第1話



 カーテンを開けっぱなしにした部屋の中で、俺はすることもなく、ただぼーっと天井を眺めていた。周囲に建物が多いこのアパートは、夕方になって仕舞えば、日の光は少しも入らない。本来なら鮮やかな夕景が見えるのかもしれないが、今の俺には、それは眩しすぎる。



 決して綺麗とはいえないこの部屋も、わざわざ照らされたくはないだろう。無気力な人間1人、この部屋は大きすぎる。



 昔は、茜音あかねがいた頃は違った。2人でいる部屋は少し狭く思えたし、日の光は毎日取り込んでいた。けれど、茜音自身が眩しくて、本当は太陽なんていらないほどだった。俺の人生も輝いていた。全部、茜音のおかげだった。



 かけがえのない彼女が死んで約一年。人は突然この世から消えるのだと、それを知らしめたのは茜音の死だった。



 何の前触れもなく唐突にかかってきた電話の相手は、茜音のご両親だった。受話器を取った瞬間に耳に届いたのは、お義父さんの切羽詰まった声。俺は青ざめた。鍵をかけるのも忘れて家を飛び出て、茜音の実家に行った。話の詳細を聞いて、病院で冷たくなった彼女の体に触れて、俺は膝から崩れ落ちた。



 茜音の死因は心臓発作だった。本当に、突然だったらしい。その日、彼女は実家の片付けに出向いていた。そこでいきなり意識を失い、慌てたご両親は即座に救急車を呼んだが、間に合わなかった。茜音は帰らぬ人となってしまった。




 それ以来、俺は空っぽになった。茜音という心を満たしていたものが無くなった今、生きる意味は無いに等しい。



 

 風穴が開いたような心を埋めるように、薬指の指輪をそっと撫でる。つるりとした表面のうちに、一つだけはめられた小ぶりのペリドット。茜音が選んでくれたものだった。まだ大学生の俺らは、経済的に考えて結婚は難しい。婚約すらも。だから、代わりにお互いに指輪のプレゼントをした。絶対に結婚するという誓いを立てた指輪を。



 俺の誕生石であるそれは、僅かな光でも深い緑を反射して輝いている。それを見ていると、俺はまだ茜音と繋がっていると、そう思えることができた。それで、胸を満たす空虚感を消し去ろうとしていた。



 だが、そんな日々も今日までだ。



 気がつけば日は落ち、部屋には闇がベットリと張り付いている。色々と想いに耽っていると、時間なんてあっという間に過ぎてしまう。



 鉛のように重い体を、壁に掴まりながら上げる。随分と暗くなってしまった故に、周囲のほとんどがもう見えない。だが、逆に落ち着いた。俺の人生と全く同じ方が、心が安らぐ。



 スニーカーを履いて、俺は部屋を出た。鍵は掛けない。スマホも財布も持たず、茜音からの指輪をお守りとして身につけ、外の空気に体を晒す。風は、少し涼しかった。昼間の蒸し暑さはどこかへ行ってしまい、完全に別世界と化している。



 取り敢えず階段を降りた。周りは誰もいなくて、響くのは俺の足音ただ一つ。歩道に出て、何も考えずに足を動かす。田舎だからかあまり知られていない道だからか、中を通り過ぎていく車は数台で、あとは虫の音が永遠に続いていた。



 静かな夜だった。まるで人間の中で俺だけが取り残されたみたいだった。それはそれで良いかもしれないと思い始める。だけど、もし叶うのであれば、茜音もその世界に連れて行きたい。そんな我儘が、通用するはずないけれど。




 虫の音に混じって、漣の音が鼓膜を撫でた。それは次第に大きくなり、伴って潮の匂いが鼻をくすぐる。雑木林もどきを抜けた先に、星空を真似た海が広がっていた。



 真下に続く階段を下り、砂浜を踏み込む。ザクっとめり込む靴は、まるで砂から離さないと言われたようだった。



 邪魔をするなと強く足を踏み出す。深く穴を開けながら、確実に海に近付いて行った。水の揺らめきが、岩や砂を飲み込む波が、全てが俺を惹きつける。



 ああ、と訳もなく声が漏れた。ようやく解放されるのだ。色褪せた、何の価値もない世界から。塩水が足を濡らした。夏という時期を忘れる程とても冷たかった。くるぶし、足首、膝……。俺の体は海に呑まれていく。



 溺れるというのはどんな感覚なのだろう?苦しいだろうか、穏やかだろうか、眠るようだろうか。不思議と恐怖はなかった。むしろ高揚さえあった。意の向くまま、足は歩み続ける。そう、月が昇る方へと──



「……っ!?」



 俺は足を止めた。ざぶんと小さな水柱を上げて、水面はまた凪ぐ。視界を疑った。何度も目を擦った。でも、目の前の人影は消えない。



 心臓が鷲掴みにされたような感覚だった。呼吸が苦しくて、上手く酸素を回せない。それでも俺は、甘い痺れが走る腕を、それに伸ばした。



「あか、ね……」



 人影がゆっくりと振り向く。星空の真下、海に足をつけたその人影は──いや、その人は。



礼治れいじ?」



 見慣れた仕草。見慣れた表情。見慣れた背丈。



 茜音、彼女だった。



 

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