ナイフの使い方

@kyan_gorou

ナイフの使い方

 それは平凡で退屈な授業だった。

 クラスメイトたちは、真面目に授業を聞いたり、あくびを噛み殺したり、いつもと変わらない過ごし方をしていた。

 しかし、今日の俺は、黒板でも夢の世界でもない場所に思いを馳せていた。それは一種の焦り、喜び。いつまでも慣れることのない場所。

 授業終了の予鈴が鳴るとほぼ同時に、机からスマートフォンを取り出し慣れた手つきでアプリを立ち上げる。しかしそこには依然として『♡0』

の文字が表示されていた。



 俺の趣味は、自作小説をインターネットに投稿することだった。と言っても、お気に入りが3さえつけば大喜びで、階級としては下も下。

 それでも好きでいられるのは、物語が大好きで、自分の好きな物に共感してくれる人が1人でもいることが嬉しかったからだと思う。

 物語は良い。それは人の心を照らすものだから。優しく、勇気を肯定する物語は救いであり、物語とは救いであるべきなのだと、俺は信じている。

 ただ、頭ではそう思っていても心は納得してくれない。思うように作品が伸びないのは、俺に劣等感と焦り、そして孤独を抱かせた。

 別に友達がいない訳ではない。クラスには同じ文芸部のやたらと偉そうなメガネクンがいるし。彼と物語の話をするのは楽しかったが、俺らは作品の方向性が全く異なっていた。



 そんなわけで、俺の感情はぐちゃぐちゃしていて、そんな状態でしばらく放っておいたのもあり、簡単にはほどけない状態になっていた。

 俺が呻き声をあげて机に伏すと、「どうしたどうした」とスクエアメガネが机の間を縫いながら近づいてきた。

「……伸びない、小説が」

 呻きを声の形に整えながら、俺は言った。

 目の前のこいつは面倒そうに眉を顰める。

「だから、僕は何度も言ってるだろ。お前にそういうのは向いてないって。プライドがでかいのは結構だけど、そのクソみたいな承認欲求か技術をどうにかしろ」

 相変わらずの失礼さに、お返しだと俺も眉を顰めてやる。脳天に一撃お見舞いされてしまった。

「だいたい、感情が着いてきてないんだよ。お前の小説。表現が乏しいっていうか、わざと控えてる感じ。1回さ、共感できる主人公にでもして感情書き込んでみたら?」

「感情表現ねぇ……」

 複雑な感情表現を好まないのは、話のすじを分かりやすくしたいのと、単純にそこを書き込むと物語が救いに向かっていってくれなくなりそうな怯えがあったからだ。

 もうすぐ予鈴の鳴る時間になるからと、体の向きを変えて、彼は自分の席に戻って行った。

 俺は彼のアドバイスを反芻しながら、声がグラデーションのように息へと変わっていくような情けないため息をついた。



 家に帰って、夕飯を食べて、お風呂に入って、と過ごす間も、次の作品について考え続けていた。感情の動きを書きやすいとなると、やっぱり共感ができるものがいいだろう。

 例えば、スポーツに打ち込むも自分の無力を痛感して途方に暮れる中学生の物語。

 例えば、孤独を抱え誰にも愛されず生を終わることを嘆く魔女の物語。

 例えば、例えば。

 考えれば考えるほど機微な感情表現と救いの両立わからなくなり、とにかく何か書こうと、将来への強い不安を抱えた高校生の物語を書くことにした。



 完成した小説は、救いとは程遠いものだった。

 主人公の感情を掘り下げていくほど、彼の救いは簡単ではないとわかった。書き込めば書き込むほど主人公を尊重したくなり、彼の救いはこんなものではないとこだわりが強くなっていった。

 機微な感情表現とやらは、スマートフォンの液晶から溢れ出し、ただ止まってくれるよう願うしかなかった。

 結局、これを救いにすることは不可能だと諦め、ただ変わり映えのない主人公の絶望を残した小説になってしまった。

 ただ、せっかく書いたのなら誰かに見てほしかった。普段の物語の方が何倍もいいと、それだけ言ってくれれば。

 俺は素早く作品詳細を入力し、インターネットに投稿した。

 気がつけば時間はもう丑三つ時で、俺は慌てて布団に潜り込んだ。慣れ親しんだはずの俺の部屋は、ほの暗く、落ち着かなかった。

 それはただ明かりが消えているせいだと、そう言い聞かせて眠りについた。

 消し忘れたスマートフォンの画面に表示された数字が、急速に回っていくのに気が付かないまま。



 それは絶望だった。数字の大きさは俺の喜びと反比例し、カウンターが回っていくのをぼうっと見つめていた。

 ただただグロテスクで、大きな山もない陰惨な文章。そのグロテスクは俺を蝕んでいき、脳に、心に広がる。

 母親に『体調悪いから学校休む』と一言メッセージを送り、また布団に潜り込んだ。

 目が覚めたのは12時を過ぎていた頃だった。スマートフォンの液晶を見やると、友人からのメッセージが2件。

『お前の小説めっちゃ伸びてるけど、大丈夫?』

『なんか有名な人がSNSでシェアしたっぽい』

 簡素な文章だった。けれど、今は返す気にならなかった。

 俺はまたアプリを立ち上げ、恐る恐る、コメント欄を覗き込む。

 そこには、案の定作品を褒めるコメントが並んでいた。


『感情描写がすごすぎる〜……』『うわー!! 超好き!!!』『某小説家さんから来ました! めっちゃ嫌な気持ちになって最高!』『←関係ない人の名前出すなよキッズ』『良い意味でめちゃくちゃへこんでる。今日会社休みます』 …………


