第2話 サナトリウム

 今の時代は、大日本帝国が戦争に敗れ、6年半ほどの、

「進駐軍による占領統治」

 という時代を経て、民主国家となったことで、独立し、平和憲法の下、ここまで日本が巻き込まれる戦争もなく、やってきた。

 その間に、いろいろなことがあったが、基本的には、

「アメリカの属国」

 これが言いすぎだとすると、

「アメリカの傀儡国家」

 という側面の強い、日本国に成り下がってしまったのだった。

 それでも、

「有事の際は、アメリカが守ってくれる」

 という、いわゆる、

「お花畑的な発想」

 が、蔓延っているといってもいいだろう。

 日本という国において、冷静に考えてみれば、すべてが、アメリカの決定に逆らうことができない国であった。

 これは、

「同盟国」

 という対等立場ではない。

「これでは、明治維新の際の、元勲たちによっての、不平等条約撤廃のための、掲げられたスローガンを着実に実行していった時代の方がよかったではないか?」

 ということになるだろう。

 だから、

「大日本帝国」

 というものが、軍国主義となり、

「最後は軍部が暴走したことで、戦争という破滅の道を歩んだ」

 ということになり、それが、

「大日本帝国を破滅させた」

 ということになるのだろうが、それは、基本的に間違っている考えだ。

 そもそもの、憲法における、体制に無理があったといってもいい。

 それが、

「天皇の統帥権問題」

 というものだった。

 というのが、

「軍部の暴走は、政府が軍に口出しができないところに問題があった」

 といってもいい。

 統帥権というのは、

「天皇は陸海軍を統帥す」

 と書かれていることから、

「軍というのは、天皇直轄」

 ということであり、首相といえども、軍のやり方に口出しできない。

 いや、口出しできないというよりも、作戦を知ることもできない。

 つまりは、

「大本営」

 という、有事の際の、軍部の作戦体制の陣営に立ち入ることも、それを知ることもできなかった。

 だから、軍部が独走しても、止めることができないのだ。

 だから、満州事変において、国家の方でも、

「満蒙問題」

 というものを、

「外交政策で何とかしよう」

 と取り組んでいたのだが、

「政府に通知することもなく。満州事変が勃発していたのだ:

 ただ、これは、別に軍部だけが分かっていればいいことで、政府は軍のやり方を知ることもできない。何しろ、どこにスパイがいるか分からないからだともいえるからであった。

 大日本帝国というのは、

「軍と政府がバラバラ」

 といってもいいので、

「政府の不拡大政策」

 を打ち出しても、結局軍は先に進むしかないので、それを悟った政府は、事後承認という形で、追随するしかないのだった。

 ただ、天皇に上奏するのは、難しくはないだろう。

 何といっても、天皇は、軍にとっての、

「大元帥」

 ということなので、

「上奏しても、それは、最初から分かっていた」

 ということでの、ある意味、

「形式的なことだ」

 といえるのではないだろうか?

