第3話 ルーティン
精神疾患というものが、最近増えてきている。
それは、一緒に人間関係の悪化だけではなく、社会構造の問題が絡んできているということにも、その理由の一旦があるのではないだろうか。
特に、今の時代は、バブルがはじけてからというもの、
「人件費節減」
ということで、
「非正規雇用」
というものが増えてくることで、最初はうまくいっていたが、その途中でも、ちょこちょこっとした経済不安があるたびに、それら、非正規雇用の人材を、簡単に排除したりすることで、会社の延命を図っているということになっているのだろう。
元々、非正規雇用というものが、
「いつでも、解雇できる」
ということと、
「安い賃金で雇用できる」
ということからであったが、
「少なくとも、最低限に正社員がいないと、成り立たない」
ということもあったのだ。
それは、当然のこと、
「何といっても、責任の所在をしっかりさせておかないとうまくいかない」
ということは分かり切っていることであり、だからこそ、
「残った正社員が、大変だ」
ということになるのだ。
昔は皆正社員だったのに、正社員が極端に少なくなると、
「何人分の責任を負わなければいけないのか?」
ということで、中には、
「責任を負わされるためだけに雇われている」
ということが次第に明るみになる社員もいなくはない。
まるで、
「政治家の秘書のようではないか?」
と思う人もいるだろう。
当然、
「上司の責任を押し付けられて、自殺する人もいるだろうし、自殺しないまでも、病んでしまう人は、一定数手てくるに違いない」
ということだ。
だから、それが、
「精神疾患の人が増えてきた」
ということの現れであり、社会問題になるのも、仕方のないことであろう。
それを考えれば。
「政治家だけではなく、一般企業で、責任を押し付けられる」
ということも、今では普通にある。
ということなのだろうが、実際には、昔からあったことだろう。
昭和の頃の、ゼネコンであったり、談合などがある業界であれば、少なからずの、
「病んでしまいかねない」
と言われる問題は、あったはずだ。
社会問題になったから、
「社会派推理小説」
などというものが増えてきたのではないだろうか。
特に。公害問題であったり。土地買収に絡むものなどが、その小説の問題提起になったのだろうが、そういう意味でいけば、
「形は変わっているが、社会問題として、世の中に蔓延っているものに、変わりはないといってもいいだろう」
ということでないだろうか?
それを考えると、
「今に始まったことではないが、それでも今問題になっているのは、
「今の政府では手に負えない」
ということと、
「やはり、タイプが変わってきている」
ということが問題なのだろう。
そういうことで、ある雑誌で見たのだが、その内容は、
「どうも、突飛すぎる」
ということから、半信半疑で、その内容を見ていた。
スポーツ新聞などでは、見出しにおいて、いかにも、断定的なことを書いておきながら、その横に小さな文字で、
「か?」
と書いてあるのだ。
そう、
「某有名選手、金の力で、メジャー移籍」
と書いてあったとしよう。
しかも、その時、まだ誰もメジャーに、移籍したことがない時代だったりすれば、この見出しを見れば、たいていのスポーツファンは、買っていくだろう、しかし、見出しの下に、小さな文字で、
「か?」
と書いてあれば、
「某有名選手、金の力で、メジャー移籍か?」
ということになるわけで、新聞社からすれば、
「ウソは書いていない」
ということで、ただ、紛らわしいというだけのことだった。
しかし、今ではそれは通用しない。
何といっても、もう、そんな姑息な手段は通用しなくなったということよりも、新聞の販売形態が、まったく変わってしまったのだ。
基本、朝のスポーツ新聞を買うか買わないかの判断は、駅の売店で、最前列に筒のように積まれた新聞置き場から見える見出しを見て買うことだろう。それともう一つは、電車の中づり広告とかで見るというパターンである。
だが、今は、
「駅の売店に新聞が置かれている」
ということはない、
もっといえば、
「駅に売店というものが、ほとんど存在せず、以前は、鉄道会社が、駅の売店を経営していたが、今では、鉄道会社が撤退し、各コンビニ会社が、駅構内に、出店するというくらい」
であった。
それが、正直、以前の鉄道会社の運営していた売店とはまったく違う形のものになり、
「外観はほとんどコンビニの他の店舗と変わりないが、お弁当やパン、ドリンクなどの、駅の売店に近い形のラインナップになっているという感じで、結局は、新聞や雑誌などが、
「見出しが見えるように、置いてある」
ということはまったく感じられなくなっているのだ。
特に、乗り換えに主要駅を使っている人は、コンビニを利用することもない。そうなると、
「客は思ったよくり期待できない」
といっておいいだろう。
それを考えると、
「今のような売店では、新聞が売れるわけもない」
というわけだ。
また、電車の中吊り広告に、新聞。雑誌関係のものは今はほとんどない。
今の中吊りは、前に比べて少し減ってきている感じもあるし、あっても、ほとんどが、旅行関係の観光宣伝が、ほとんどではないだろうか?
