面影
「調理道具はもう荷台に積んでしまったので、こんなものしか出せません。ごめんなさい」
そう言って、残り物の
(十二歳にしてはずいぶんと背が高い男の子だ。しばらく会えていないが、俺の六男と七男は体格に恵まれておらぬゆえ、この少年ほどは成長しておらぬであろうな。
……しかし、不思議だ。ふたりの息子と似たところが全くないこの子に、なぜだか妙な懐かしさを覚えてしまう。この感覚の正体は何であろうか)
胡母班はそう自問自答しながら、たくましい肉体を持った司馬懿少年をしばし見つめていたが、すぐにその疑問は氷解した。
(ああ……そうか。十年前に逝った俺の長男だ。この子は、早熟な
無言で胡餅をつかみ、怒ったような表情で口に運ぶ。むろん、本当に機嫌を害しているわけではない。司馬懿が、あまりにも亡き長男と体つきが似ていたため、感傷的な
「何か……悲しいことでもあったのですか?」
よく人を観察する子らしい。司馬懿は、黙り込んで食事をしている胡母班を怒っているとは解釈せず、心配そうな顔でそうたずねてきた。
「ああ、あったよ。まさか、こんなところで亡き我が子と再会するとは、夢にも思わなかった。もしかしたら、俺はこの任務で死ぬのかも知れない」
危うくそう口走りかけたが、グッと言葉を呑み込み、「そなたは賢い子だ。何もかも見通す目を持っている。俺はそんなに悲しそうに見えるかな?」と言って微笑みかけた。
「胡母班様の目には、何と言うか……夜の暗い海へ堕ちてしまい、
夜の海に堕ちた星――独特な感性の持ち主なのか、不思議な表現を使う子である。だが、(たしかにそうだ)と胡母班は妙に納得してもいた。
若いころの胡母班は、清流派の名士たちに
だからこそ、十年前のあの日、
だが、いまの胡母班は己の無力さを痛感している。誤った判断で我が子たちを何人も死なせ、相次ぐ戦乱と政変でたくさんの人命が失われていくなか何もできず、世を覆う黒雲を消し去る力など自分は持ち合わせてはいないことを思い知った。
徐々に自信を削ぎ取られ、希望という名の大空から放り捨てられ、深い海底へと墜落してしまった星――人はそれを敗残者と呼ぶ。乱れた世はそんな敗残者を大量に生産する。未来に光を見たくても、失望の海に呑まれ、暗闇から浮上できない。胡母班もそんな大人のひとりなのだ。まだ希望を友としている子供に指摘され、はじめて明確な自覚を持った。
(無益な戦を止められる可能性が少しでもあるのならば、幼い帝のためにこの身を死地に置くことなど
胡母班は、
しかし……である。この少年は、ひとつ聞き捨てならぬことも言っていた。新しい太守のせいで河内郡の民が苦しんでいる、と。
新しい太守とは、
「河内太守の政治は、そんなにひどいのか?」
「ひどいです。独り善がりで、強欲。
案の定、司馬懿は膝をすすめて、幼い正義感から王匡をこきおろし始めた。
「あの太守は、銭や食糧の勘定が苦手なのでしょうね。打倒董卓の
「な、なにっ。それは……略奪に等しい行為ではないか」
胡母班は、
「そうです。あんなの略奪です。ここ
「…………」
胡母班は、呼吸がだんだん苦しくなるのを感じた。
義兄ほど立派な義人はいない。この世にどれだけ失望させられることがあったとしても、それだけはたしかな事実である――そう固く信じてきた。しかし、その信頼すら儚い幻想だったのではないか、という疑念がこのとき初めて生まれた。
(義兄は、そんな人ではない。なかったはず……。だが、この利口な子供が嘘をついているとも思えない。ならば、我々が離れている間に、義兄に変化があったのか?)
王匡は、自分のせいで死んでいった子供たちへの罪の意識から心を病んでしまった胡母班に寄り添い、冥界における己の行動を悔やみ続ける義弟の愚痴をずっと聞いてくれた。
親戚たちが「この世とあの世を行き来しただと? 子を一度にたくさん失って、頭がおかしくなったか」と言って眉をひそめると、「俺は義弟を信じる」と必ず味方してくれた。傷ついたひとを捨て置けず、何が何でも助けてやりたいと思う、熱い心を持った人だったのである。それが、なぜ――。
しかも、である。よりにもよって長男の面影を宿した子供に、信頼する義兄の異変を告げられた。この運命には、いったい何の意味があるというのだろうか? 何の意味もないのだとしたら、神はあまりにも気まぐれで、意地が悪すぎる。
(くそっ。また、あの笑い声が……手を叩く音が聞こえる。ええい、黙れ。うるさいぞ、泰山府君。
胡母班は、半分まで食べた胡餅を手に持ったまま、首を激しく振った。
「あの……何か気に障ることを言ってしまいましたか?」
聡明な司馬懿は、自分の発言で父の知人が動揺していることにすぐ気づき、恐るおそるそうたずねた。
胡母班は「いや……」と絞り出すような声で何とか否定し、胡餅を食べきると、
「そなたが悪いわけではない。俺はァ、そういう理不尽な話を聞くと無性に腹が立つたちでね。昔、冥府に下ったおり、色々とひどい目にあったものだからさ」
と、ややわざとらしく笑い、そんなことを言った。故意に、話題を王匡の悪政から子供が好きそうな怪談へと、ずらしている。
どれだけ世の中に絶望しようが、胡母班という男は生来、無邪気。王匡をまだ信じたいという気持ちがあった。義兄がいかに変貌しても、共に天下を正すと誓い合った俺まで拒絶することはあるまい。俺が泰山郡まで行き、叱ってやって、もとの義兄に戻してやればいいことだ、と前向きに考えることにした。その無邪気さが、胡母班の美徳であり、弱さであり、哀しさと言えた。
「め、冥府……? 胡母班様はあの世へ行ったことがあるのですか?」
司馬懿が、珍しく年相応な反応を示し、興味と恐れがないまぜになった目でたずねる。なかなか好奇心の強い子供らしい。
「おう。あれは十年前であった。ある日、
男は俺を呼び止め、『泰山府君がお呼びです』と言う。泰山府君といえば、人の生死を管理する泰山の神だ。驚いた俺がうんともすんとも返事できずにいると、もうひとり兵卒が闇から浮き出てきて、『
ビクビクしているのは自分らしくないと考えた俺は、目を
ずいぶんと顔色が悪い男だったよ、泰山府君という神は。ここのところ世が乱れて死者が多いせいで、仕事が増えて疲れているとか愚痴を漏らしていたなぁ」
「ま……ま、ま、待ってください。
司馬懿は、慌てて両耳を手で塞いだ。さすがは名士司馬家の子息というべきか、教育がしっかりしている。
しかし、そのキラキラと好奇心で輝く双眸を見ると、本心は聞きたくてうずうずしているのが丸分かりだった。可愛く思い、胡母班はフフッと笑った。
「少年。そうは言うが、孔子は
「は、はぁ……」
やはり、司馬懿は冥府の話を聞きたかったらしい。大人の胡母班がいいと言っていることにあえて逆らうようなことはせず、話を聞く姿勢になった。
「それで、だ。泰山府君は、豪勢な食事を振る舞った後、俺に頼み事があると切り出してきた。我が
地上に戻された俺は黄河へ向かい、泰山府君に教えられた通り、黄河の中ほどまで漕ぎ出し、そこで舟端を叩いてみた。すると、なんと、水上に見目麗しい宮女が姿を現したではないか。彼女は、また俺に目を瞑れと言う。素直に従って、次に目を開けた時には、俺は河伯の宮殿の中にいた。河伯は俺のために酒宴を開いてくれて……」
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