 不拡大政策を行っても、結局、越権とみなされるであろう、

「朝鮮軍における。越境」

 ということは、本来であれば、

「天皇の命令なしに、海外に派兵することは違憲だ」

 ということで問題になったが、その時の朝鮮軍司令であった人物は、

「その後、首相になった」

 ということであり、しかも、満州事変を立案実行した関東軍参謀課長は、その後、出世街道を歩むに至るのだった。

 ただ、この時の軍と政府の溝が決定的に深かったことも、日本が、

「世界的に孤立する」

 というのも、ある意味無理もないということになるであろう。

「日本とアジアの関係」

 というものは、諸外国に分からないように、日本国内における、

「軍と政府の間にある溝」

 というものは、

「交わることのない平行線」

 ということで、やむを得ないとすれば、代償やリスクを伴うものとして、大きな問題となることだろう。

 かすみは、毎日の生活をルーティンにしていた。

 最近では、すぐに物忘れの激しさを自分で思い知らされているような気がして、そのせいで、

「毎日、同じ行動をしていないと、忘れてしまう」

 と思うようになり、ルーティン化が自分の中で進んでいった。

 やってみると、これが思ったよりもしっくりとくるもので、やりながら、うまくいかなかったりするものを、いつの間にか、改善できていることに気づかされる。

 人と一緒にすると、今度は逆におかしくなるので、

「ルーティンというのは、自分の中だけで行うものだ」

 と考えるようになっていた。

 一時期、嵌りすぎて、

「玄関を出る時の一歩目を、どっちの足にするか?」

 ということにまで決めていたくらいだった。

 本当にルーティンになっていればいいのだが、それが、完全に、

「迷信に取りつかれた」

 というようになってしまうと、違う足から間違って踏み出した時、

「ああ、今日はろくなことがない」

 と後悔してしまうものだった。

 だが、実際にその人を過ごしてみると、別に何かがあったわけではない。

 それを思うと、結局おかしなことというのは、ないのだった。

「ああ、よかった」

 と感じるのだが、だからといって、迷信を辞める気にはならなかった。

「今日はたまたま、よかっただけなんだ」

 と考えてしまう。

 普段から、悪い方にしか考えようとしない人間は、えてして、普段からろくなことを考えていないのだ、だから。

「今日が、たまたまよかっただけで、いつもこうはいかない」

 と考えるのだ。

 だからこそ余計に、この時のことで、さらに、迷信を信じる体質になっていくのだった。

 迷信というものは、実に厄介なもので。そこに、ルーティンなどのような、

「厄除け」

 とでもいうようなものがあったりすると、

「悪いことを鎮めるどころか、厄除けをしている自分が、

「悪いことに対しては、できるだけのことはしておかないと、結局第五にバカを見るというのは、自分なんだ」

 と感じさせられるのであった。

 かすみが、そのルーティンを気にするようになったのは、かなり前からだった。

 というのは、あれは、小学三年生くらいの頃だったか。その頃にはすでに、踏み出す足を決めていた頃でもあった。

 最初は、そこまでの迷信めいたことをしていたわけではないが、毎日同じことをするということは、親からの教育で、そうさせられていた。

「いつも同じことをしていれば、とりあえず、悪いことが起こらない」

 と、特に母親は信じていた。

 父親もそうだというが、あまり家にいない父親のことまでは分からなかった。

 母親においては、父親と、違っているという思いが自然とあったのだ。

 というよりも、

「お母さんが、人に合わせるなんてことできるはずがないわ」

 と思ったのは、子供心にも、

「自分はお母さんと同じところがあるんだな」

 と思っていた。

 だから、ルーティンを決めておくということを、まず最初に言ったのであって。

「お父さんの方が、お母さんに合わせている」

 と言えばいいのか、

「夫婦がうまくいっているのだから、お父さんが合わせているとしか思えない」

 と感じていた。

 まだ、小学三年生だったが、学校での集団生活をしていると、

「本当に窮屈だ」

 と感じることがあった。

 一番よく感じるのが、

「給食の時間」

 だった。

 本来なら、

「一番楽しい時間」

 ではないだろうか。

 実際に、小学校を卒業すると、

「楽しかったのは給食の時間だったよな」

 という記憶が残っているのだ。

 しかし、その記憶を意識として思い出そうとすると、

「だけど、その時々を具体的に思い出そうとすると、嫌なことしか覚えていないんだろうな」

 というような感覚に陥る。

 それは、漠然とした感覚なので、思い出したことが、どういうことになるのか?