 どれも望んでいたものではなかった。急激に伸びたこともあり、強い口調のものも多くあった。

 そんな中で、ひとつのコメントが目に付いた。


『これの作者、前まで全然テイストが違う話書いてたんだ。絶対こっちの方が向いてるし才能あるからこのまま突っ走って欲しい』


 それは人格否定のように、心臓に重くのしかかった。圧迫された心臓は鼓動を速めていく。俺にとって物語とは優しく勇気を肯定してくれるもので、救いであるべきだった。

 そのはずだったのに。

 スマートフォンを放り出し、天井を見つめる。天井のシミはじくじくと広がって、俺を見つめ返す。なんとなく、笑顔に見えるような気がするな、なんて考えてみたりして、明るい方へと引き付けたが、その笑顔すら嘲笑に見えてきてしまって慌てて目を閉じた。

 しかし、眠れるわけでもなく、ただ無為に時間を過ごすことしか出来なかった。絶望は苛立ちへと変貌していき、乱暴に枕元のスマートフォンを掴んだ時だった。

 慣れ親しんだ着信の音。友人からだった。画面をスワイプしてありもしない受話器をとる。

「もしもし。どうせ凹んでんだろ。大丈夫?」

 それは優しさであるはずだったのに、無性に腹が立った。短く、ぶっきらぼうに言う。

「……大丈夫な、わけないだろ」

「まあ、そうだと思ってたよ。どうせまた『これは救いじゃない〜』とか言うんだろ」

「待って、俺普段そんなウザイ声じゃないだろ。」

 思わず笑い声が漏れた。だからといってこの感情が収まる訳ではなかったが、いくらか張り詰めていた気が楽になった。

「まあまあ。せっかく慰めに来てやったんだし。……読んだよ。お前の小説。凄かった」

「あっそ……」

 複雑だった。こいつがここまで俺の小説を直球に褒めるのは初めてだったから。

「お前さ、コメント全部読んだ?」

「まさか。ちょっと読んでやめた」

 そりゃそうか、と短く返される。苦痛だった。向こうにそのつもりがなくとも、あれは俺への間接的な否定で溢れた場所だったから。

「ちょっと見てみ」

 軽くそう言うと共に、スクリーンショットが送られてきた。画像を開きそこに書かれていた文章を読む。


『今まさにこの主人公みたいな感じで苦しかったけどそれでもいいんだなって思えた。ありがとう』


 それはたった1人の苦悩だった。たった1人の救いだった。それを見ても、俺はどうしたらいいかわからなくて。

「別に、登場人物が救われてなくても、読んだ人にとって救いになることもあるだろ」

 真剣で、まっすぐな声だった。俺はぼんやりとスクリーンショットを眺めることしか出来なかった。

 しばらくどちらも何も言わない状態が続き、彼は「あと、数学のワークの63ページ、宿題だから」と言って通話を切った。

 とりあえず何か食べようと、創作への迷いをぶら下げた重い足取りで、キッチンに向かっていった。



 数日後、休み時間中に俺が小説を書いていると、後ろからスクエアメガネが覗き込んできた。けれど、文章を書く手を止めずに進めていく。

「元のテイストに戻したんだ」

 彼はどこか残念そうに言った。「うん」と軽く返事をする。こいつは俺にあの内容を書いて欲しかったんだろうな、と思いつつ、返す。

「やっぱ、書きたいのはこっちだから。もちろん、あの書き方の良さをこれでも活かせるのが一番いいけど」

「ふーん。まあ、いいんじゃね?」

 繕うように、へら、とした笑顔を向けられる。それになんだか腹が立って、絶対また「凄かった」と言わせてやると、心の中でほくそ笑む。

 自分が好きな物語で他者から評価されたら、どんなに心地が良いだろうと妄想に耽りつつも、ただ指を動かした。



 その後、俺は新作の物語をインターネットに投稿した。

 それによって、いくつかの変化が起こった。

 まずは、フォロワー数が急減したことだった。前作の小説の影響で以前の何倍にも膨れ上がったそれは、風船を割ったように流れ出していった。

 悲しさや寂しさを覚えつつも、もう決めたのだから、しょうがない事だからと自分に言い聞かせた。

 更に、「前みたいな話書かないのかな」という感想や、批判が沢山ついた。大抵はコメント欄ではなく、SNSにシェアされた状態の独り言として投稿された。

 そういったものを見る度に心臓が沈んでいくようだったけれど、これもできる限り目をそらすようにした。

 でも、悪いことばかりではなくて。

 俺はばくばくする鼓動を押さえつけながら友人の席へと急いでいた。やたらと落ち着きがない俺を見て、彼はレンズ越しの目を怪訝そうに細める。

 俺は、思い切り息を吸ってから、言った。


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