陥穽

 投獄されてから数日が経った。


 王匡おうきょう自らが率いる軍勢に捕まった際、その場で斬られると覚悟したが、胡母班こぼはんはなぜか生かされていた。


 ただ、食事はろくに与えられていない。王匡は、妹婿いもうとむこの武勇を熟知している。奴は弱らせておかなければきっと牢破りをする、と警戒しているのだ。


 詔書しょうしょは、捕まった際に取り上げられた。青絹のくつも強引に脱がされ、胡母班は裸足である。


 王匡は、履の秘密を知る数少ない身内のひとりだ。その霊妙なる力が胡母班を助ける可能性を危惧したのだろう。


(この履の神秘を袁紹えんしょう軍がなぜ把握しているのか不思議だったが……。やはり義兄が教えたのだな。

 俺はまことの愚か者よ。「この履に込められた力は秘中の必である」と河伯に念を押されたゆえ、しゃべったのはごく限られた身内――妻と母、そして義兄の三人だけだった。だから、司馬懿しばいにも、河伯から友情の印に美しい履をもらったことしか伝えていない。もちろん、宮廷内の友人たちにも、いっさい漏らしたことはないし、袁紹に情報を流しているであろう王允おういん殿が知るはずのない秘事なのだ。袁紹軍の武将がその秘密を知っていると分かった時点で、義兄が俺を売ったことに気づくべきであった……)


 胡母班はいま、薄暗い牢の中にいて、底なしの穴へ堕ちて行くような絶望感に襲われている。


 王匡が、たったひとりの人間を捕縛するには過剰すぎる兵数で襲って来た際、


 ――義兄め。ずいぶんとふとらせおって……。


 そう痛嘆し、すぐに大いなる怒りが湧いてきた。


 別に、王匡が肥満体になった、という話ではない。


 人は、誰もが心中に傲慢ごうまんの虫を飼っている。その虫が肥大化すれば、怪物となって宿主を支配し、人間は凶悪な人相――権力者の顔になる。


 あんなにも弱者を救うのが好きだった義兄が、董卓とうたくや袁紹と同じ権力者の顔に変ずるとは。司馬懿から悪政の噂を聞かされておきながら、まだ義兄を信じようとした自分の無邪気さに、胡母班は激しい後悔を感じざるを得なかった。


(あの醜悪な権力者の顔だけは好かん。董卓や袁紹にそっくり……いや、人の生死を管理する、あの傲慢な神と瓜二つではないか)


 空腹で体力が徐々に削られていく中、胡母班は何度も悪夢を見た。


 十年前のあの悲劇が夢の中で何度も繰り返され、悲鳴とともに飛び起きるたび、手を叩きながら笑う泰山府君たいざんふくんの異様に大きな顔と獣の牙のように尖った歯が暗闇の中に浮かんでくる。


「俺をわらうな、冥府の神ッ。たしかに俺が愚かであったさ。しかし、馬鹿々々しい理由で我が子を奪われた男が、それほどまでに滑稽なのか」


 しつこく現れる冥府の神の幻影に対して、胡母班は幾度となくそう怒鳴るのであった。






 そう、あれは黄河の神への使いを果たし、故郷の泰山郡たいざんぐんに戻った時のこと――。


 胡母班は、手紙を無事届けたと報告せねばと思い、泰山のふもとの木を叩いて冥府の兵卒を呼び出した。そして、冥府の宮殿へと再び案内された。


(む? あれは……二年前に亡くなった我が父ではないか)


 宮殿の広大な回廊を歩いていると、首枷くびかせをはめられた数百人の――死人たちが庭園で労役に従事させられている光景が目に入り、亡父がその中にいることに気づいた。驚いた胡母班は、死人たちのもとへ走り寄り、「父上!」と声をかけてしまった。


 なぜこんな労役をさせられているのかと涙ながらに尋ねると、亡父いわく、「わしは死んでから、重い労働を三年課せられてしまったのじゃ。まだ一年残っておる。涙が出るほど辛いわい……」とのことである。


はんよ。お前は生きた身でありながら、泰山府君に気に入られているそうではないか。お前から、この苦しい労役を免除してもらえるように頼んでおくれ。できれば、儂は故郷の土地神になりたいのじゃ」


