旅立
翌日。
退出した胡母班たちが、重々しい表情で
「方々、帝が――」
そう注意を
王允は、表面上は董卓に従いつつも、裏では袁紹や曹操ら関東の諸将と密かに連絡を取り、さらには董卓暗殺計画を自ら練っているという。そんな恐るべき噂を、首都を警備する
王允は、
胡母班の想像はほぼ当たっており、王允に何かしら厳しい言葉を浴びせられたらしい蔡邕の顔色はすこぶる悪かった。だが、殿上へと眼差しを向けているその瞳だけは、蒼天を仰ぎ見るかのごとく輝いている。まさかと思った胡母班たちが振り返ると、殿上には玉衣を
「
韓融が、真っ白な口髭を涙で濡らし、その場に
帝は、しばしのあいだ、名残惜しそうに五人を見つめていたが、やがて殿内にさがっていった。
そして、
いずれも朝廷に欠かせぬ
少年の帝にしてみれば、自分を守ってくれていた大人たちが――しかも五人も一度に――今日死出の旅路につこうとしているのである。悲しくないはずがあろうか。寂しくないはずがあろうか。
(あんな目で見送られてしまったら……)
あの世へと去りゆく者を、ただ指をくわえて見送ることしかできない。その絶望と無力感。
胡母班は、これまでの人生に、それを嫌というほど味わってきた。幼い帝とて同じである。十歳ですでに父母なく、養育してくれた祖母を失い、異母兄も毒殺されたのだ。
理不尽な運命、近しい者の死。それは、時に人を強くすることもあるだろう。しかし、往々にして心が歪む原因ともなる。実際、俺は病んでいる、という自覚が胡母班にはあった。十年前のあの一件以来、神の悪戯としか思えぬ人間の不幸と遭遇するたび、あの時あの場所で聞いた雷鳴のごとき笑い声、手を叩く不快な音が、耳の中で蘇るのだ。現にいまも、その幻聴は彼の
――政治は腐り、群雄は勝手気ままに
世を覆う理不尽に対する怒りから、胡母班はそんな悲壮な決意を抱き、今日まで生きてきた。それゆえ、今回の命がけの任務にも、己の生死に対してさほどの葛藤は抱いていないつもりであった。
だが、しかし――帝の涙を見たいま、思わぬ迷いが生じつつある。
終わりなく続く身近な人々の死は、幼い帝の心を
「それにしても、
皆がそれぞれに帝を想い、しばしのあいだ無言の時間が流れていたが、その沈黙を
「我らが首を
在京の名士の体のいい排除――そういう意図は大いにあるに違いない。
特に、
董卓とて当初は、徳望ある名士らを取り込み、自らの政権に正統性を持たせる努力をしてはいた。蔡邕のような
しかし、董卓が任命した刺史や太守の多くが反董卓連合軍に加盟するという誤算が生じ、さらには長安遷都の直前、信任していた在京の名士の中に連合軍の内通者がいるという疑惑が生じた。
いまの董卓は、漢を支えてきた名士の扱いに困り、また裏切られるのではないかと疑心暗鬼に陥っている。のちのち自分に逆らいそうな気骨ある漢の忠臣を上手に取り除くすべを李儒に吹き込まれ、こたびの仕儀に至ったのだとしても不思議ではない。
「いや、それだけではないな。これは
呉脩の言葉を受け、
「叔父を処断された私怨を晴らすべく、袁紹殿が我ら漢の忠臣を殺せば、
「しかし――帝をお守りしている我らとしても、和平が成立するのは悪くはない。違いますかな?」
胡母班がそう言うと、陰脩はニッと笑って「だから、行くんじゃよ。董卓に尻尾を振るふりをして、な」と答えた。
「方々ッ。こんなところで立ち話など無用、無用ッ。今すぐ出発しましょうぞ。董卓が我らを和平の使者に立てたことを袁紹が察知する前に、一人でも多く関東の諸将と接触せねば」
根っからの短気者である王瓌は、日ごろ越人の兵を叱り飛ばしているような
「やれやれ。相変わらずのせっかちじゃのぉ。……蔡邕殿、帝のことをよろしく頼みましたぞ」
韓融が、年老いた犬のような穏やかな眼差しを向けて蔡邕にそう言うと、博学の大儒は暗い顔で「私は恥ずかしい……」と呟いた。
「方々が漢王室の未来のために覚悟を決めておられるのに、私は胡母班殿に逃げるよう勧めてしまった。そして、そんな臆病者の私が、こうしておめおめと都にとどまるとは……」
「いや、それは違いますぞ、蔡邕殿。昨日はいきなり『逃げろ』と言われてムッとしてしまったが、たしかに命は大事だ。命があるからこそ何事かを成せる。死んでは元も子もない。それは道理中の道理。俺が命知らずの愚か者なだけのこと。この胡母班、友として我が命の心配をしてくれた蔡邕殿の仁愛の心を生涯忘れぬ所存です」
これが
だが、生真面目で一度沈んだらなかなか気を取り直すことができぬたちの蔡邕は、しきりに嘆息している。
胡母班は、二十も年上の友人に対して非礼かな、と少し
「そんな顔をしないでください。なるべく生還を目指しますから。しかし、いかなる結果に終わろうとも、さほど恐れる必要はないと俺は考えているのです。我らの志は、蔡邕殿が知ってくれている。貴方が編纂している史書に、我ら五人の漢への忠誠を
「……あい分かった。必ず記す。だが、無事に帰還してくれたほうが、貴殿たちの列伝を詳細に書きやすい。私のためにも、良い結果とともに帰って来てくだされ」
「アッハッハッハッ。なるほど。たしかに取材相手が生きていたほうが、歴史家は助かるな。承知した。長安に戻ったら、我らの活躍を事細かに語りましょう。なぁに、俺は冥府の神の手紙を黄河の神に届けたことがある男だ。手紙のひとつやふたつ、敵地に届けるなど朝飯前というものですよ。ハハハハハハ」
蔡邕との別れに感極まったのか、胡母班は両目に薄っすらと涙を浮かべながら、冗談交じりにそう言った。
胡母班本人が、
――もしも無事に戻ることができず、俺の列伝が寂しい文字数になってしまったら困りますからな。その場合は、貴方も知っているはずの、俺の奇妙な体験でも書いておいてくだされ。あれは
と、暗に伝えたつもりなのかも知れなかった。
蔡邕は、微笑みながら
(冥府帰りの胡母班は、再び冥府へと旅立ち……二度と帰らぬのでは?)
蔡邕は、言い知れぬ不安にかられるのであった。
『
しかし、彼らが反董卓連合軍の諸将の誰とまず接触しようとしたか分かっているのは、胡母班のみである。記録によっては、使者となった者の名や人数にすら異同がある。
彼らの行動が
この二年後、董卓暗殺事件が起きると、
(この人の悪政を私は最後まで正せなかったか――)
と悔やんだ蔡邕は、不覚にも涙してしまった。そして、それを
「死罪を免じ、私に史書の編纂を続けさせて欲しい」
彼はそう強く懇願したが、王允は許さず、後漢末の偉大な学者は処断されたのである。
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