 と感じることで、その時々に、誰かがいつも絡んでいたのを思い出すのだった。

 絡んでくる人というのは、自分の中で、

「友達」

 と認識していた人だったはずなのだか、卒業してしまうと、

「本当に友達をいえるんだろうか?」

 と感じるのだ。

 友達というのが、自分にとってどういうものなのか、小学生でそこまで考える人はいないだろう。

 もし何か感じるものがあったとしても、

「いつも一緒にいて、お互い助け合っている相手」

 と、言葉では言えるのだが、

「助け合うって、どうするんだ?」

 と具体的なことになれば、小学生で分かるはずもない。

 中学に入って感じることとしては、

「助け合いというのは、相手に干渉しないこと」

 ということではないかと思うようになる。

「それだったら、友達の意味ないんじゃないか?」

 と思うのだが、中学くらいになると、

「干渉しないことで、お互いを尊重しあっているということになるのではないだろうか?」

 と考えていた。

 だが、その反面、

「友達って面白くないな」

 と思うようになった。

 実際に中学生くらいになると、

「誰かと一緒にいるという思いが、どこかわずらわしさを感じる。こんな思いは、小学生の頃にはなかった」

 と感じるようになった。

 それは、

「自分が思春期に入った」

 という意識がないまま、思春期にいたからであり。まるで、自分が、

「精神病にでもなったのだろうか?」

 と感じたのだ。

 小学生の頃から、母親によく、

「最近は、学校でも精神病の子がいるというから、気を付けないとね」

 と言われたものだ。

 しかし、かすみは、

「何が精神病なのか?」

 あるいは、

「何をもって精神病というのか?」

 ということを分かっていなかった。

「精神病って、一体何なのかしら?」

 と考える。

 学校やまわりから、精神病という言葉を聞いたことがない。

「精神疾患」

 という言葉を聞くことはあるので、

「精神疾患? 精神病じゃないの?」

 と、担任の先生に聞くと、その瞬間、その顔が苦み走ったような嫌な表情になった。

「苦虫をかみつぶしたよう」

 という言葉があるが、まさにそんな感じだった。

 舌打ちくらいはしただろう。

 そう思って先生を見ると、目だけが、睨んでいるように思えた。

「私は、言ってはいけないことを言ってしまったのかしら?」

 と思い、それ以上は聞けなかった。

 そのことがあってから、

「精神病」

 という言葉は、かすみの中でトラウマとなり、

「口にしてはいけない言葉なんだ」

 と感じたのだ。

 その証拠に、かすむが成長するにつれて聞かれなくなった、

@精神病という言葉」

 を、母親が口にした時、

「これ以上ない」

 というくらいに、不快な思いがよぎった。

「不快指数は、最高潮」

 そんな感覚だったのだ。

 中学生になると、

「言ってはいけない」

 という

「タブーな言葉が、極端に増えてきた」

 それが、思春期なるがゆえのことだということを知る由もなかったのだ。

 だが、さすがに、中学一年生の時、初潮を迎えると、

「自分の身体が、おかしくなってしまったのではないか」

 と感じたのだ。

「お母さんにいうと、今までのように、舌打ちをさせるに決まっている」

 と思い込んでいたが、実際にそうではなかった。

「洗濯をする母親には簡単にバレた」

 ということであったのだが、

「自分でも、少し洗ったつもりで洗濯機の中に入れたのだが、母親は、微妙に分かったようだった」

 そして、

「別に心配することはいらないのよ」

 といってきたのだった。

「えっ」

 というと、母親が、

「生理がきたのね?」

 というではないか、

 生理のことは、かすみも、一通り、本を読んでいた。

 自分に起こった不可思議なことで、しかも、それを誰も何も言わないのは、それこそ、

「触れてはいけないこと」

 ということで、最初は、

「迷信じみたことだ」

 ということから、

「何かの神事に近いことではないか?」

 と思った。

 そうなると、自分だけに起こったことだとすると、

「自分が天に召される」

 ということになるのではないか?

