疾走
人定の刻(夜の九時~十一時頃)にそろそろさしかかる遅い時間に、
「こうなったら、やむを得ません。私たち一族はただちに出立し、
「そのほうがよかろう。道中、山賊などに襲われぬよう気をつけるのだぞ」
「
胡母班が何らかの危険な任務を負い、
しかし、胡母班は首を振って、「いや、結構」と断った。
「そなたたちが目指すのは黄河北岸の黎陽、俺が行くのは黄河の南の
「ならば、せめて我が家の馬を一頭連れて行ってください。諸勢力の動向を探るために当家の食客たちを各地に潜り込ませておりましたが――先刻もどった食客が申すには、今日の朝方、
「…………そうか」
胡母班は、平静を装って静かにそう呟いた。しかし、内心は(あの陰脩殿がか。早い……。捕捉されるのが早すぎる……)と衝撃を受けていた。
しかし、司馬家の食客がもたらした情報によると、彼は袁術軍によってあっさり
ふだん仲の悪い袁兄弟も、一族の仇討ちのために珍しく協力し、
だが、それにしても、不気味なほどこちらの動きを先読みしている。あまり考えたくはないが、長安にいる内通者の誰かが、反董卓連合軍に情報を流しているのかも知れない。
(和平を望まぬ内通者といえば……やはり、董卓の
一瞬そう迷ったが、胡母班はすぐにその考えを打ち消して、再び首を左右に振った。
「気持ちは嬉しいが、いらぬよ。馬があったところで、待ち伏せしていた精鋭部隊に取り囲まれてしまったら、逃げ切れまい。馬の背中に翼でも生えて、ひとっ飛びで敵の包囲網を突破してくれるのなら別だがな」
冗談交じりではあるが、ハッキリと固辞した。
司馬朗はこれから、
「そのような
「いざという時は、黄河に飛び込んで、泳いで逃げるさ。きっと
そう言うと、胡母班はニヤリと笑って、司馬懿の肩を叩いた。
司馬懿の心は、先ほど聞かされた奇怪な物語にまだ酔っているらしい。「は、はぁ……」とぼんやりとした返事をしただけであった。
「息災でな。また会おう」
司馬兄弟にそう言い捨てて、胡母班は屋敷を辞去した。夜陰に乗じて黄河を渡河し、義兄のいる
(それにしても、不思議だ)
胡母班は、黄河の渡し場へと続く夜道を走りつつ、考えていた。
俗界と冥界を
(俺の長男は怪談が好きだった。背格好が似ていて、好奇心旺盛な司馬懿といると、亡き長男に怪談を語り聞かせているような気分になってしまったのやも知れぬな……)
司馬家には、成人した司馬朗をふくめて、八人の子息がいた。自分も昔は、
故郷の我が子を捨て置きながら、少年の帝に尽くし、路頭に迷う都の孤児たちを助け、そして司馬家の次男には物語を聞かせてやり、己の父性本能を満たそうとしている……。胡母班は、ほんの一瞬、そんな我が身が滑稽に感じられてしまい、
「いたぞ! 胡母班だ! 捕まえろ!」
自虐の心にとらわれていた胡母班を現実に引き戻したのは、殺意に
(この
振り返ると、黒々とした騎影が二、三十迫って来ていた。月のない夜だというのに
胡母班は、チッと舌打ちし、残っていた
「どこだ、胡母班! 我こそは
(声で居場所を知らせてくれるとは、
胡母班は、一瞬だけ立ち止まって草むらから顔を見せると、声がした暗闇の方角めがけて、ビュッと短剣を
「うわっ」という驚きの声が夜の闇に響き、その直後、馬の巨体が倒れる音がした。顔良という武将には当たらなかったが、騎乗していた馬には命中したようだ。部下の兵たちが慌てて下馬し、地面に投げ出された顔良を助け起こしている。
今のうちだ、と思った胡母班は全力で走り、やがて黄河のほとりにたどり着いた。
しかし、ここで不測の事態が起きた。
「舟が……ない」
夜風の中にかすかに残る焦げ臭いにおい。河辺に散乱する焼けた木の破片。つい先刻まで、顔良配下の兵がここにいて、舟をことごとく焼いたのであろう。
(顔良とやらの迂闊さを笑ったが、本当の間抜けは俺であったわ)
胡母班は、思わず天を仰いだ。
昨夕、洛陽方面から
こんな事態に陥ることぐらい、経験豊かな武人である胡母班なら、常ならば想像できたはずだ。度重なる不測の事態や、義兄
(どんどんと悪い方向へ向かっている。俺の頭脳や判断力も、雑念に邪魔されて、上手いこと働かぬ。完全に焼きが回ってしまっている。まるで、天が我が滅亡を望んでいるかのような……)
ふと異様な気配に気づき、全身に鳥肌が立った。
岸辺に、自分以外の誰かがいる。
袁紹軍の新たな討ち手か――と思い、気配がした右の方角に鋭い
何の感情も持っていないような、生気のない顔で、こちらを見つめている。
数日前、
その男の顔に、胡母班は見覚えがあった。冥府で
「あの時は、気のせいだと自分に言い聞かせていたが……。やはり、あんただったか。その手に持つ死人の帳簿に、この俺の名が
冥吏は石のように無表情。何も答えない。
しかし、彼の右肩の上にひとつ、左肩の上にふたつ、よく見知った人間の
「陰脩殿、
友人たちの目は虚ろで光なく、血の気は失せている。それは
五人の使者のうち、胡母班と
「ふっ……ふふふ……ふふふふふふ……」
急に笑いが込み上げてきた。止めようと思っても、止まらない。
ひとの死とは、実に簡単で、滑稽なほど軽々しいものだ――我が子たちが何の意味もなく愚かしい運命の悪戯によって続々と死んでいった時、そう痛感したはずだった。しかし、いざ自分の死の順番が巡ってくると、冷静ではいられない己がいる。あれだけ義だの
――本当に、これっぽっちの人生で終わりなのか?
