第6話 はじめてのことばかり(2)

 「奥様」。それは一般的に、その家の主と結婚した女性のことを指す言葉だ。

 そして私は結婚をした覚えがない。それなのに目の前にやって来た私つきのメイドがはじめて口にした言葉は。


「お初にお目にかかります、奥様」


 もしかして私のことを言っている……? あれっこれランスが「俺のお嫁さん」と言いふらしたせいとかなのでは……?

 そう理解するまで少し時間がかかってしまったのは仕方のないことだと思う。


 栗色の髪に茶色の瞳という、魔力をほとんど持たない人に見られる特徴の色合い。

 どこかで彼女と似たような人に会ったことがある気がするけれど、栗色の髪の人なんて、街中にはたくさんいたのだから私の勘違いかもしれない。


「奥様? 大丈夫ですか?」


 会話がストップしてしまったのはこちらのせいなので、私から話題を切り出すことにした。


「私はレスティ。あなたのお名前は?」

「……。ペトラと申します」


 会話が終わってしまった。

 ランスが言うには彼女は私つきのメイドのはず。なんとなく、このままではいけないような気がした。


「そうね……。ペトラ、私はまだ奥様と呼ばれるような立場ではないわ」

「? 旦那様とご結婚なさったのでは?」

「ないない! ランスは私のことを『俺のお嫁さん』と呼ぶのだけれど、まだ結婚していないの」


 慌ててペトラの勘違いをそう訂正すれば、彼女は「それなら」と言わんばかりの代替案を口にした。


「まだしていないのでしたら、お嬢様とお呼びさせていただきますね」


 お嬢様。

 ……たしかに私はフランソワ邸でもよく「お嬢様」と呼ばれていた。ということは、世間一般にそういうものなのかもしれない。


「それじゃあ、今後私のことはお嬢様と呼んでちょうだい」

「かしこまりました。それでは本日のお召し物はいかがなさいましょう」


 冬の夜は早い。

 今から着替える服なんて、寝間着ぐらいのはずだ。それなら一人で着替えることもできるので、ペトラの言っていることがよくわからない。


「ありがとう。でも寝間着なら一人で着替えられるわ」

「そうですか……。もうお休みになるのであれば、お風呂に行ってみてはいかがでしょう」

「! お風呂なんて長らく入っていないわ」


 よく考えたら、お風呂なんて塔の上に閉じ込められてから、一回も入れたことはない。


 週に一度、水魔法使いが時々やって来て、溺れそうなぐらいの量の水で身体を洗ってもらえるぐらいだったような気がする。

 今思えば、あれはあわよくば私を事故に見せかけてどうこうしようとしていたのかもしれない。今となってはもう関係のないことではあるけれど。


 というわけで久しぶりに温かいお風呂に入ったその日。

 私はふかふかなベッドに入ると、あっという間に夢の世界に沈んでいってしまうのだった。




 次の日の朝。


「おはようございます。お嬢様」

「ペトラ、おはよう」

「本日のお召し物はいかがいたしましょう?」


 「いかがいたしましょう」と言われても、私はその中身を知らない。


 ペトラにそう謝れば「謝る必要はありませんよ」と部屋の奥の方にあったドアを開けてくれる。

 中にはたくさんのドレスや靴、小物からアクセサリーまで置かれていて、まるで宝石箱のようだった。


「こんなにたくさん……。選べないわ」

「でしたら、本日の気分はいかがですか?」

「そうね……一刻も早く魔法を使えるようになりたいわ!」


 笑顔で答えると、ペトラがフリーズする。

 あれ? もしかしたら魔法ってそんなに気合いを入れて頑張るものではなかったりする……?


「でしたら……こちらはいかがでしょう?」

「! とっても素敵!」




 一階の食堂につけば、先にランスとニール君が座っていた。


「おはようございます」

「そんなにかしこまらなくていいよ。レスティは俺のお嫁さんなんだから」

「いいかげんその呼び方、やめてくれます?」


 私は文句を言いながら席についたのに、ランスはほほえみを浮かべたままだ。

 料理が運ばれてくる中、それでもランスは私がこんなにも不機嫌なのに気づいていないらしい。


 こんな状況で「かしこまらなくていい」と言われたからには、徹底的にかしこまるしかないと思うのだ。


「つれないなぁ。昨日はあんなに」

「言いましたよね? 『お嫁さん』呼びはやめてって」

「そんなふうでいいんだよ」


 笑みを深めるランスに、私はついうっかりかしこまるのを忘れてしまったことに気づく。


「俺の選んだ服を着てくれたんだね」

「……ということはあの部屋の服は全部!」

「俺が君のために選んだんだ。すごく似合ってるよ」

義姉上あねうえ、とっても素敵です!」


 「すごく似合ってる」。お世辞なんていらない……と言おうとしてふと気づく。なぜこんなに私にぴったり合う服が用意されているのだろう。

 もしかして、私があの塔の上に閉じ込められていた頃から私のことを知っていたとか……?


「? どうかした?」

「魔法を身につけたらここから出てもいいのですよね?」

「うん。──けれど、そんなにかしこまられると俺、教える気なくしちゃうなぁ」


 ランスってもしかして人の気分を逆撫さかなでする言い方しかできないのだろうか。

 一瞬そんなことも思ったけれど、それ以上にそんなランスに頼らないと何もできない無力な私自身がもっと嫌だった。


 私はマナーがなっていないとわかりながらも、パンの真上からフォークを突き刺すと、そのまま口に運んで噛みちぎる。

 パンをそのまま飲み込んで気持ちを切り替えた私は、彼をまっすぐ見つめた。


「ランス、私に魔法を教えて」

「わかった。こんなにもかわいいレスティに言われたら、教えるしかないよね。食べ終わったら外に出ようか。俺がしっかり教えてあげる。君は俺のお嫁さんだからね」


 「もしかしてもてあそばれているのでは?」という可能性を理解した私は、ランスの言葉を聞かなかったことにした。


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