使命
話は、約一か月前まで
「蔡邕殿、お待たせいたした。宮城の外を巡視していたゆえ、帰りが遅れたのだ」
居室で
「……執金吾は、月に三度、宮城の外を巡視するのが定め。しかし、今月の巡視はすでに十度目じゃ。貴殿はいま、そんなことをやっている場合ではなかろう」
蔡邕は、ゆっくりと
胡母班は、(あの噂を知ったか)と察しつつも、「非常事態の発生を防ぐことも、執金吾の役目ですからな」と、とぼけた。
「長安遷都の混乱で物情騒然としているおりなので、巡回の数を増やしているのですよ。幼き帝の安全を守るため必要な――」
「その前に、貴殿の身の安全を守るべきであろう。忠義を尽くそうにも、死んでは元も子もない」
蔡邕は、温厚な彼にしては珍しく鋭い語気で、胡母班の言葉を
「宮廷内で漏れ聞いた話によれば――
「いや、俺も昨日知りました。他にも、
「何をひとごとのように……。董相国の使者として関東へ赴けば、きっとただではすまぬぞ。相国は先日、
「なるほど。たしかに、危険極まりない任務だ。しかし――
胡母班は、蔡邕に負けないぐらいの強い
「そもそも、主人の不吉を避ける霊鳥
董卓は、大将軍
それに対して袁紹ら諸将は、反董卓を唱え、
「董卓は、遷都後も洛陽郊外の
そう語る胡母班の表情は、だんだんと暗く沈んだものになっていた。
この
また、旧都洛陽から長安への強制移住の混乱の中で、両親とはぐれた庶民の子供たちが大勢いる。そんな子供らを保護しては、親を探してやり、見つからなければ、養子先や奉公先を探すなど、子供たちが奴隷市の商品にならぬよう腐心していた。胡母班が頻繁に巡回へ出ている理由のひとつには、こういった孤児救済事業を私費で行っていることもあげられた。
本人は「首都の治安維持のためだ」と言っているが、それだけではないことを蔡邕は知っている。出身の郡は違うものの、同じ兗州人のため、蔡邕は「冥府帰りの胡母班」の噂を聞いたことがあるからだ。
胡母班は十年前、大勢いた我が子を一年足らずの間にほとんど死なせてしまった。いま生きているのは、十二歳と十一歳の息子ふたりだけである。そのことと、彼が同じ時期に経験した奇妙なできごとには、深い関わりがあるという。その噂を知っていたからこそ、
「貴殿が言う後悔とは、弘農王を守れなかったことか? それとも、続々と死んでいく我が子を守れなかったことか?」
と、蔡邕は危うく訊きそうになってしまった。しかし、良識ある大儒は、
「貴殿の忠誠心は見上げたものだが……。さっきも言ったように、死んでしまっては元も子もない。首と胴が離れれば、漢に忠義を尽くすこともできぬのだぞ」
蔡邕は、やや間をおいてそう言い、逃げるよう再度すすめた。
「貴殿は幸い、妻子を故郷に残している。長安を脱出しても、家族が殺される心配はない。妻と子のもとへ帰り、泰山郡にて好機到来を待つがいい」
「好機到来というのは、袁紹が董卓を討つことですか? 悪いですが、俺はァ、あの人をいまいち信用できない。もちろん、反董卓連合軍の諸将の中には、
胡母班は、威風堂々たる袁紹の風貌を思い浮かべつつ、吐き捨てるように言った。
袁家は、四代にわたって三公を輩出した名族である。袁紹本人も、へりくだった態度で士人たちに接し、英雄の風格があったため、連合軍の盟主に
だが、胡母班は、あの男に
「袁紹は、偽善者なうえに心が狭い。董卓のやったことを全て否定したがっている。董卓が玉座に据えた今上帝の存在すら認めておらぬやも……。
万が一、袁紹の軍勢が長安に攻め込めば、玉体が安全かどうか怪しい。最悪、弘農王と同じように皇位と御命を奪われる恐れがある。蔡邕殿もそうは思われませんか?」
「そ、それは……」
「あの男の小さな器では、かつては志をともにした仲間の名士であっても、董卓の使者として姿を見せたら、けっして許さない。殺す可能性が高い。そう考えたゆえ、俺を止めているのでしょう? そんな狭量な男の憎しみが、董卓だけでなく、奴が即位させた今上帝にも向けられているとしたら――」
「…………」
蔡邕は沈黙した。胡母班の言わんとすることは分かる、と思ったからだ。
袁紹は思慮が浅い。いくら何進の仇であり、
「以前は袁紹殿に期待していたが……私もいまは失望しておる。それゆえ、彼が盟主をつとめる連合軍にも大きな望みは抱いておらぬ。むしろ、いらざる戦乱で村々が焼かれ、根無し草の民が増えるのではと案じている。尊皇の志ある関東の諸将は、できることなら宮廷に舞い戻って、我らとともに帝に近侍し、董相国の暴走を
名家に対する遠慮から袁紹への批判を避けていた蔡邕も、胡母班の率直な
胡母班はすかさず、「そう! 失望! 何進しかり! 董卓しかり! 袁紹しかり! 世を変えるだけの力を持っているはずなのに、その強大な力を己の野心のためにしか使わぬ! 奴らの体たらくには失望させられてばかりだ! こんなことだから乱世が終わらず、
「……だからこそ、この使者の役目には意味がある、と俺は思うのです。わずかばかりの可能性でも、俺が働くことによって、董卓――そして、その背後の帝に向けられた袁紹の怒りの刃をおさめさせることができるかも知れない。民衆を巻き込んだ危険な戦を止められるかも知れない。連合軍が解散してしまえば、袁紹ひとりでは戦えませんからな」
「だが……だが……あまりにも無謀な使命じゃ。私は貴殿を死なせとうない。貴殿の義兄の
「蔡邕殿の心遣いには感謝しています。ですが、帝をお守りするのが我が役目。少しでも可能性があるのならば、幼い帝のためにこの身を死地に置くことなど
「冥府――じゃと?」
縁起でもないことを、と言いかけて、蔡邕は押し黙った。
胡母班が、蔡邕の背後にある窓に視線を急に向け、
何者かが盗み聞きしているのか、と思って蔡邕は振り向いた。
だが、外には誰もいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます