第4話 「石ころ」と「二重人格性」
「サナトリウムが、本当に最初からサナトリウムだったのか?」
と、夢の中で考えるようになった。
というのも、夢の中にいると、次第に、
「結核病棟のサナトリウム」
という印象が深くなってくる。
確かにその思いは強く残っているのだが。サナトリウムというところ、
「本当に最初から、結核患者だけを集めた、隔離病棟だったのだろうか?」
と考えるのだった。
ただ、その記憶が、かすみにあるわけはない。何といっても、
「結核が不治の病だった」
というのは、本当に戦後すぐくらいまでで、特効薬の効果が同等なもので、
「不治の病ではなくなった」
と言われるようになるまでに、そんなに時間が掛からなかったのだ。
ただ、それでも結核というと、
「いきなり吐血する」
ということ、そして、
「伝染病である」
ということを考えただけでも、その恐ろしさというのは、どうすることもできない恐怖に見舞われるといっても過言ではないだろう。
確か伝染病というもので、不治の病と言われるものは、もっと他にもあったことだろう。
特に、
「定期的に、パンデミックとして発生した」
というものの中には、
「コレラ」
であったり、
「ペスト」
と言われるものもあったであろう。
ただ、これらの細菌は、今ではあまり言われることはない。
というのは、どこまでが事実なのか分からないが、
「細菌兵器」
として使用されることがあったからではないだろうか?
というのは、
「鎖国をしていた、江戸時代でも、日本で流行するくらいの感染力を持ったコレラ菌というものがあった」
という恐ろしい話を聞いたことがあった、
鎖国といっても、すべての国に鎖国をしていたわけではない。
「長崎の出島というところで、オランダ相手だけの貿易をしていた」
ということなので、
「外国から、伝染病が入ってきた」
ということであれば、
「オランダから、長崎の出島経由で」
というのが当たり前であっただろう。
「人間というのは、身体の中に、免疫を作る力を持っていて、それが、抗体という形のものとなるのだが、その抗体を作るためには、身体が、感染症に慣れている必要があるのではないか?」
と考えられる。
しかし、人間というのは、鎖国によって、伝染病が流行するという土壌にないので、いったん流行ってしまうと、もう抑えが利かなくなってしまう。
といえるだろう。
つまりは、
「集団免疫」
ということになるわけで、さすがに江戸時代、蘭学が盛んだったとはいえ、そこまで詳しく分かったかどうか、疑問であった。
そもそも、世界的にも、
「どこまで分かっていたのか?」
ということになるのである。
歴史というものが、
「鎖国の良し悪し」
ということで、
「歴史が答えを出してくれるのだろうか?」
というのは、
「歴史が答えを出してくれる」
という言葉は、どこまで信憑性があるというのだろう。
これは、ちょっと考えれば、矛盾だらけであるということが分かる気がするのだが、いかがなものか?
というのは、
「答えを出す」
ということであるが、その答えは、
「どこに着地点があるのか?」
ということである。
「目の前にある問題」
というものが提起され、そこからいろいろな問題が派生することで、
「結局は、どこが落としどころとなるか?」
ということで、答えが変わってくることになるだろう。
つまり、
「答えが流動的になる」
ということで、
「結論を出さなければいけない時が決まった時点で、その時に出た結論が、答えになる」
ということになるだろう。
しかし、
「歴史が出す答え」
というのはそれでいいのだろうか?
確かに、そういう考えでなければ、決定した答えというのが、明確になることはないのではないかといえるのだろうが、
「明確になる」
ということが大切なことなのか、
「その時期やタイミングで見極める」
ということが大切なのか?
