第2話



「ほ、本当に──」



 茜音なのか。そう尋ねようとした瞬間、抱きしめられていた。



「礼治ーーっ!!」



「うおっ」



 そのまま背中を下に、尻餅をつくように倒され、ずぶ濡れになった。だが、俺はそんなことはどうでもよかった。抱きついてきた人影を、もう一度、まじまじと見つめる。



 それでも、視界が捉えるものは、脳が認識するものは、変わらない。



「や、やっぱり茜音だよな……?」


「そうだよ!」



 茜音はパッと花が咲くように笑った。何百、何千と見てきた彼女の笑顔だ。見間違うはずがない。



 俺は途端に笑いが込み上げてきた。



「そうか……茜音、茜音なんだな!」



 今度は俺が茜音を包み込む。耳元で息を呑む音が微かに聞こえた。聞こえたのだが──



「……?」




 何故か違和感を覚えた。最愛の人を抱きしめて嬉しいはずなのに、何処かおかしい。そして、その正体はすぐに分かった。




「あか、ね……?」



 彼女を絡めていた腕を取り、一度距離を置く。茜音は悲しそうに笑っていた。



「ごめんね。私、幽霊なんだ」



 茜音は心底申し訳なさそうに言った。やはりそうか、と妙に納得する。彼女には体温がなかった。それどころか、心音さえも聞こえない。そもそも、死んだ人間が今となって目の前に現れる理由なんて、それしかないのに。



「なんで……お前が謝るんだよ?」



「だって、もしかしたらこれまでのは夢かもって、そんな希望を抱かせたら……悪いと思ったから」



「そんなの謝る必要ないだろ」



 俺はお前の死を受け入れている。なんてことは、口には出来なかった。それでも、茜音を安心させたかったから。だから、こんな言葉がでたのだろう。



「俺は、どんなお前でも受け入れるよ」



 正しいと思った。けれど、違った。そう言った瞬間、茜音は顔を歪ませ、涙を流し始めた。



「えっ……ご、ごめん。嫌だったか?」


「ううん、違うの……」



 茜音は首を横に振る。



「受け入れちゃ、ダメだよ……」


「えっ」



 俺は耳を疑った。茜音は今、なんて言った?幻聴だと思った。だが、彼女は俺の心を読んだかのように、再び同じことを口にした。



「今の私を、受け入れないで」



 涙を流しながらそう言った茜音に、俺は絶句した。



「なっ……!どうしてだ!?俺はどんな茜音も好きだ!どんな姿でも愛してるよ!」


「それがダメなのっ!」



 バッと勢いよく顔を上げた彼女の強い視線に、ぐっと言葉を飲み込む。潤んだ瞳に、何か訴えかけるような色があった。どうしてそんな目で、俺のことを見るんだ?



「なぁ、茜音、どうして………」


「礼治、自殺しに来たんだよね?」


「……っ」



 唐突に彼女の口から出た言葉に、ぐっと喉を詰まらせる。図星だった。



「私のせいだよね?」


「そんなことは──」


「私が、礼治の中に存在しているからだよね?私が死んだことを、受け入れていないからだよね?」


「……」



 否定できなかった。彼女の予想は全て当たっていたから。でも、それを受け入れて仕舞えば、まるで茜音のせいだと、そう言っているようになってしまう。



 お前のせいじゃない。そう言いたかった。でも、出来なかった。行動の理由には、必ずどこかに茜音がいる。



「ねぇ、礼治」



 呼ばれて、俯いていた顔を上げた。すると、両手で頬を優しく包み込まれた。そして、少し前に引き寄せられた。それから、キスされた。たった数秒。俺と茜音の体温が混ざり合う。



 ゆっくりと顔を遠ざける茜音は、ふぅと吐息を吐いて、それが俺の顔を撫でた。



「これは呪いだよ」



 彼女はまだ涙を流していた。



「礼治、貴方は生きていくの。私なんか忘れて、幸せな人生を送るの。そうしなければならない」


「そんな……忘れられるわけ、ないだろ。俺には茜音しかいないのに」


「それなら見つければいいじゃない」


「無理だろ、そんなの。俺には茜音しかいない」


「いる、いないの問題じゃない。探すか、探さないかなの」



 一歩、茜音は後退した。小さく水飛沫が上がり、水面が揺れる。



「大丈夫。礼治はきっと素敵な人を見つけられるよ。私なんかより、ね」


 悪戯っぽく笑う彼女は、とても儚かった。まるで、ガラス細工のように。嫌な予感が込み上げる。



「お前よりいい人なんているもんか」


「いるよ。絶対にいる。貴方に寄り添ってくれる人はきっと現れる。だって、礼治は凄く良い人だから」



 そんな理由にならないことを。俺は手を伸ばす。彼女を二度と離さないように。


 

 けれど、するりと腕をかわされた。ガタリとバランスを崩した俺は海に、今度は顔面から突っ込む。



「……っがは!」



 勢いよく顔を上げると、茜音は声を出して笑っていた。でも、その横顔はどうしても悲しそうだった。



「ほらほら、危ないよ?死んじゃダメだからね?」



「あか、ね……どう、して……?」



 どうしてそんなにも、俺と離れようとする?俺と縁を切ろうとする?



 尋ねるより先に、彼女が答えた。



「私の分まで生きてよ」


「はっ?」


「生きたくても生きることができなくなった、私の分まで人生を謳歌して。それだけで、私は十分だから。茜音なんていうしがらみに囚われないで、礼治らしく生きてよ」



 それだけが、私の願い。そう見える口の動きをした後、茜音の体がぐらりと揺れた。そのまま、後方に倒れる。



「……っ!?」



 突発的に腕を伸ばした。反射的で、しかもそこそこ腕が長い俺は、余裕で届くと思った。実際、茜音に触れるには十分な距離。そのはずだった。



 しかし、俺の手は空を掴んだ。そこに何の感触もないことに驚いたのか、勢いをつけすぎたのか、デジャブのように再び海に転ぶ。


 

 目の前には茜音の姿どころか人一人いなかった。



「そんな……っ!」



 茜音は消えた。もとより、もう2度と会うはずがなかった存在だ。目の前に居たこと自体が奇跡だったのだ。



 分かっていても、悔しみの熱が身体中を駆け巡る。涙しそうになった時、掌の中の違和感に気がついた。そっと、拳を開いてみる。



 ころんと、小さな金平糖が一つ、乗っていた。星を模した形のそれは、仄かな光の中で、茜色だと分かった。それだけだった。



 けれどそれは、これまでの出来事が幻ではなかったことを示していて、俺はぎゅっとそれを握りしめた。



 

 

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