基本的に、それらを見るという人はいない。なぜなら、立っている人も座っている人も、目線が上に行くという人はいないだろう。
なぜなら、これは20年くらい前からであろうが、基本的に見ているのは、ケイタイや、今でいうところのスマホの画面である。
つまりは、皆、
「目線は下にある」
ということである。
それを考えると、
誰も、いちいち中吊り広告など、見上げることもないということだ。昔であれば、目のやりどころに困っただろうから、中吊りを見ていたのだろうが、今は見るものがあるので、「根本的に、視線は下を向く」
ということになるのであった。
そんな朝の毎日を、過ごすかすみの毎日で、最近気になっているのが、毎日、
「何か似たような夢を見る」
ということであった。
その夢というものがどんなものなのか考えた時、最近気になる夢として、
「どこかの、湖畔」
のようなところであった。
実際に歩いていると、少し大き目な湖畔であるということが分かるのだが、その原因が、その湖畔を囲むように、大きな森が、さらにその周りを囲んでいるからであった。
その湖畔の森全体を、
「空中から見てみたい」
と思うのは無理もないことのようで、その向こうに見える大きな木を見ていると、
「以前にも、どこかで見たことがあるような気がする」
というものであった。
それを、
「デジャブ」
というものであったが、、
「今回初めて見たはずなのに、以前にもどこかで見たような気がする」
というのを、それこそ、毎日感じているのだった。
「毎日同じ夢を見ている」
という感覚があるのだから、2回目からは、
「以前に見たことがある」
というのは当たり前のことであり、それを何も、
「デジャブ」
というわけではないということが分かるというものであるが、デジャブというものがどれほどのものであるかを考えると、それよりも、
「毎日同じ夢を見ている」
という方がおかしなことなのに、どこか論点が狂っているかのように見えるから、不思議だった。
もう一つお、
「面白い」
と感じたのは。その景色を真上から見ているからである。
というのは、夢だから分からないということなのだろうが、毎日の夢の中で、たまに、真上から以外の、普通に光景を見ることができるのだが、その時は、普通に風が吹いてきて、波紋がきれいにできていることが分かるのだが、風が吹いているというのは、波紋を見るから感じるのであって、それこそ、
「逆も真なり」
ということになるということを教えられたかのように思えたのだった。
だが、この光景を、真上から見ると、完全に風がないのか、波紋を感じることができなくなる。
これは、上空から見ているということで、
「風があるわけはない」
という感覚からくるものだということを感じさせるのであった。
上空から見える湖の色は、完全な真っ青に見えるのであった。
波紋も一切なく、湖面には、グラデーションが一切なく、真っ青な原色が、いかにもきらびやかさを示しているかのようで、
「波紋を感じないのは、そのためではないか?」
ということぉ感じさせるのであった。
さらに、湖面を見ていると、
「空の青さが、ちりばめられたようで、目の前に光るその光が、毎日同じ光景に見えて仕方がない」
と思うと、
「まるで、毎日を同じように繰り返しているみたいだ」
と思い。その瞬間。
「ああ、これは夢なんだ」
と感じさせるのだ。
そう思った瞬間。目が覚めてくるということになるのだろうが、実際には、そんなことはなく、
「夢を見ているという感覚が、毎日同じ夢を繰り返しているという、タイムループというものを感じさせるのだ」
と感じるのであった。
だから、最近の夢は、やたらと、
「デジャブ」
というものを感じさせる。
「初めて見たはずなのに、以前にも見たことがあるかのように思うのは、昨日と同じ夢を見ていたからなのだろう」
と考えられる。
毎日同じ夢を繰り返しているということは、
「いつも同じ時間に眠たくなって、同じ時間に目が覚める」
ということになるのだろうか?