ということである。
ただ、どちらにしても、
「明確にならなければ、結論ではない」
ということで、
「時期よりも明確さ?」
あるいは、
「明確さを度返しして、優先順位がタイミングだ」
ということのどちらかになるだろう。
と考えると、結果として、どちらも、
「交わることのない平行線に思えるのだ」
もっといえば、
「定期された時期」
と、
「結論が出るべき時期」
というものが、
「限りなく、交わることのない平行線を描いているということであれば、結果、明確化は永遠にされない」
ということになるかも知れない。
そうなると、
「抱いてくれるはずの、歴史の答え」
というものの、根本的な理屈が成り立たないということになる。
それを思うと、
「世の中に、他力で求めようとする答えは、どこまで行っても交わることのない平行線でしかなく。考えるだけ無駄だ」
といえるのかも知れない。
しかし、逆に、
「答えを求めようとする泰地が、平行線を、次第に交わる方向に捻じ曲げてくれているようで、まったく見えていなかった答えというものに、着実に近づいているのかも知れない」
ということを考えると、
「出してくれる歴史の答えは、それを求めさえしなければ、自然と分かるものではないか?」
と思えるのだ。
だが、
「答えを求めるから、答えというものが存在する」
というのも事実で、
「ある意味、答えはいつでも、そこにある」
という理屈が成り立つとすれば、
「意識するかしないかで決まってくる」
ということになる。
しかし、決まっていることを、逆に意識すると、見えているものが見えないという状況に陥ってしまい、そこにある答えが、実は見えていないだけだということになってしまうのではないだろうか。
そんなことを考えていると、
「石ころというものの存在」
ということを考えてしまう。
「自分から相手のことは見えているのに、相手から自分のことが見えていない」
ということを考えたことがあるだろうか。
今であれば、(いや、当時からあったかも知れないが)
「マジックミラー」
というものがそういう存在だったのではないだろうか?
「警察の取調室」
などというのが、そのいい例で、
「取調室の中において、容疑者を刑事が取り調べている時、その事件の目撃者であったり、証人のような人がいる場合、出頭をお願いし、隣の部屋から、相手にはこっちは見えないということを言っておいて、実際に見た人と同じかどうかを証言させる」
というのがm取調室におけるマジックミラーのやり方だった。
両方の部屋に、まるで窓のように鏡を埋め込み、
「相手からはこっちが見えないが、こっちからだけ見える」
という仕掛けで、相手側には、ただの鏡にしか見えたというものである。
「そこがマジックミラーだ」
ということが、容疑者に分かっているとしても、何ら問題はない。
「相手に顔を見られるに、相手の顔を確認できる」
ということができていれば、それだけでいいということになるのだ。
目的は達成されたといってもいい。
これは、他でも利用されている。
「こちらを確認されず、自分だけが相手を確認する」
という意味で、
「鉢合わせになってはまずい」
という意味で、
「風俗の待合室」
などでも使われていたことであろう。
もっとも、今は、マジックミラーなどを使わなくとも、防犯カメラというものが、マジックミラーの役目をはたしてくれる。
そもそも、防犯カメラの普及は、爆発的になっていて、防犯カメラというものが必須ということであるなら、
「マジックミラーは必要ない」
といってもいいだろう。
ただ、この
「マジックミラー」
という発想は、
「石ころのような発想だ」
といっていいのだろうか?
たとえば、河川敷のようなところにある、河原に、たくさんの石が落ちている。
石に意識があったとして、見つかっては困るという意識を石ころが持っていた場合、そこには無数の石ころが落ちているわけで、覗き込んでいる男が、何かの理由でその中の一つを選ぶ場合。普通であれば、まったく無意識になるのは当たり前だろう。
石ころに、
「意識」
というものはないだろう?
と思えるのだが、果たして、本当にそうなのだろうか?
人間には、
「石ころには意識がない」
ということを分かっているので、石ころの一つを選ぶのに、悩んだりはしないだろう。
悩むとすれば、あくまでも、外見だけで、
「自分が必要とする、その形のものであるかどうかだけでしか、見ていない」
ということになるのだ。
しかし、石ころに、
「人間と同じような意識があって、それを、人間に悟られるということは許されない」
というのであれば、石ころの意識は、必要以上のものだといってもいいだろう。
石ころがどのようなものであるか?
