面影

「調理道具はもう荷台に積んでしまったので、こんなものしか出せません。ごめんなさい」


 そう言って、残り物の胡餅こへいうりを部屋に持って来てくれたのは、司馬懿しばいという少年だった。司馬防しばぼうの次男で、十二歳だという。故郷に残している胡母班のふたりの息子と同年代だった。


(十二歳にしてはずいぶんと背が高い男の子だ。しばらく会えていないが、俺の六男と七男は体格に恵まれておらぬゆえ、この少年ほどは成長しておらぬであろうな。

 ……しかし、不思議だ。ふたりの息子と似たところが全くないこの子に、なぜだか妙な懐かしさを覚えてしまう。この感覚の正体は何であろうか)


 胡母班はそう自問自答しながら、たくましい肉体を持った司馬懿少年をしばし見つめていたが、すぐにその疑問は氷解した。


(ああ……そうか。十年前に逝った俺の長男だ。この子は、早熟な体躯たいくをしていた長男と背格好がそっくりなのだ。あいつは十二歳で――ちょうど司馬懿少年と同じ年で死んだのであった。いま生きていたら二十二……か)


 死児しじよわいを数えることほど、親にとってやりきれぬ悲しみはない。不意打ちの哀傷に胸を刺された胡母班は、切なさのあまり言葉に詰まってしまった。「これだけの食事をもらえたら十分だ」と答える余裕すらなくなっていた。


 無言で胡餅をつかみ、怒ったような表情で口に運ぶ。むろん、本当に機嫌を害しているわけではない。司馬懿が、あまりにも亡き長男と体つきが似ていたため、感傷的な世迷言よまいごとをベラベラしゃべってこの少年を困惑させてはいけないと思い、恐い顔で黙っているのだった。


「何か……悲しいことでもあったのですか?」


 よく人を観察する子らしい。司馬懿は、黙り込んで食事をしている胡母班を怒っているとは解釈せず、心配そうな顔でそうたずねてきた。


「ああ、あったよ。まさか、こんなところで亡き我が子と再会するとは、夢にも思わなかった。もしかしたら、俺はこの任務で死ぬのかも知れない」


 危うくそう口走りかけたが、グッと言葉を呑み込み、「そなたは賢い子だ。何もかも見通す目を持っている。俺はそんなに悲しそうに見えるかな?」と言って微笑みかけた。


「胡母班様の目には、何と言うか……夜の暗い海へ堕ちてしまい、海底うなぞこで哀しげにまたたいている星のような、そんなはかない輝きを感じます。河内郡かだいぐんで暮らす大人たちも、新しい太守のせいで、そんな目をしているから分かるのです」


 夜の海に堕ちた星――独特な感性の持ち主なのか、不思議な表現を使う子である。だが、(たしかにそうだ)と胡母班は妙に納得してもいた。


 若いころの胡母班は、清流派の名士たちに八廚はっちゅうたたえられて得意絶頂、「己の侠気きょうきは、乱世の暗雲を払う星となる」とすら自負していた。


 だからこそ、十年前のあの日、泰山たいざんふもとで遭遇した男たちによって冥界の宮殿へ連れられ、冥府の神の泰山府君たいざんふくんと出会った際も、泰山府君の頼み事を物怖じせず引き受けて、しかもその後しばらく交流を持ったのである。ある大それた要求を泰山府君にしたことさえあった。自分はそれだけ特別であり、前途は明るいと無邪気に信じていた。若かったのである。


 だが、いまの胡母班は己の無力さを痛感している。誤った判断で我が子たちを何人も死なせ、相次ぐ戦乱と政変でたくさんの人命が失われていくなか何もできず、世を覆う黒雲を消し去る力など自分は持ち合わせてはいないことを思い知った。董卓とうたく袁紹えんしょうなどといった怪物や名族の前では、胡母班などは塵芥ちりあくたに過ぎないのである。彼らが皇帝を軽んじ、権力を私物化して、無益な殺戮さつりくを行っても、止める手立てを持たないのだ。


 徐々に自信を削ぎ取られ、希望という名の大空から放り捨てられ、深い海底へと墜落してしまった星――人はそれを敗残者と呼ぶ。乱れた世はそんな敗残者を大量に生産する。未来に光を見たくても、失望の海に呑まれ、暗闇から浮上できない。胡母班もそんな大人のひとりなのだ。まだ希望を友としている子供に指摘され、はじめて明確な自覚を持った。


(無益な戦を止められる可能性が少しでもあるのならば、幼い帝のためにこの身を死地に置くことなどいとわない、と蔡邕さいよう殿に俺は豪語したが――どうやら心の奥底では、結局は何も変えられずに犬死するのがオチだ、と半ばあきらめていたのやも知れぬ。そんな心積もりでいたゆえ、袁紹の武将ごときに命をとられかけたのだ。司馬懿という少年に目を覚まさせられたな)


 胡母班は、たかのように強い光を放つ司馬懿の双眸そうぼうに、神妙なる力を感じた。


 しかし……である。この少年は、ひとつ聞き捨てならぬことも言っていた。新しい太守のせいで河内郡の民が苦しんでいる、と。


 新しい太守とは、王匡おうきょうのことである。胡母班も、すれ違う里人たちの顔が暗いことを察し、いぶかしく思っていたが、まさかあの義兄に限って……と思考をそこで止めてしまっていた。司馬朗しばろうは、王匡と胡母班の姻族いんぞく関係を知っているため、遠慮して何も言わなかったようだが、まだ子供の司馬懿ならば、差し障りのあることでも正直に教えてくれるに違いない。


「河内太守の政治は、そんなにひどいのか?」


「ひどいです。独り善がりで、強欲。厚顔無恥こうがんむち義侠ぎきょうの人と聞いていましたが、噂なんてあてにならないものです」


 案の定、司馬懿は膝をすすめて、幼い正義感から王匡をこきおろし始めた。


「あの太守は、銭や食糧の勘定が苦手なのでしょうね。打倒董卓の大旆たいはいを掲げて挙兵してすぐに、軍資金不足、兵糧不足に陥ったようです。だから、各県に自分の書生を派遣し、官民の罪過を密かに探らせ始めました。ほんの些細ささいな過ちであっても厳しくとがめ、金銭と食糧で罪をあがなわせたのです。すぐに支払わなければ、問答無用で一族皆殺し。慈悲の欠片かけらもありません」


「な、なにっ。それは……略奪に等しい行為ではないか」


 胡母班は、うめくように言った。予想を遥かに上回る悪政である。里人がおびえた目で胡母班を見ていたのは、太守の密偵ではないかと、恐らく疑っていたのだろう。


「そうです。あんなの略奪です。ここ温県おんけんには、常林じょうりんという立派な学者さんがいるのですが、その人の叔父がある日、食客を鞭で叩いてしまいました。すると、すぐに密告され、叔父は投獄。常林殿は貧乏で、自ら耕作して妻と細々暮らしているような人だったので、『とんでもない額の金銭を要求されてしまったら、叔父と一族の命を救えない』と憂慮しました。そこで、たまたま河内郡に来ていた太守の同郷人に取りなしを頼み、ようやく叔父を解放してもらったそうです。こんなのはもう、政治とは言えません」


「…………」


 胡母班は、呼吸がだんだん苦しくなるのを感じた。


 義兄ほど立派な義人はいない。この世にどれだけ失望させられることがあったとしても、それだけはたしかな事実である――そう固く信じてきた。しかし、その信頼すら儚い幻想だったのではないか、という疑念がこのとき初めて生まれた。


(義兄は、そんな人ではない。なかったはず……。だが、この利口な子供が嘘をついているとも思えない。ならば、我々が離れている間に、義兄に変化があったのか?)


 王匡は、自分のせいで死んでいった子供たちへの罪の意識から心を病んでしまった胡母班に寄り添い、冥界における己の行動を悔やみ続ける義弟の愚痴をずっと聞いてくれた。

 親戚たちが「この世とあの世を行き来しただと? 子を一度にたくさん失って、頭がおかしくなったか」と言って眉をひそめると、「俺は義弟を信じる」と必ず味方してくれた。傷ついたひとを捨て置けず、何が何でも助けてやりたいと思う、熱い心を持った人だったのである。それが、なぜ――。


 しかも、である。よりにもよって長男の面影を宿した子供に、信頼する義兄の異変を告げられた。この運命には、いったい何の意味があるというのだろうか? 何の意味もないのだとしたら、神はあまりにも気まぐれで、意地が悪すぎる。


