雨の降る夜
隣乃となり
雨の降る夜、
ばあちゃんがいなくなった。
大雨の中部活から帰ってきた僕を見るなり、母さんは「おばあちゃんを見なかった?」と聞いてきた。
声は何気ないふうを装っているみたいで明るかったけど、明らかに顔が曇っていた。
なんかあったの、と言いかけて、やめた。
多分何かあったんだ。母さんの質問の内容から察するに、きっとまたいなくなったんだろう。
僕たちがばあちゃんと一緒に暮らし始めたのは大体半年前くらいからだ。
コロナがあったせいで、僕はばあちゃんには二年間会っていなかった。それが急に、一緒に暮らすことになったのだ。そのことを母さんから聞かされた時、なんでだろうと思った。ばあちゃんは一人暮らしだけど、今のところ何も問題ないように思えた。少なくとも二年前に会った時は。わざわざ一緒に暮らす必要があるのかな、と思ったけど、僕はばあちゃんが大好きだから正直嬉しかった。
でも、久しぶりに会ったばあちゃんは、僕がよく知っているばあちゃんではなくなっていた。
まず、会って一番最初に「誰」と言われた。
僕ははじめばあちゃんがふざけているんだと思って笑ったけど、近くにいた母さんが「やっぱり…」と言って俯いていたのを見て、少し心配になった。父さんが慌てて、あなたの孫ですよ、翔一です。よく知っているでしょう。とばあちゃんに言っていたけど、ばあちゃんは首を傾げるだけで何も言わなかった。
僕を見る目に少しも温かみが無くて、怖くなった。知らない人みたいだった。
どうやら、ばあちゃんは『認知症』になってしまったらしい。名前くらいは知っていたけれど、まさか僕のばあちゃんがなってしまうとは思ってもみなかった。
それから僕たちは『認知症』のばあちゃんと暮らすことになった。
ばあちゃんはよく物を無くすようになった。この前は爪切りがない爪切りがないと慌ただしく家の中を歩き回っていた。前は僕のほうがよく物を無くしていて、しょっちゅうばあちゃんに笑われていたのに。そういえば、ばあちゃんは毎回しょうがないねえ、と言って手伝ってくれていた。
あと、ばあちゃんはたまに僕や他の家族のことを忘れる。覚えている時もあればそうじゃないときもある。
僕たちのことを覚えていないときのばあちゃんは凄く怖い。鬼のような顔になって、甲高い声で「出ていって」と言ってくるのだ。
認知症になってからばあちゃんはイライラすることが多くなって、いつの間にか前の優しいばあちゃんじゃなくなっていた。
そして、ばあちゃんはよく迷子になった。
歩き慣れた道でもわからなくなることがあるらしい。スーパーに行ってくるわね、と言って、いつもだったら三十分くらいで帰ってくるはずが二時間後に帰ってきたことがある。
わからなくなるんだよねぇ、とばあちゃんは笑っていたけど、僕たちは心配で笑えなかった。
ばあちゃんはよく迷子になったけど、まだ明るい時間だったし、割とすぐに帰ってくることが多かったからまだ良かった。それに最近は、ちょっとずつではあるけどそういうことが少なくなってきていた。だから皆安心していたのだ。
だけど。
ばあちゃんが久しぶりに迷子になってしまった。
外は大雨で、暗い。こんな時に、ばあちゃんはどこへ行ってしまったんだろう。
事故とかにあっていたら、と思うとぞっとした。
昔、認知症の人が行方不明になって、それから見つからない、とか、死んでしまった、というニュースを見たことがある。それを思い出して怖くなった。ばあちゃんがそうなってしまうんじゃないか。
母さんが外に出て探してくる、というので僕も一緒に行くことにした。
とりあえず近くのスーパーやコンビニに寄ったけれど、ばあちゃんの姿はなかった。
雨が降っているからか余計身体が冷えて、そのせいで不安な気持ちが大きくなってしまう。
どうか、無事でありますように。
三十分間くらいは探した。けれど見つからなくて、僕たちはどんどん不安になった。
ばあちゃんが行きそうなところ…。
思いつかなかった。もしかしたらもう家にいるかもしれない、と母さんが言って、一回戻ろうと提案された。でも僕は戻りたくなかった。ばあちゃんはきっと家にいない、と思ったから。