それまで、つまり、
「同じ夢を繰り返している」
と感じるようになるまで、そんなことを考えたことがなかった。
そのことに気づくと、今度は、
「夢を見るのが、本当の自分なのではないか?」
ということを感じた。
というのは、
「普段は起きている時の自分が、本当の自分だ」
と普通は思っているだろう。
だが、感情というものをうまく表現できるのが、起きている時で、それだけ、辻褄が合っていると思えるのも、起きている時であった。
夢を見るということは、
「現実があっての夢」
だと思っている。
しかし、本当の自分が夢だと考えると、
「夢の自分が、現実に影響を与えているのだとすると、普段の毎日も、同じことを繰り返しているのではないか?」
と思うのだ。
ただ、そんなことはない。
となると、
「夢を毎日繰り返している」
というわけではなく、
「毎日見ているわけではなく、以前に見た夢を、毎日見ているという感覚で、それこそ、残像が残っている」
という思いに繋がっているだけではないだろうか。
だから、現実では、
「なるべく、毎日を、一種の、ルーティンを繰り返すように感じよう」
としているのではないかと感じるのだ。
だから、なるべく、毎日を
「同じルーティンで始めよう」
と感じるのだ。
だが、それを感じるようになったのには、理由があった。
それが、
「物忘れをしないようにしたい」
という思いからだった。
物忘れの激しさは、小学生の頃からあった。
宿題を忘れることが増えてきたことで、その自覚がさらにひどくなったのだ。
宿題が出たことを忘れているのだ。宿題をしないことに、先生も、親も怒った。
それはそうだろう。学校の先生も、親も、
「子供の教育として責任があるから」
と思うと、今度は、
「私をそれだけでしか見ていないのかしら?」
と感じるようになると、
「宿題だけの問題なのだろうか?」
と感じるようになると、
「自分のことを大切に思ってくれているのだろうか?」
と感じる自分がいたのだ。
親にしろ、先生にしろ、
「大人になるということは、責任を持つことになる」
ということを、その時に、かすみは感じることになったのだろう。
宿題をしないというのは、
「宿題が嫌いだからなのか?」
そんなことも自分で分からない。
宿題を忘れるからといって、宿題をしたくないとか、勉強が嫌いだとか言うわけでもない。確かに、もっと前は、勉強が嫌いだった。理屈が分からなかったからだ。
最初は、
「1+1=2」
という理屈が分からないということで、まったく先に進める気がしなかった。
結局、その理屈が分かるわけではなかったが、
「理解しようと思わずに、数字の繋がりというものを、最初の公式とは別に考えてみると、結構面白いことに気が付いた」
本来の宿題などよりも、こっちの方が大いに興味を持ち、学校でも、授業を聞いているつもりではあるのだが、ダントツで、
「算数の数字の羅列による公式」
というものを考えるのが、好きになったのだ。
「数字の羅列」
というものが、いかに楽しいものなのかと考えると、
「いつの間にか、絶えず、数字の羅列を気にしている自分に気が付いた」
ということであった。
だから、宿題が出ていたことを忘れるということに対して、
「無理もないことだ」
と感じるのも、分からなくもない。
しかも、その間に、
「眠ってしまって夢を見る」
という間があるわけだ。
そうなると、
「夢を見ることで、日にちが変わって、明日がくる」
と思うようになった。
だから、残像の夢が残っているだけなのに、
「毎日同じ夢を繰り返し見ている」
と感じるようになるのだろう。
「夢というのは、潜在意識が見せるもの」
ということと、
「夢というのが、どんなに長い夢といっても、目が覚める寸前の、数秒という瞬間に見るものだ」
ということを、いつも頭にあると思っていたのだが、実際に、目が覚める時には、その発想を忘れてしまうようだった。
その時に一緒に、
「夢を見る前の現実での出来事を、いくつか忘れてしまっているのだ」
と思うようになると、
「夢を見るというのが、今度は怖くなってくる」
ということであった。
「夢は、確かに現実と正反対のもの」
ということで、それがまるで、
「長所と短所」
あるいは、
「昼と夜」
という正反対のものだと思うのだが、
「長所と短所」
のように、それぞれを考えれば反対が見えてこないということのないものとは、少し違っているように思えた。
「長所と短所」
は、正反対に見えるが、
「昼と夜」
というように、どちらかが表に出ている時、
「もう一方は、意識することができないということなのか?」
というように考えてしまう自分がいた。
「その二つの間に、夢というものがあり、人間には、必ず、相対するものがある」
という理屈の中に成り立っているものだということになるのではないだろうか?
それが、
「夢と現実の狭間」
というものになるのだろう。
夢というのを見ていると、
「それは、自分にとって都合のいいことばかりが見えているのか?」
それとも、
「都合がいいことばかりが見えているようで、いくら夢だからといって、できないと思っていることはできない」
ということを自分に思い知らせるために、存在しているものなのではないか?
