成りたい自分

平城 司

神谷 真子

 高さにして四階分の、そこそこの角度のある階段を駆け上がった。これがいわゆる階段ダッシュというものなのだろうか。

 たどり着いたのは七階。このマンションの最上階の廊下。目的地はここじゃない。もう少し高い所へ。でも、屋上へ続く階段の扉は固く閉ざされていた。何度も何度もノブを回して、押したり引いたりしても開かない。

 ノブを回す度に手のひらが痛いんだ。鏡の破片が食い込んで血塗れで、ノブを回せているのかもわからないけど、多分回せている。開かない。

 一気に駆け上がってきたせいで、とにかく肺やお腹が痛い。血塗れの手と足の裏も痛い。痛いところだらけだ。そう、痛い。

 この痛みは確かに『わたし』が感じているもの。本当だったら今すぐにでも何とかしたいほどのそれが、今は『わたし』が『わたし』であることを証明してくれているようだった。自傷癖のある人の気持ちはまったく理解できなかったけど、つまりはこういうことなのかもしれない。自分という存在が曖昧で、それが恐ろしくて、何かしらの強い感覚を得ることによって確認できる。でもこの痛みが治まれば『わたし』はまた『わたし』でなくなってしまうかもしれない。

 理想の自分、なりたい自分になれたはずだった。今までの華のない人生とおさらばできたはずだった。なのに、それは『わたしのもの』ではなかった。高望みなんてしなければ良かった。

 考えれば考えるほど痛みが引いてくる気がして。だめだ、だめだ、自分ではなくなる。

 だめだ、このままだと、また『アイツ』がくる。

 廊下を走る。一番端まで走る。

『わたし』が『わたし』でいることのできる間に。

『わたし』のまま、終わるんだ。『わたし』じゃなくなる前に。

 このままだと私は『アイツ』になってしまう。

 胸のあたりまで高さのある落下防止の廊下の塀を飛び越えた。落下していく感覚は、浮遊感とは程遠いもので。でも怖くはなかった。安心していた。すべてを終わらせられる。

 お父さん、お母さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 視界が真っ暗になった。

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