03.満月の下で

「あっ!? ~~んんっ……!!」


 背中が弓なりになる。口からは甘ったるい声が出た。


 拳を一層深く咥え込む。唾液が溢れ出てきた。汚いけど、そんなこと今はどうだっていい。声を、体をおさえないと。


「んぁ! んぐっ、んゃっ! ~~っ、ぁっ!」


 控えめなリップ音がこだまする。これは妖狐の髪か? 胸や腹の辺りをくすぐってくる。


 細くてさらさら。それでいてやわらかい。筆で擽られているみたいだ。


「んんっ! んっんっ、んんぁ、ン……っ」


 ダメだ。力が抜けていく。妖力を摂られてるからか? 頭がぼーっとする。バカになる。


 ――俺が俺じゃなくなる。


「いやっ、ら……っ、や……っ」


 涙が溢れ出す。止まらない。我ながらダサすぎる。


 インナーから左手を離して涙を拭いにかかった。


 斜めになった白いインナー。その先で妖狐と目が合う。


「君……」


 妖狐の表情が沈んでいく。金色の瞳は潤んで苦し気で。銀色の大きな耳はぺちゃんこになる。


 同情してくれてるのか?


「……ふっ……」


 最悪、吸いつくされるかもって……そう思ってたのに。


 口角が上がる。気持ちがふわっと軽くなった。


「……大丈夫……だから……」


「ごめんね」


 俺は首を左右に振った。口に力が入らない。でも、これだけは伝えたい。


 確かめたいんだ。この予感は気のせいなんかじゃないって。


で……良かった」


 妖狐さんの金色の瞳が大きくなって――小さく揺れた。湖面に揺れる月みたいだ。綺麗だな。本当に。


「こちらこそ。私もで良かったよ」


 慈しむように返してくれる。


 ああ、やっぱりそうだ。


 この人は優しい。


 口にした言葉に嘘はない。この人は本心から住民達を想ってる。その身を盾にすることもいとわぬほどに。


 共感力が高過ぎるんだろう。こんなふうに必要以上に同情して……それでじっとしていられなくなって、際限なく肩入れしちゃうんじゃないか?


 掴めるようで掴めなかった妖狐さんの人柄が輪郭を帯びていく。


 まぁ、半分以上が俺の妄想。希望的観測みたいなもんだけど。


「しかし、ふふっ……は良かったな」


「名前、あるんですか?」


「当然さ。妖狐は何も私だけじゃない。他にもたくさんいるんだよ」


「何って名前――っ!」


 唇に指が触れた。白くて細いけど、ちょっと骨ばっててゴツくもある。綺麗だけどやっぱり男の人なんだな。


「後程、ちゃんと自己紹介をしよう。その時に君の名前も教えて」


「優――」


だね。後でって言っただろ?」


 悪い子。


 完全なる、完璧なる子供扱い。


 そりゃそうだよな。この人はきっと1000歳とか2000歳とかそのレベルなんだろうし。


 俺なんか幼児――を通り越して赤子みたいなもんなんだろう。


 これはこれでアリだけど、やっぱちょっと寂しいというかモヤモヤする。


「もう少しだけ。本当にごめんね」


「謝らないでください」


「えっ……?」


協力してるんで」


 妖狐さんは破顔した。無邪気だよな。作り物みたいな顔をしてるのに、浮かべる表情は凄く自然で。


 そのギャップのせいかな? ぐっとくる。惹き込まれていく。ズルいよ。ズルすぎる。


「ありがとう」


 妖狐さんは囁くように礼を言った。そうしてもう一度、俺の胸に顔を寄せていく。


「…………」


 俺はインナーから手を離した。気持ちの赴くままに腕を伸ばしてみる。


「っ!」


 妖狐さんの首に腕を回した。銀色のさらさらな髪に俺の腕が沈む。


「あっ! んっ、あァ……!」


 三角型の大きな耳がピクピクしてる。


 もしかして、妖狐さんも気持ちいいのかな? それとも……ちょっとは欲情してくれてる?


「妖狐……っ、さん……あっ! んんっ! ……~~っあぁン――」


「ありがとう。もう十分だ」


「あっ! ………あっ? ………えっ? あっ、はい………………」


 不完全燃焼。温度差がエグ過ぎる。居た堪れず咳払いをして、それとなく内腿を擦り合わせた。


「さて」


 妖狐さんは着物の袖からハンカチを取り出した。いや、あれは手ぬぐいか。ハンカチにしては縦長だ。


 柄は……猫の手形? 白い布の上に藍色の小さな手形がいくつも押されている。


 猫でも飼ってるのかな? そんで悪戯された?