僕だけでも探す、となんとか母さんを説得して、一人で探すことにした。
一人でも大丈夫、と思っていたけど、いざ暗くて雨が降る中でひとりぼっちで探す、となると少し心細い。
まるで僕が迷子になったみたいだ。小さい頃、ばあちゃんと行った遊園地で迷子になって、泣きながらばあちゃんを探したことを思い出した。
車が通るたび、ばあちゃんが事故にあっていないか心配になる。
一通り歩いてみたけれど、やっぱりばあちゃんは見当たらなかった。
「ばあちゃん…どこにいるんだよ」
雨の強い日だからか通行人も少なくて、僕は暗闇の中に一人取り残されたような感覚になる。
本当のことを言うと、泣きそうだった。
ばあちゃんは見つからないし、雨は強いし、外は暗いし。中学生になったとはいえやっぱり僕だってまだ子どもなのだ。
「ばあちゃん」と何度か大きな声で呼んでみたけど、雨音に掻き消されてしまって、到底ばあちゃんには届きそうになかった。
ばあちゃんは傘を持っているのだろうか。持っていなかったら、今頃濡れて身体が冷えているだろう。急がなきゃ。早くばあちゃんを見つけないと。
靴が濡れるのも構わず、走り続けた。
靴下がぐしょぐしょに濡れていて気持ち悪かったけれど、今はそんな事を言っている場合じゃない。
行ってないとこ。まだ行っていないところはどこだろう。
スーパーも行った。コンビニも。図書館も。
「あ」
そういえば、まだ公園には行っていなかった。
僕の家から歩いて十分くらいのところに、こじんまりとした公園がある。僕の近所の公園はそこしかない。
行ってみよう。こんな雨の中、ばあちゃんが屋外にいるとは考えにくいけれど、いないとも言い切れない。
僕はもうだいぶ疲れていたけれど、残りの力を振り絞って走った。
夜の公園はやっぱり暗かった。小ぶりの街路灯がぽつんと立っていて周りをぼんやり照らしているだけで、ブランコや滑り台は闇に包まれていてよく見えない。
僕はベンチに傘をさしながら座っている人の姿を見つけた。
ばあちゃんだ。
「ばあちゃん!」
僕は急いでばあちゃんに駆け寄った。
ばあちゃんは僕に気づいて、それから「しょうちゃん」と少し驚いたような声で言った。
「良かった…ばあちゃん、こんな雨の日になんでここに来てるんだよ。皆心配したんだよ」
ばあちゃんは少し俯いて、わからない、と言った。
「時々ね、自分がわからなくなるの。」
ばあちゃんの手がちょっぴり震えている。
触っても怒られないかな、と思いながら、恐る恐る僕の手を重ねた。
ばあちゃんの手は骨みたいに細くて、でもすべすべしていて、じんわりと温かい。
「帰ろう」と僕は言った。
ばあちゃんは頷いて立ち上がった。少しだけ笑っていたような気がする。
こうして並ぶと、ばあちゃんは凄く小さくなったように思えた。昔よくおんぶしてもらった背中も、信じられないほど小さく見えた。
そのことをばあちゃんに伝えると、ばあちゃんは「しょうちゃんが大きくなったんだよ」と笑いながら僕に言った。
僕はなんだか泣きそうになって、そして無性にばあちゃんと手を繋ぎたくなった。
僕がばあちゃんの手を握ると、ばあちゃんは何も言わないで握り返してくれた。僕の何倍もあったかくて柔らかい手。ばあちゃんと手を繋ぐのなんていつぶりだろう。
「大きくなったねえ」
ばあちゃんがしみじみと言った。
ばあちゃんはたまに、僕のことを忘れる。
もしかしたら今こうして手を繋いで歩いたことも明日の朝には忘れているかもしれないし、僕の名前すら覚えていないかもしれない。
でも。
代わりに僕が覚えていようと思った。
今日、ばあちゃんとこうして手を繋いだことを。
雨が冷たかったことも。ばあちゃんが見つからなくて心細くて泣きそうになったことも。ばあちゃんを見つけた時、嬉しくてたまらなかったことも。
ばあちゃんの代わりに。
雨の降る夜 隣乃となり @mizunoyurei
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