ということを考える人など。いないに違いない。
ただ、人間の中には、
「石ころがうらやましい」
と思っている人もいるだろう、
「こっちが意識さえしなければ、相手が意識をするわけはない」
というもので、石ころに至っては。
「こっちが意識をしても、相手が意識をするなどということもないに違いない」
ということになるであろう。
それが、一種の、
「石ころの魔力」
というもので、
「石ころのもって生まれたものであり、一種の保護色と同じ発想でできているということではないだろうか?」
と考えられるものだ。
「保護色」
ということであれば、
「石ころには人間を天敵とする何かがあるということなのか?」
ということで、この、
「天敵」
という言葉を思った時、感じたのが、
「三すくみの関係」
というものであった。
「三すくみ」
というものは、
「個々の力の均衡が、バランスを取っている」
というわけではなく、逆に。
「3つのうちで、相手二つに対しての関係の優劣がハッキリとしていて、それが、
「動くことのできない」
という関係を作っていることで、それぞれに、
「抑止力が働いている」
ということから、結論として、
「動いた方が負けである」
ということを証明しているという関係であった。
だから、石ころとは別に、絶えず、
「自分に対して優位性を持っている相手を少なくとも意識しなければならない」
ということになる。
「果たして、この三すくみというものの中に身を置いた時、自分が三すくみの中にいて、自分に対して、絶対的優位の相手を分かって見ているのだろうか?」
ということを考えてしまうのだ。
それがどういうことなのかというと、
「気を抜いてしまうと、食べられてしまう」
ということが、本能的に分かっている。
あくまでも、
「自分が助かるにはどうすればいいか?」
ということなので、
「動かないに越したことはない」
というのが当たり前の発想であろう。
ただ、それはあくまでも、
「力関係」
ということへの意識だけで、本能というのが、すべて、
「恐怖心として考えているからではないだろうか?」
ということである。
しかし、これは、それだけのことではない。
本能ということになると、もっと深く考える必要があるだろう。
といっても、ここでの本能は、深く考えるわけではなく、自分の中にある、当たり前の本能というものを思い知らされるということになるのだろう。
某物の本能というと、まずは何といっても、
「食欲」
である。
人間であれば、その他に、
「睡眠欲」
であったり、
「性欲」
というものがある。
そのどちらも、動物にだってあるだろう。
特に、
「性欲というのは、種の保存という意味で、欲というものから切っても切り離せないものだ」
といえるのかも知れないが、
「動物は、人間のように、
「快楽を求める」
という感覚があるか?
ということである。
少なくとも、人間以外の生物に、
「罪」
という意識はないだろう。
人間の場合では、
「相手に、その気がないのに、性行為に及んだ場合は、強制的だ」
ということで、罪に問われるということになる。
それは、あくまでも、
「人間には、自由があるということで、他人がその自由を奪い、相手を傷つけるということになれば、犯罪以外の何物でもない」
といってもいいだろう。
それは、
「加害者が、自分の快楽を求めるために、相手を蹂躙し、強引にことにいたり、自分の快楽だけを満たす」
という、一種の
「不公平」
つまりは、
「不平等」
ということをいうことで、
「許されることのない大罪」
ということになるのだ。
ただ、これは、人間というものに、
「恥じらい」
という感情があり、それが貞操だということで、それを他人が土足で上がり込んで侵略するということは、倫理的におかしいということになるだろう。
ということは、
「恥じらい」
という感情がなければ、罪に問われることもない。
いや、
「男が、女を襲うというのは、この恥じらいの感情を見ることで、自分の快楽を得よう」
という、
「それぞれの温度差」
というものが、
「それぞれに、加害者と被害者を生むことになる」
といっていいだろう。
「加害者が生まれることで、当然被害者がいるのだ」
ということあるが、ここからが、それぞれの国で法律があることから、罪の重さは裁判によって決まり、確定するまで、その温度差は違ったままである。
「被害者がいるから、加害者がいる」
その逆は当然ある。
そして、
「裁判というものに、感情が入るかどうか」
というのも、大きな問題であるということだ。
子供の頃に見ていたアニメで、いろいろな未来の便利なアイテムを取り出すことのできるという設定のマンガがあった。
その中で、
「石ころ」
というものをテーマにしたものがあった。
その物語では、主人公の少年が、いつも、いじめっ子に虐められるので、虐められないようにするには、どうするか?