と考えることもあるのだった。
夢というものを見ている時、
「これは夢なんだ」
と思える時がある。
そんな時、
「夢なら空を飛べるだろう」
と、宙に浮いてみるという行動をとってみたことがあった。
実際に宙に浮くことはできるのだが、それも、人の膝くらいまでである、手を突こうと思えばつけるくらいのところ以上は、高く飛ぶことはできない。それは、自分が意識の中で、
「これが夢の中だからなんだ」
と感じるからであった。
夢というのが、見えていることに対して、素直に感じることができるから、
「これは夢だ」
と感じさせてくれるのだろう。
本来であれば、起きている時に、
「夢を感じてはいけない」
という結界のようなものがあるのだとすれば、
「夢と現実の間には、超えてはならない結界が、存在しているのではないか?」
といえるということになるのだろう。
「夢と現実」
という関係が、
「昼と夜」
という関係と、
「長所と短所」
という関係のどちらに近いというのだろう?
と、考えさせられと考えると、
「それぞれに結界があり、見ることができない」
という形式的な発想だと思うと、
「昼と夜」
との関係ではないかと思うのだった。
「だったら、それぞれ、対になるものが存在している」
と考えるということになると、
「長所と短所」
というものと同じようなものも存在していると考えられると思うのだった。
「だが、それが何か、今のところ分からない」
と感じた。
実際に、年を重ねてきても分からない。
「物忘れが激しくなった」
と思って、ルーティンにしたことで、
「宿題を忘れる」
ということも自然となくなっていったが、そこに、自分の意識が関係しているわけではなかった。
宿題というのは、
「嫌だから忘れる」
というわけではないと感じていたのだ。
確かに宿題というものは、小学生の頃は嫌だった。
それも、嫌だったという理由が、
「なぜ、しなければいけないのか?」
ということであるが、その言葉にはも、やはり裏表があったのだ。
「しなければいけない」
というのは、
「義務を感じるからだ」
と思うからではない。
問題はそこではなく。
「しなければいけないことに、どんな意義があるのか?」
ということであった。
この意識というのは、それこそ、
「1+1=2」
という理屈をいかに、自分で考えるか? ということが問題になってくるからだということになるのだ。
この数式でもそうだ。
「義務と感じる」
というのは、最後結局、どこかで割り切ると言えばいいのか、
「そういう風になっているんだ」
と、それ以上を考えないということが、自分にとっての理屈になるということで、誰もが、
「そんなことは当たり前じゃんか」
といって、それ以上を考えている人を蔑むように見えるのだ。
それこそまるで、
「そういうものだ」
と理解してしまえば、楽になれるという理屈から考えることではないのかということになるのだろう。
一生懸命に考えても、結論が出ないことなのかも知れない。
正直、この公式というのは、
「算数、数学におけるすべての公式の原点になる」
ということで、
「この公式を理解でいれば、他の公式など、いくらでも思いつけるというものだ」
ということではないだろうか。
「そもそも、理解するということがどういうことなのか?」
ということが、分かっているのかどうなのか。それが問題なのではないかと思うのだった。
他の公式であれば、理解できるかも知れない。
何しろ、
「この公式を理解できるために、今まで勉強してきた」
という自負があるからだろう。
しかし、どこかで必ず引っかかる時がある。
その理由は、
「原点である公式」
を自分で理解できていないからだ。
といえるのではないだろうか。
逆にいえば、
「そのことが理解できるのであれば、もし、数学に限界があるのだとすれば、誰もが、数学者になれる」
ということになるのではないか?
と思うのだった。
すべての原点が分かっていないから、人それぞれの裁量があることから、行きつく先がバラバラだといえるのではないだろうか。
もし、数学にも、囲碁や将棋のような、
「段や級」
のようなものがあれば、それを分かってくれるのではないか?
と思うのだった
ということは、どういうことなのかというと、
たとえば、将棋などで言われていることとして、
「将棋で一番隙のない布陣というのは、どういうものなのか?」
という質問を受けたとしよう。
その時、段取りの人であったり、名人のような人であれば。即答することだろう。
それだけ、自分がそのことを体感できるといえるほど、考えているということになるからだといえるからではないだろうか。
というのは、
「言葉で聞いたとしても、イメージはできるかも知れないが、正直。実際にやってみて、自分が、少しずつでも、将棋というものを分かってきている」
ということを感じるようにならなければ、そこから先に進むという前向きな考えが生まれてくるはずがないということになるであろう。
つまりは、
「すべてには、必ず、最初というものがあり、その最初を理解できずに先に進むと、必ず限界があろうがなかろうが、どこか、限界とは程遠いところで、生きどまってしまう」
ということである。
しかも、そのすべてというものが、どこにあるのかということを考えようとすると、結局、
「限界の有無」
ということによって、自分が左右されるのではないか?