 妖狐さんならへらへら笑って許しそう。こんなふうに使ってるぐらいだし。


「里に戻ったらお風呂場に案内するよ」


「あっ、ありがとうございます」


 手ぬぐいで丁寧に乳首を拭いてくれる。


 反対側、左の乳首は透明な液体で濡れていた。


 言わずもがなあれは妖狐さんの唾液だ。意識した途端、心臓が煩くなる。俺は堪らず目を閉じた。


「えっと……これはどう戻せばいいのかな?」


 いつの間にかボタンはキッチリととめられてた。第一ボタンまでしっかりと。


 ただ流石にネクタイの締め方までは分からなかったみたいだ。


「後は自分でやるんで」


「ごめんね。じゃあ、お願いするよ」


 ネクタイを受け取る。それと同時に妖狐さんが離れていった。


 体が冷たい。ヤバイ。意識を逸らさないと。


 第二ボタンまで開けつつ、上体を起こしてネクタイを結んでいく。


「器用だね」


「慣れですよ。ほぼ毎日着てたんで」


「そっか……」


 湿っぽい空気になってきた。何か別の話題を。


「素敵な着物だね」


 反射的に顔を上げた。妖狐さんが立ってる。白い満月を背にして。


 妖狐さんの長い髪が風に舞う。月明かりに照らされて銀糸のような髪が溶けていく。


 繊細で、儚くて、それでいて神々しい。


「……っ」


 重たくなった唾を飲み込んで顔を下向かせた。


 ネクタイを無駄に弄って調節をしているフリをする。


「へっ、変だって素直に言ってくれていいんですよ?」


「素敵だよ。とてもよく似合ってる」


 胸が苦しい。ある意味で詰み。もう抗えないのかもしれない。


「遅ればせながら、私の名は六花りっかだ」


「っ!」


 やっと聞けた。妖狐さんの名前。唇が波打つ。落ち着け。俺は鼻で息を吸って妖狐さんの名前を口にする。


「リカさん?」


「えっ……?」


 妖狐さんの目が点になる。直後、吹き出すようにして笑い出した。


「あっ……えっ!? すっ、すみません。何か違――」


「いいね! とても可愛らしい。親しみを感じる響きだ」


「すみません。もう一回――」


「リカでいい」


「いや、でも――」


「リカがいい。リカで頼むよ」


 リカさんは余程嬉しかったのか、鼻歌交じりに着物を整え始めた。


 割と頑固というか、強引なところもあるんだな。


「あっ……」


 ふっくらとした尻尾が左右に揺れてる。どうしよう。ちょっと可愛い……かも。


 モフりたい。無心になってひたすらに。だけど、流石に失礼過ぎるよな。これからお世話になるわけだし。


「君の名前は?」


 背中がぴんっと伸びる。ブレザーに袖を通して――思い切って立ち上がってみた。


 今俺達がいるのはビル20階相当の高さのある木の上だ。身を守ってくれる壁もなければ窓もない。


 死ぬほど怖い。けど、大丈夫だ。リカさんの方を向いていれば――きっと。


 笑う膝に力を込めて顔を上げる。


 リカさんは驚いたように目を見開いたけど、直ぐに微笑み返してくれた。弟の成長を喜ぶ目で。


仲里なかざと 優太ゆうたです」


「仲里は家名かな?」


「はい」


「じゃあ、優太で。改めてよろしくね」


「はい!」


 俺の心配は杞憂だったみたいだ。リカさんで良かった。リカさんじゃなかったらどうなっていたことか。


「……始まるんだな」


 実感したのと同時に妄想が広がり出す。心が弾んだ。自分でも笑ってしまうぐらいに。


「行こうか。優太、私の手を取って」


「はい」


 言われるままリカさんの手を取った。白くて綺麗だけど、俺よりも一回り以上大きい。思えば手だけじゃない。背だってそうだ。


 この人、2メートル近くあるんじゃないか? 身長差は少なく見積もっても20センチはありそう。


「ぐっ……」


 背中がずんと重たくなる。いやいや俺まだ17だし。まだまだ可能性はある、はずだ。……2メートル超えは難しいかもしれないけど。


「どうかした?」


「何でもないです」


「そう」


 リカさんはまた悪戯っぽく笑うと、空いている方の手を前に出した。


「開界」


 白い光に包まれていく。死んだ時と同じだ。


 すくみかけたけど、全身で感じる体温が、手に触れる感触が俺を繋ぎ止めてくれる。


 リカさんで良かった。


 改めて思うのと同時に森が消えた。


 御手洗みたらい。俺は変われるかな? 今度こそお前みたいに。



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