というものであった。
確かに、このアイテムを身に着けていると、誰にも気にされることもなく、何かをされるという意識をしなくてもいい。
しかし、そのせいで、その少年が、
「どのようなことになるか?」
ということ全体をまったく、
「アイテムを取り出した未来人は、想像ができていなかったのだ」
というのも、
「確かに、その少年は、このアイテムを使うと、いじめっ子から気にされることもなく、いじめに遭うことはなかった」
ということで、その時は、
「よかったよかった」
ということで、
「作戦は成功だ」
として、主人公も、未来のアイテムを渡した人間には、ひとまず成功だったのだ。
しかし、それは、あくまでも、
「苛めから逃れる」
ということだけのために使うべきことで、それ以外では、決して使用してはいけないものだった。
というのは、この少年は、
「ただ存在しているだけで、まわりの人を苛つかせる」
という致命的な欠点があった。
しかし、そういう欠点はあるが、だからといって、大きな災いに遭わずに、今までこれたわけで、時々、
「忘れた頃に、他力本願的に、何かいいということがある「」
という、そんな、
「いいこと」
というのも、時々起こっていた。
それを二人は失念していた。
どうしても、今の目の前の恐ろしい状況から逃れたい一心で、目の前のことしか分かっていなかったのだ。
だから、少年も、アイテムを渡した未来人も、
「これでいいんだ」
と思っていて。その通り、実際にいじめがなくなったことで、そのアイテムの効果に安心し、感謝することで、それ以外の発想をまったく考えないようになってしまった。
そのせいか、その少年が、少しではあるが、時々、ちょっとした災いに見舞われるようになったのだが、それは、いじめっ子に虐められるよりも全然大したことはないので、余計なことを考えることはなかった。
しかし、実際の災いは着実に近づいていて、それもいきなり襲ってきたのだ。
それは、その少年が、公園の近くの横断歩道で待っていた時、公園からサッカーボールが飛び出してきて、それを拾おうとしたのだが、それはただの親切からだったのだが、誰も、その少年が飛び出したことに驚いたりはしなかった。
しかも、運転手も本当に危ないと思った瞬間まで、まったく少年を意識もせず、命に危険はなかったが、それでも、よけることもできず、結局軽傷であったが、交通事故を起こしてしまった。
その時初めて、そのアイテムの、
「石ころ」
という効果の恐ろしさに、二人は気づいた。
しかも、そうなってくると、いじめっ子に虐められなくなったことで、どこか寂しさを感じている自分もいて、実際に、自分の意識がおかしくなってしまったということに、気づいていたのだ。
それが、
「石ころ効果」
というもので、自分にも、そんなところがあることに気づいた、かすみは、ゾットするものを感じた。
だが、それが、そのアニメを見てから一週間くらいだったが、実際には、そんな心配をする必要もないと感じるようになったのは、その性格が、
「自分の二重人格性の裏に潜んでいる積悪だ:
ということが分かったからだった。
「石ころと二重人格性」
というものの恐ろしさが、実は、どこか、
「交わることのない平行線を描く」
というものであり、
「そのことが、自分の中での歴史が、決して答えを出してくれない証拠だと思ったのであった」
というのは、
「このアニメのように、虐められないようにしようと、気配を消そうとすると、片一方では、まわりが自分に気づかないと、どのような事故に遭わないとも限らない」
という一種のもろ刃の剣というものを持っているということであった。
だが、それは、
「二重人格である」
ということで、マンガでは事なきを得たのだ。
それは、アニメにだけ入れることではなく。
「私にも言えることなのかも知れない」
と考えた。
ということは、自分が今生きていられるのも、自分というものは、二重人格性というのを持っていて、それが幸いしているのではないだろうか?
つまりは、
「人間というのは、普通に表に出ている性格だけでは、とても生きていけるものではない」
ということは、
「二重人格性というものが誰にもあって、裏と表が、時々入れ替わることで、その人の性格が見る人によって違っていたり、その相手にふさわしい性格が滲み出るという、一種の都合のいい性格というものを、誰もが、
「二重人格性」
ということで、醸し出されるということになるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「人間における二重人格性というのは、必要不可欠であるが、それを相手に悟らせないようにするために、石ころになるという機能が自然と人間に染みつぃている。
それを、人間の、
「外敵に対しての、自然発生的な抗体ではないか?」
と考えると、
「二重人格性」
というのも、
「石ころのような機能」
というのも、人間には備わっているというもので、それぞれ、どちらかが表に出ている時には、自分の中で抗体として持っていて、片方が、表に出ている時は片方が、抗体となっているといえるだろう。
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