 と感じると、恐ろしくて仕方がなかった。

 さすがにその心配をするようになると、

「誰かに相談しないといけない」

 と感じたのだが、それは誰がふさわしいというのか、ということまでは、まったく想像もできなかったといってもいいだろう。

「お母さんに相談?」

 と考えたが、

「いやいや、あのお母さんに相談して、まともな答えが返ってくるかどうかが恐ろしい」

 と感じるのであった。

 そんな時に、まさか、

「母親から、助け舟を出してくれるなんて」

 ということに、びっくりさせられた。

「生理というのは、そもそも……」

 と言って、比較的分かりやすく説明してくれた。

 そういえば、今までに母親が説明してくれることに関しては、考えてみれば、間違っているようなことは一つもなかったような気がする。

 口調も優しく、

「そういえば、お母さんは、結婚前は、

「学校の先生をしていた」

 ということであった。

 父親も高校の教師だったので、先生同士、学校は違ったが、気が合ったのだろう。母親が教師をしていたのが、中学だということであるから、この時のかすみの年齢とちょうど同じくらいということで、昔を思い出していたのかも知れない。

 母親が、精神病という言葉を使ったのは、

「時代が違った」

 ということであろう。

 今の時代は、

「それらの精神病という言葉を、使ってはいけない」

 という風潮にあるので、

「精神病という言葉だけではなく、それ以外に言われている、一種の放送禁止用語を口にしようものなら、誰もが、気持ち悪い態度をとるのだ」

 自分たちが、言ってはいけないと思って我慢している言葉を、軽々しく口にしたからだろうか。

 確かに、言ってはいけないことがこれだけ増えてきた時代、

「特に精神病と言われる範囲が増えてきた」

 いや、というよりも、

「それだけ、多種多様な精神疾患を持った人が増えてきた:

 ということだろう。

 それを思うと、

「精神疾患を患っている人は、自分が感じているよりも、もっといたのかも知れない」

 と思うのだった。

 一善母親が言っていたのは、

「お母さんたちが勤めていた学校には、精神病の子たちを集めて、特殊学級というところがあったのよ」

 というではないか。

 確かに。

「精神病学級:

 というよりはまだマシなのかも知れないが、

「特殊学級:

 という言い方にも、どこか語弊がある気がするのだった。

 それだけ、

「精神疾患の種類も、罹る人も多い」

 ということであろう。

 病院の中に、心療内科」

 というところがあり、昔でいうところの、

「精神病院」

 と言われるようなところが、こういう、

「心療内科」

 と呼ばれるところではないかと感じるのだった。

 実際に、

「精神病院」

 などと言われるところがあったのだろうか?

「〇〇精神病院」

 という看板を掲げているのかということである。

 どこかの大学病院などのような、大きな総合病院の中で、

「精神科」

 というところがあるというのは聞いたことがあった。

 だが、それは今も同じことだが、精神病であったり、精神疾患というものを扱っている個人病院が存在するのかというのは、分からなかった。

 かすみは、中学に入ってすぐくらいの頃、ドラマで、

「奇妙なお話」

 というのをしていたのを見たことがあった。

 そこには、ハッキリと、

「精神病院」

 という言葉が掛かれていた。

 舞台は現代だったが、その病院は、まるで明治時代からタイムスリップでもしたかのような、完全にくたびれた、コンクリートでできた、施設だったのだ、

 その番組を見て、最初は、

「まるで、どこかの研究所のようだ」

 と感じた。

 しかし、そのくたびれた感覚は、

「建物に、ツタが絡みついていて、それを取る気配が誰にもなく、ツタが絡んでいる様子は。むしろ、その建物に、違和感を感じさせないという雰囲気だった」

 といってもいいだろう。

「こういう場所を、どこかで見たことがあったような気がしたな」

 とかすみは思ったが、よくみてみると、

「ああ、そうだ。サナトリウムと呼ばれる建物だったんだ」

 という。

 しかし、

「サナトリウムというのって、精神病を受け入れるところだったっけ?」

 と感じたが、実際には、精神病とこの建物が、あまりにも感覚的にマッチしたので、さらに、気持ち悪さが増幅しているようだった。

「サナトリウムには、確かに、精神病患者がいた」

 と感じたのは、まわりが静寂な中で、表から映像がどんどん、建物に近づいていて、つまりは、次第に、視界に入り切れないほどの大きさが、目の前に迫ってきているということであった。