(くそっ。また、あの笑い声が……手を叩く音が聞こえる。ええい、黙れ。うるさいぞ、泰山府君。嘲笑あざわらうにはまだ早い。義兄にも、何か深い事情があったのやも知れぬ。義侠心を完全に失っているかは、会ってみてこの目で確かめねば分からぬことだ)


 胡母班は、半分まで食べた胡餅を手に持ったまま、首を激しく振った。


「あの……何か気に障ることを言ってしまいましたか?」


 聡明な司馬懿は、自分の発言で父の知人が動揺していることにすぐ気づき、恐るおそるそうたずねた。


 胡母班は「いや……」と絞り出すような声で何とか否定し、胡餅を食べきると、


「そなたが悪いわけではない。俺はァ、そういう理不尽な話を聞くと無性に腹が立つたちでね。昔、冥府に下ったおり、色々とひどい目にあったものだからさ」


 と、ややわざとらしく笑い、そんなことを言った。故意に、話題を王匡の悪政から子供が好きそうな怪談へと、ずらしている。


 どれだけ世の中に絶望しようが、胡母班という男は生来、無邪気。王匡をまだ信じたいという気持ちがあった。義兄がいかに変貌しても、共に天下を正すと誓い合った俺まで拒絶することはあるまい。俺が泰山郡まで行き、叱ってやって、もとの義兄に戻してやればいいことだ、と前向きに考えることにした。その無邪気さが、胡母班の美徳であり、弱さであり、哀しさと言えた。


「め、冥府……? 胡母班様はあの世へ行ったことがあるのですか?」


 司馬懿が、珍しく年相応な反応を示し、興味と恐れがないまぜになった目でたずねる。なかなか好奇心の強い子供らしい。


「おう。あれは十年前であった。ある日、鬱蒼うっそうと草木が茂る泰山の麓を通りかかると、下闇したやみから赤い服を着た兵卒がぬっと浮き出てきたのだ。

 男は俺を呼び止め、『泰山府君がお呼びです』と言う。泰山府君といえば、人の生死を管理する泰山の神だ。驚いた俺がうんともすんとも返事できずにいると、もうひとり兵卒が闇から浮き出てきて、『く冥府に参られるべし』と急かす。

 ビクビクしているのは自分らしくないと考えた俺は、目をつぶれという男たちの指示に従って、ついて行った。もう目を開けてもいいと言われた時には、荘厳な宮殿がそびえる場所に立っていた。

 ずいぶんと顔色が悪い男だったよ、泰山府君という神は。ここのところ世が乱れて死者が多いせいで、仕事が増えて疲れているとか愚痴を漏らしていたなぁ」


「ま……ま、ま、待ってください。孔子こうし曰く、怪力乱神かいりょくらんしんを語らず。怪異のたぐいは軽々しく口にしてはいけない、と儒学はいさめています。やめておきましょう」


 司馬懿は、慌てて両耳を手で塞いだ。さすがは名士司馬家の子息というべきか、教育がしっかりしている。


 しかし、そのキラキラと好奇心で輝く双眸を見ると、本心は聞きたくてうずうずしているのが丸分かりだった。可愛く思い、胡母班はフフッと笑った。


「少年。そうは言うが、孔子は鬼物奇怪きぶつきっかいの事に詳しかったそうだぜ。『怪力乱神を語らず』とは、分かってもいないことをベラベラ語るな、言葉は慎重に使え、というていどの意味だと俺は理解している。だから、実際に体験した怪異ぐらいは語ってもいいはずさ」


「は、はぁ……」


 やはり、司馬懿は冥府の話を聞きたかったらしい。大人の胡母班がいいと言っていることにあえて逆らうようなことはせず、話を聞く姿勢になった。


「それで、だ。泰山府君は、豪勢な食事を振る舞った後、俺に頼み事があると切り出してきた。我が娘婿むすめむこ河伯かはく――黄河の神に手紙を届けて欲しい、という。面白い冒険ができそうだと思った俺は快諾した。

 地上に戻された俺は黄河へ向かい、泰山府君に教えられた通り、黄河の中ほどまで漕ぎ出し、そこで舟端を叩いてみた。すると、なんと、水上に見目麗しい宮女が姿を現したではないか。彼女は、また俺に目を瞑れと言う。素直に従って、次に目を開けた時には、俺は河伯の宮殿の中にいた。河伯は俺のために酒宴を開いてくれて……」

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