 父は生前から、苦しいことや嫌なことから逃げたがるたちだった。その生前の行いをとがめられて、三年の労役を課されたのかも知れない、と胡母班は思った。


 だが、どんな親であれ、孝行を尊ぶのが儒教を官学とするこの時代の人々である。胡母班も、父にそう命令されれば、素直に従う。泰山府君に拝謁した彼は、ひれ伏して亡父の願いを叶えてくれるように懇願した。


 さすがに厚かましい願いであろうか。しかし、俺はこの神のために働いたのだから――と不安に思っていると、泰山府君は「不可能ではない。ただ……」と告げた。


「生者と死者は別の道を行くもの。近づくべきではない。そなたの体が可愛くはないのかな?」


 謎かけのようなことを言ったきり、それ以上は口を開かず、薄ら笑いを浮かべている。


 胡母班は少し不気味に思ったが、「我が身はどうなっても構いません」と、さらに懇願した。


 この時、「近づくべきではない」とはどういうことかしつこく問うべきだったのだろう。しかし、その言葉に恐るべき意味が隠されているとは想像だにしなかったのである。


「そこまで申すならば、そなたの願いを叶えてしんぜよう」


 泰山府君の返答に安堵し、胡母班は家族が待つ我が家に帰った。


 彼の子供たちが次々と死んでいくようになったのは、その数日後のことである。


 病らしい病にもかからず、ただ、ある日死ぬ。朝目覚めたら、体が冷たくなっているのだ。


 まず、生まれてこのかた風邪を一度もひいたことのなかった長男が突然死に、それからほどなくして、弟たちの面倒をよく見る優しい子だった長女も兄を追いかけるようにはかなくなった。


 年長の者から順番に事切れていき、子供たちはわずか一年でほぼ全滅しかけた。生きているのは、昨年産まれた男子と、妻の腹の中にいる赤子だけとなった。


 胡母班と妻はどうしてよいか分からず、ただ狼狽うろたえ、我が家を襲った死の連鎖がこれ以上続かないことを祈ることしかできなかった。


 六十歳の老母もひどく心を痛め、最後に五男が息を引き取った朝には、


「昨日まで元気だったのに。まるで、魂を吸い取られたかのような……」


 愛しい孫の死に顔を撫でながら、震える声でそう嘆いた。


 胡母班が、ある恐るべき可能性に気がついてしまったのは、まさにその時である。


(母の言う通りだ。こんな不自然な死に方、魂を吸い取られたようにしか見えない。まさか、まさかこれは――冥界が関わっているのでは?)


 愕然がくぜんと立ち上がった胡母班は家を飛び出し、言語化できぬ野生の獣のような怒号を何度も上げながら、泰山へと狂ったようにひた走った。


 冥府の兵卒を呼び出して、みたび冥界の宮殿へ赴き、泰山府君に問いただした。


 すると、この生死をつかさどる神は、


「それ見たことか! だから忠告したではないか!」


 と叫んで大笑いし、手を激しく叩いたのである。


 胡母班は驚いた。「毎日おびただしい死者の魂を迎え入れ、その管理をしておるゆえ疲れきっている」と、いぜん胡母班に愚痴を漏らしていた際、彼は不健康そうな青黒い顔をしていた。しかし、いまの冥府の神はどうだ。頬に朱がさし、いやに晴れ晴れとした表情になっているではないか。


「どれどれ。今すぐそなたの父を呼び出し、詰問してやろう」


 泰山府君はクックッと笑いながらそう言い、胡母班の父を宮殿の庭に呼んだ。


 泰山府君が「土地神になったからには、一門に福をもたらすべきであろう。何故なにゆえ、孫たちを死に絶えさせたのじゃ」と問うと、亡父は恐縮しながら答えた。


「久しく離れていた故郷に帰れたことが嬉しく、お供えの酒や食事も十分味わえましたので、可愛い孫たちを我がそばに置きたいと思い、ついついあの世へ呼んでしまいました」


「けしからん奴め。お前は土地神失格じゃ。別の者に交代させるゆえ、出て行け」


 泰山府君はそう叱り、泣いて謝る胡母班の父を宮殿から叩き出した。


 これで安心じゃ、もう子供らは死なぬぞ――猫撫で声で冥府の神は胡母班をなぐさめた。


 しかし、このとき胡母班は、あることに明敏に気づき、怒り心頭に走っていた。


 彼は、礼を述べることもせず、泰山府君をキッと睨み据えた。


(泰山府君が「死者に近づくな」と申したのは……生者と死者は住む世界が異なり、価値観も違う。たとえ肉親でも、生きていた時とは、別もの。不用意に近づけば、災いが起きる。そういう忠告だったのだろう。

