救済

 冥吏めいりが去って間もなく、「季皮きひ! 季皮よ!」と胡母班こぼはんあざなを連呼する声が地下牢獄に響いた。捕虜の様子がおかしいとの急報を牢番たちから受け、王匡おうきょうが駆けつけたのである。


「狂したか、季皮。しっかりせい」


 牢内の義弟に呼びかけるその声は震えていた。悲痛な響きさえこもっている。


 胡母班が物憂そうに顔を上げると、意外なことにも、王匡の双眸そうぼうは涙で濡れていた。


 この男は、盟主袁紹えんしょうの命に従って妹婿いもうとむこを捕縛したものの、殺す決断までは下せず、答えを先延ばしにするため何日も牢に閉じ込めていたのである。


 しかし、過酷な獄中生活の末に胡母班は発狂してしまった――と、王匡は牢番の報告によって誤解した。それゆえに、


(理性があるうちに堂々たる最期を遂げさせてやればよかった。むごいことをした)


 などと後悔して、泣いているのであった。


 義兄の涙を見た胡母班も、付き合いが長いだけにその葛藤を敏感に察し、(この男にも、ひとのために泣くというやさしさがまだあったのか)と、思わぬ発見に不覚にも涙ぐみそうになった。


 だが――冥吏によると、胡母班の死は明日の昼と決まっている。王匡は今日か明日のうちに義弟を処刑する決断を下すのである。結局のところ、偽善者である袁紹の言いなりとなって、義の道を踏み外すのだ。


 胡母班は、感傷的になりかけた心を打ち消し、「俺が狂っているだと? 馬鹿を言え。狂人は義兄、あんたのほうだろう」と突き放すように言った。


 王匡は、狂ったとばかり思っていた妹婿のつるぎの切っ先のごとく冷厳れいげんな声に驚きつつも、「こ……このわしが狂人じゃと?」と気色けしきばんだ。


「おうよ。あんたは、董卓とうたくに対する憎悪から、この俺を残虐にも殺そうとしている。だが、よく聞け。俺は董卓の家来でも親戚でもない。『関東の諸将はほこを収めるべし』との勅命ちょくめいを託された、れっきとした勅使ちょくしだ。その俺に恥辱を与え、投獄し、血祭りに上げんとする義兄の行いは、悖逆はいぎゃく無道むどうの極み。これを狂人と言わずして何とする」


「無礼なッ。儂は一度たりとも正道から外れたことはないッ。お前を含めた五人の使者を残らず殺せと命じたのは、連合軍の盟主たる袁紹殿だ。袁紹殿には、都に攻め上って逆賊董卓を討つという大義がある。先日の戦で大敗した儂に軍需物資を支援してくれたのも袁紹殿……。あの御仁ごじんが掲げる正義の旗の下にある限り、儂は正しき道を進んでいられるのじゃ」


「それが間違っているというのだ。『漢書かんじょ』の賈誼かぎ伝に曰く――ねずみに投げんとしてうつわを忌む。鼠に物を投げつける時でさえ、そばにある器物の破損を恐れるもの。ましてや、十歳の帝は、董卓という大鼠とともに宮廷にある。玉体の安全を思えば、董卓がいくら憎くても、軽々しく京師けいしに攻め込むような真似はできぬはずだ。しかし、袁紹はあんたたち関東の諸将を利用して、それをやろうとしている。大鼠退治のついでに尊き器をも破壊し、自分好みの新たな器を玉座に置こうとしているのだ。それがなぜ分からぬ」


「え、袁紹殿は我が恩人じゃ。政治経験のない儂に、まつりごとの何たるかを教えてくれた。かの御仁の悪口を言うな」


 ずいぶんと袁紹に心服しているものである。王匡は人に恩を感じやすい傾向が昔からあったが、ここまで卑屈な姿勢でひとに仕えるような男ではなかった。河内かだい太守になって早々、足場固めもろくにできぬ時期に反董卓の戦が始まり、勢い込んで諸将の先頭を切って出陣したものの、董卓軍に惨敗ざんぱいしてしまった。その手痛い挫折ざせつが、この義侠ぎきょうの男の誇りを粉々こなごなに打ち砕いたのかも知れない。大きな樹に寄りかからねば、領主としてやっていける自信がなくなったのである。そして、その大樹というのが袁紹というわけだった。


 ちゃんちゃらおかしい話だ、と胡母班は思い、「政だと?」と鼻で笑った。


「領民から金銭を巻き上げる、あのせこいやり口が、義兄の政なのか」


「袁紹殿が教えてくれた。『民』という字の意は、目を潰された奴隷、だという。民衆というものは、愚かで、何も見えていない。それゆえ、我ら君主が教え導き、逆らえぬように財を奪ってほどほどに弱らせ、領主の威厳を保つ必要があるのだ」


