの日、神谷真子の部屋で窓にべったりと張り付く彼女の姿を見て以来、七色は彼女の表情が頭から離れなかった。あの姿に納得しているのか、満足しているのか、笑っていたから。

 自ら命を絶つという行為は決して肯定されるべきことではない。彼女がやるべきことは死ぬことではなく、まず病院に行くことだった。しかし、別の人格によって日常のほとんどが浸食された状態だというのであれば無理な話だったのかもしれないが。

「まーた神谷真子のこと考えてるのかよ。お前、あの紙持って帰ってきた時から変だぞ」

 運転席の佐藤が、渋滞にはまったことの苛立ちを滲ませながら七色に言った。

 七色は三〇二号室で見た神谷真子について、相方の佐藤を含めて誰にも打ち明けていない。頭がいかれたと思われて、現場から追いやられるのは目に見えている。それだけは避けたかった。

「変わった話やったんやからしゃーないやろ」

「変わった話といえば確かにそうだけど。だってさ、解離性人格障害っていわゆる多重人格ってやつだろ。今回の場合は二重人格だったわけだけど」

 前の車が少し進むと、佐藤も少しだけ車を前進させる。また車の流れが止まり、佐藤はブレーキを踏みこんで七色の方を見た。

「よく聞くのってそれぞれの人格にそれぞれの意志があって、名前があったりするみたいな」

「ああ、確かに。聞いたことあるな」

「なのにさ、あの綺麗な字を書く方の人格は自分こそが神谷真子だって言い張ってた。筆跡的には丸字の方が今までの神谷真子だったのに。不思議だよな」

 車の流れがややスムーズになる。佐藤はおっと声を上げてご機嫌でアクセルを踏んだ。

「あの赤文字のやりとりじゃ、あとから出てきた人格こそが神谷真子だって言い張って、成り代わろうとしてたとしか思えないもんな」

 そういうパターンもあるのか、と言いつつ佐藤は現場に車を進める。

 視界の端で流れていく歩道に、ミルクティーブラウンのロングヘアの女が歩いているのが見えた。七色は思わずそれを目で追う。後ろ姿もしっかりと確認できなかったが、あのような背格好の女性は大勢いる。しかし、それが神谷真子と重なって見えて。

 七色は「現場に着いたら起こしてくれ」と言ってそのまま目を閉じた。

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