 だが、こうなることが最初から分かっていたのなら、もったいぶった言い方をせず、亡父に我が子らをとられるぞとハッキリ教えてくれればよかったのだ。

 それに、泰山府君は、最初会った時、「地上の人間どもの魂は、我が直属の部下――司命しめい冥吏めいりが全て回収している」と言っていた。つまり、いくら土地神といえども、郷里の人間の魂を独断で冥界に引き入れることはできないはずだ。必ず冥吏の手を借りたに違いない。ならば……上司の泰山府君が把握していないわけがない。いや、むしろ、率先的に亡父に手を貸すよう冥吏に言い含めていたのではあるまいか)


 もてあそばれたのだ、俺は――と胡母班は確信した。


 人間の生死を司るこの神は、冥界にあふれる死人どもの管理に嫌気がさし、憂さ晴らしがしたかった。そんな時に、無邪気でだまされやすい胡母班という玩具を見つけ、からかってやろうと考えたのであろう。


「にやにやするな! ひとの子の死がそんなに笑えるか! 貴様のような驕慢きょうまんな神には、二度と会わぬわ!」


 古代中国の人々は、つばには邪悪なものを退ける霊力があると信じている。胡母班は、泰山府君に唾を吐きかけると、冥府を立ち去った。それ以来、冥界には行っていない。


 だが、あの神と再会するのも、時間の問題だろう。胡母班は、この世で最も信じていた義兄に裏切られ、いまは獄中にいる。王匡は、袁紹の命に従い、妹婿を殺すに違いない。






「本当に馬鹿な話さ」


 何度目かの悪夢から覚めた時、目の前にあの司命の冥吏がいた。例のごとく無感動な顔でこちらを見つめている。胡母班は、やつれた顔をゆっくりと上げ、己の後悔を吐露した。


「俺が言う後悔は……自分の無邪気さだ。信じるべきではなかったのだ、あの人を。昔、この無邪気さのせいで、取り返しのつかない過ちを犯したというのに、またやってしまったよ。そりゃぁ、あんたの主人が手を叩いて笑うわけだ。アハハハ。…………残念だが、任務はこれで失敗だ」


「そこまで後悔なさっているのなら、助けてさしあげましょうか?」


 冥吏が初めて口を開き、温もりのない冷え冷えとした声で、そう言った。


「助けるだと? あんたは、俺を迎えに来たのだろう? ……俺はいつ死ぬ? 今すぐか? それとも今夜か?」


「予定では明日の昼ですね。しかし、貴方は我が主人とは顔馴染み。多少の融通は利きます」


「融通が利く、とはいかなる意味だ。あんたが手に持っているその禍々しい帳簿から、俺の名を消してくれるのか」


「消す……と言いますか、死亡する年月日を他の者と交換することができます。私は今回、董卓とうたくの使者となった五名のうち四名を迎えに来ました。生き残るのは韓融かんゆうという老人ただひとり。高齢ゆえ韓融も余命いくばくもありませんが、彼と死亡年月日を交換すれば、何らかの奇跡が起きてこの牢を脱し、あと数年は生きられることでしょう」


「ぐふっ……ぐふふふ……。アハハハハハハハ!」


 冥吏のげんを聞いた胡母班は、失笑を禁じ得なかった。あまりにも片腹痛く、冥府の者らしい傲慢な提案だと思った。ひとしきり腹を抱えて笑うと、「馬鹿にするなッ」と怒号していた。


「ひとの寿命を盗めるものか。人間の命は、貴様ら冥府の者から見ればどれも一緒で、ただの管理対象にすぎぬのであろう。しかし、違うのだ。全てがかけがえなく、この世にただひとつしかない。軽々しい気持ちで、我らの命を扱うな。泰山府君のくそったれにそう伝えておけ!」


 胡母班の怒りの言葉が終わらぬうちに、冥吏の姿は消えていた。


 無感情に見える冥府の役人でも、主人の悪口を聞くのは耐え難かったのか。それとも、主人のつまらぬ悪戯で胡母班の子供たちの命を奪うことになってしまったことに対して、多少の罪悪感は持っていたのか。どちらなのかは分からない。ただ、消えていく刹那せつな、顔をわずかにゆがめたように見えた。


「くくく……。あやつもしょせんは主人の使い走り。俺と立場は一緒ということか」

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