と考えてしまうのだ。
だが、それは、
「一番最初に、乗り越えなければいけないところを、そうなっているのだから、仕方がないということで理解したような気分になってしまったということが、すべての間違いである」
ということを分かっていないからではないかと思うのだった。
そのためには、
「何度も反復して考える」
ということも必要なのかも知れないし、
「物事には、何事も、裏表があり、ただ、その裏であろうが表であろうが、基本的には、立ち向かう自分が、ブレない気持ちをしっかりともっていなければならない」
ということを分かっているかどうか?
ということに掛かっているのではないだろうか?
そんなことを考えると、小学生の頃、
「宿題を忘れる」
というのは、自分の中にある意識の中での、
「何か一つの抵抗ではないか?」
と思うのであった。
そんな小学生の頃に見た夢の中で、よくあったのが、前述の、
「湖畔のそばにたたずんでいるサナトリウム」
という光景であった。
サナトリウムというのが、
「結核病棟だ」
ということを知っているわけではなかったが、
「何か、昔の古い土地で、しかも、それは自分が生まれる、かなり前ではないか?」
ということが分かり切っていると思わせたのだ。
「では、デジャブというのはおかしいよな」
と考える。
そうなると、じゃあ、
「デジャブというのは、自分が生きている間ということではなく、遺伝子であったり、ひょっとすると、前世という意識が働いているのではないか?」
というような発想が生まれてくるかのように感じられるのではないだろうか?
そんなことを考えると、
「思い出したというのは、自分がサナトリウムに入っていた」
という記憶からなのか?
それとも、
「自分があくまでも表から見たという時に感じた印象からきていることなのだ」
といえることなのだろうか?
という思いであった。
その時の時代がいつだったのか、想像もできない。
「サナトリウムなのだから、戦前には違いないだろう」
ということは分かっていた。
今では、
「サナトリウムというのが、結核病棟である」
ということが分かっていて、さらに、
「結核というのは、戦後すぐくらいに、特効薬ができてから、不治の病ではなくなったのだ」
ということから、サナトリウムの存在意義がなくなってきている。
ということが分かってきているからであった。
それを思うと、
「サナトリウムが果たして、結核だけに使われていたのだろうか?」
と感じるのであった。
夢の中では、時代背景が分からない、見た夢が昨日のことだったのか、それとも、数日前だったのか、それとも、記憶が許す範囲内だったのかということすら、分からなくなっているような気がするからだ。
「記憶が許す期間」
というのは、果たしていつまでのことなのだろう?
自分の中では、
「宿題が出ていたことすら忘れていた」
ということは、何かのきっかけのようなものがあれば、昨日のことですら忘れてしまう。
覚える、忘れるという機能は、自分の都合によって決まるということであれば、
「それは、本当に昨日のことなのだろうか?」
あるいは、
「今日のことでも分からない」
ということなのか?
ということになる。
そういえば、
「経理的な数字合わせ」
というのを考えた時、
「数字が合わなかった時、その数字の大小を比較した時、果たして数字の大小に、何を感じるか?」
ということであるが、
「数字というのは、誤差が小さければ小さいほどいい」
ということではない。
なぜなら、いくつかのパターンの単価が積み重なって、売り上げ実績が出来上がっている場合、請求金額との照合の違いがあった時、
「1個単価よりも、まったく小さな金額だったりした場合、その違いが何を意味しているのか?」
ということを考えた時。それは、明らかに、
「プラスとマイナスが、混同していることで、入り食っている」
ということの証明ではないだろうか。
つまりは、50円の違いがあった場合。
「たとえば、100円の未請求と、150円の未計上が絡みあうことで、ちょうど50円となる」
ということになる。
しかし、これが違いが、100円だったとすれば、100円の未請求一つが漏れているだけだということで、絞ってみることができるからだ。
入り食っている場合には、もう一度最初から、照合をし直す方がいいのかも知れない。本当は、数字が合わない場合は、どんな場合でも、最初から照合をし直すという方がいいのかも知れないが、どうしても、時間に限りがあったりする場合には、
「少しでも早く」
と考えると、
「山をはる」
ということも大切だったりするだろう。
もちろん、それができるだけの、日ごろからの鍛錬が必要で、数字に対して、
「野生の勘」
というほどの技量が必要だったりする。
それが、
「数学的な知能を養う」
ということで、ひょっとすると、最初の公式である。
「1+1=2」
という発想が、自分の中でうまく機能するために、積み重ねていく必要があるということになるのではないだろうか?
夢の中でサナトリウムが出てきた時、自分の中で、そのような機能が働いていることを感じるのだった。
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