という凄まじく強い未練が、急激に心の中で噴き出してきたのである。
そんな自分の往生際の悪さが、おかしくて仕方がなく、我ながら哀れで、笑ってしまっていたのだ。
(だが、ここで立ちすくんでいたら、後ろから追って来る顔良とやらに首をとられるだけだ。どうせ死ぬにしても、できる限り
そう強く願う。胡母班は、自分の
(十歳の帝は、俺をいつまでも懐かしく思ってくれるだろうか。いや、幼少期のわずかな間だけ
それでも、と胡母班は思った。
それでも……この国の子供たちの未来を少しでも明るくするため、この命を使いたい。孤児にならず、自分の故郷で親と平和に暮らせる、そんなささやかな幸福を当たり前にするため、群雄たちの無益な争乱を止めねばならない。それが、亡き子らへの償いともなるはずだ――。
「冥吏よ。我が魂の回収、いましばし待て」
胡母班は、牙を
その直後、胡母班がさっきまで踏んでいた地面に、顔良が放った矢が突き刺さった。
「おのれ! 大河に身を投げたか! ここに待ち伏せの兵を配置しておくべきであったわ!」
部下の馬に乗り換えて追って来た顔良が、黄河のほとりで馬を停止させ、歯噛みして悔しがる。その時にはすでに、冥吏もどこかへ去っていた。
「あともう少しで、冥府帰りの胡母班を冥府に永住させてやることができたのに。残念無念じゃわい」
「されど、入水したまま浮かび上がって来ません。すでに溺死したのでは?」
部下のひとりがそう指摘したが、顔良は首を荒々しく振り、「さる筋からの情報によると――」と言った。
「胡母班という男は、泰山府君の手紙を河伯に届け、その礼として河伯から青絹の
「この大河を泳ぎきるだなんて、そんな馬鹿な……」
「まあ、いい。奴はしょせん、自ら死に向かって疾走しているだけに過ぎん。命がけの任務は徒労に終わるのだ。哀れだが、これが奴の運命よ」
その翌日――
青い履をはいた足は濡れていない。衣服も水滴ひとつついておらず、
胡母班は、冥府の神の泰山府君と、最悪なかたちで絶交している。
「河伯よ……感謝する」
恭しく黄河に一礼すると、胡母班は、袁術軍の偵察兵が近くにいないか警戒しながら走りだした。
兗州泰山郡までの途次、反董卓の諸将の陣営をいくつも通過する。袁紹は恐らく「董卓の使者の口上に耳を傾けてはならぬ。見つけ次第、
言うまでもないことだが、各地の諸将は董卓を憎んでいる。胡母班が和平を説いても、応じる可能性は非常に低い。
その一方で、彼らは袁紹の家来というわけでもない。良識ある武将ならば、天子の近臣に危害を加え、わざわざ汚名を背負う愚行は犯したくないはずである。袁兄弟の軍勢以外は、積極的に胡母班の行方を捜すとは考えにくい。
しかし、胡母班自らが彼らの陣営に飛び込めば、どうなるか。きっと、名門袁家の威光に気兼ねして、捕縛したうえで袁紹か袁術のもとへ身柄を護送するだろう。泰山郡に無事たどり着くまでは、どこの勢力の軍団とも遭遇すべきではない。胡母班は走りながらそう考えた。
(だが……待てよ。兗州
ふとそんな期待が脳裏をよぎったが、それは危険すぎる賭けだ、とすぐに思い直した。
張邈は袁紹との親交が深い。連合軍結成以降、両者に亀裂が生じているという噂を耳にしたことがあるものの、本当かどうか分からない。のこのこ訪ねていって、捕縛されてしまったら万事休すである。
(いずれにしても、
死ぬ前にひと目でもいいから妻子や老母に会っておきたいという私心も混ざってはいたが――胡母班はそう決断した。関東の諸将の軍が行き交う危険地帯を慎重に進み、時には一か所に二、三日隠れるなどして、十数日かけて兗州泰山郡にたどり着いた。
だが、彼の旅は、そこで唐突に幕切れとなったのである。
彼は、故郷の土を踏んですぐに王匡の軍勢に取り囲まれ、拘束されてしまったのだ。
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