「サナトリウムって、本当にこんな感じだったよな」

 と、かすみは感じていた。

 近づくにしたがって、何か奇声のような声が聞こえてきた。それが、叫び声のようなものでもあり、すすり泣くような声でもあった、

 その時、

「ああ、精神病にもいろいろな種類のリアクションの人がいるんだ」

 と思った。

 それを見た時、

「何か動物園のようではないか?」

 と考えたが、その中にいる人は、皆白衣の人たちから、それなりの迫害のようなものを受けているようだ。

 しかし、その受けている迫害を考えれば、

「見るに堪えない」

 と思えてくるにも関わらず、実際に放送しているではないか?

「放送していいことと、悪いことというのが、いかに分かれているのか?」

 ということは、言葉では分かっているつもりだったが、実際の放送となると、その微妙なところの違いというものが、どういうことなのかが分かっていなかったりするのだ。

 それを思うと、

「サナトリウムというのが、何だったのか」

 ということを、再度考えてみることにすると、今度はすぐに思い出せたのだった。

「そうだ、サナトリウムというのは、確か、結核病棟のことだったんだわ」

 というものだった、

 結核というのは、そもそもが、伝染病で、しかも昔は、

「不治の病」

 と言われ、

「戦後に特効薬が出るまでは、隔離されて治療を受け。最後の時が来るのを待つしかない」

 という、そんな悲惨なものだったという。

 今の時代では、結核というと、

「手術をすることもなく、投薬だけで治る」

 と言われたものだった。

 それを思うと、

「医学の進歩というのは、甚だしい」

 といえるだろう。

「今の不治の病と言われているものでも、近い将来には、薬だけで治るようになるかも知れないな」

 といえるだろう。

 結核病棟というのは、そもそも、

「都会から、隔絶されたところにあった」

 というのも、

「余生を人里離れたところで過ごす」

 といえば、いい表現に聞こえるが、何といっても、伝染病なので、

「隔離が絶対に必要だ」

 ということであった、

 今であれば、

「不治の病」

 というと、

「ホスピス」

 などというところで、最後を過ごす人もいるだろう、

 彼らは、

「神に召されることを分かっていて、そこで、静かに残りを暮らす」

 というもので、どこまで心静かに過ごせるか?」

 ということであろうが、それも、すべては、

「本人が、どこまで覚悟ができているかどうか?」

 ということに掛かっているといってもいいだろう。

 当時の、

「不治の病」

 というと、当然他にもいっぱいあっただろう。

 ただ、結核がその代表例だったということは間違いない。

 特に、血を吐くなどというシーンは、幕末の剣豪であったりに結構あることだ。

「若くして亡くなった剣豪」

 としては、

「長州藩の高杉晋作」

 さらには、

「新選組の沖田総司」

 などがその例であろうか、

 どうしても、沖田総司のように、

「血を吐きながら戦った」

 というイメージが強く、特に、

「美男子」

 というイメージがついていることから、その解釈が難しいといってもいいだろう。

 ただ、結核はどうしても、人に伝染するということで、最後には隔離ということしかなかったのだ。

 ただ、

「伝染病である」

 ということを、

「鎖国下の日本で分かっていたのかどうか?」

 である。

 ただ、鎖国下においての、医学は、蘭学が入ってきたことで、立派に機能していたともいえる。

「ターヘルアナトミア」

 などと呼ばれるものが、オランダから入ってきて、杉田玄白、前野良沢らによって、翻訳されたことで、医学は、西洋に負けないくらいであったといってもいいかも知れない。

 ただ、結核は、

「不治の病」

 と呼ばれた時代が長かった。

 これは、西洋においても同じことで、

「日本だけの問題ではなかった」

 それを思うと、

「サナトリウム」

 というものが、建設され。活用されたのは、日本における医学の発展という意味で、

「実に大きなことだ」

 といえるのではないだろうか?

 サナトリウムが、各地に建設され、ひそかに療養所としての機能もあったということであれば、それはそれでいいことなのではないだろうか?


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