「ハハハハハ! 笑止千万! 何たる偽善! 何も見えていないのは……志を見失い、己の権威を保つため富の収奪をする為政者いせいしゃとなった、あんたのほうではないか!」


 失望。かつてない、巨大なる失望。


 為政者としての王匡は、すでに袁紹によってげられてしまった。もはや救いようがない。しょせん義兄は君主となる器ではなかったのだ、と胡母班は哀しく思った。狂ったように笑いながらも、両眼からはとめどなく涙がこぼれ出た。


 そして、激情の嵐がやがておさまると、心には虚しさだけが残った。


「…………残念だよ。まことに残念だ」


 笑い止み、力なくそう呟いた胡母班は、傷付いた少年のようなまなざしで王匡を正視しながら静かに語りだした。


「昔は同じ義侠の道を歩んでいたが、統治者になったあんたは民から収奪することを覚えてしまった。完全に道をたがえてしまった。住む世界が分かれた生者と死者のごとく、いまの俺たちは価値観がぜんぜん違う。近づくべきではなかった……。今もなお一心同体であると信じて、不倶戴天ふぐたいてんの敵となっていたあんたのふところに飛び込んだのが間違えだった。

 俺はァ……ここまで堕ちているとは思いたくなかったんだよ。あんたは俺の義兄であり、生き方の見本だったから。あんたが義の道から外れる時は世の終わりが来る時だと思っていたが、馬鹿を見た。あんたを信じた結果、我が身の終わりが来ちまった。本当に愚かさ、胡母班という男は」


「き、季皮……」


 さすがの王匡も、胡母班の愛憎ないまぜとなった嘆きの言葉が、心奥しんおうみたのであろう。激しく顔を歪めるや、再び涙を流し始め、がくりと膝をついた。そして、苦悶に満ちた声で切々と、己の本心を吐露しだした。


「そ……そうだ。愚かなのはお前のほうだ。儂とて殺しとうはない……殺しとうはなかったのだ。頼むから儂のところへ来てくれるなとずっと願っていた。それなのに、お前は儂を信じて……袁紹殿の犬になり下がった儂を信じて……ここへ来てしまった……。お前は間違えたのだ」


「…………」


 胡母班は、嗚咽おえつする王匡をみつめながら、義兄は昔からひとにやさしく、誰かのためによく泣く男であったことを、ふと思い出していた。


 そのやさしさの大半が今や失われてしまっていることへの哀しみ。

 それでもまだごくわずかには残っていることへの安堵。

 さらには、久しぶりに見た義兄の男泣きによって、俺は懐かしき故郷に帰って来たのだとようやく実感できたことへの喜び……。

 矛盾する様々な想いを、同時に感じていた。


 そして、明日の昼には自分を殺すこの男を、許す気になっていた。「殺したくはない」という本音を聞けて、意外なほど心の救いになっていたのである。好きな人間を、どうしても嫌いきれないのが、胡母班だった。


「そう……あんたを信じたのが大きな間違えだった。義兄に俺を殺す道を選ばさせてしまったのだからな。悪かったよ、許してくれ。

 ……だが、義兄よ。心のどこかでこうなることを予感していながらもここに来てしまったのは、俺らしいとは思わないか? 俺はァ、ひとを無邪気に信じてしまう。どれだけ世の中に失望していても、この世にはまだまだひとの善なる心が残っていると……深い絶望の海に堕ちた星であっても、いつかは夜空に還って光り輝けると……そう願ってやまない。

 愚かな悪癖だ。しかし、愚かだが、その愚かさがなければ、俺ではない。運命だったのだろう、最後の最後まで義兄を信じてしまったのは。

 ……いや……まだ……この期に及んで、いまでも信じているんだ。あなたには、良心がまだ残っていると。

 その幻想の良心を信じ、最後の願いを託す。どうか処刑後、変わり果てた父親のしかばねを、俺の子供たちに見せないでもらいたい。あのふたりは、あなたの甥でもあるのだから」




 翌日の昼――胡母班は、刑場に引きずり出された。


 ちょっと待ってくれ、と彼は死刑執行人に声をかけると、一朶いちだの雲すらない蒼穹そうきゅうの下で悠然とそびえている泰山たいざんを睨みながら、ペッと盛大につばを吐いた。


 そして、王匡にニヤリと笑いかけた後、静かに首をねられたのである。


 胡母班の妻子が刑場に姿を現したのは、斬首直後のことだった。刑が今日執行されるという噂を聞きつけ、慌てて駆けつけたのだ。


 すでに遅かったことを悟った妻はその場にへたりこみ、ふたりの息子は魂を失った父のむくろに走り寄ろうとした。


「見るでない!」


 王匡は、悲痛な声で、そう叫んだ。


 そして、覆い被さるように甥たちを抱き締めるのであった――。

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