冥府帰りの胡母班

青星明良

獄中

 中国で二番目に古い志怪オカルト小説集を『捜神記そうじんき』という。


 四百七十余の怪異譚かいいたんっており、曹操そうそう袁紹えんしょうなど後漢ごかん末から三国時代の人々も多く登場する。


 その中でも、冥界めいかいと関わりを持ったとされるのが、


 胡母班こぼはん


 という男である。


 彼は、史書によれば、初平しょへい元年(一九〇)に董卓とうたくの使者として関東に赴き、反董卓連合軍の武将によって捕縛された。




「本当に馬鹿な話さ」


 その男――胡母班が投獄されてから数日が経つ。


 彼は、暗い牢の中、何もない壁に微笑みかけ、さっきから延々と独り言を呟いていた。


「人生は後悔の連続だ。望んだ道からどんどん外れ、たいていの者は大事を為せずに死んでいく。この俺のようにな。まことに愚かなものだよ、人間というのは――」


 彼を監視している牢番ふたりは、気味悪そうに顔を見合わせていた。捕虜の頭がおかしくなったのでは、と疑っているのだ。


 しかし、冴え冴えとした星のまたたきを思わせるその眼光からは、死を恐れるものにありがちな動揺や狂乱は読み取れない。


 ならば、この男はいったい何のつもりで狂態を演じているのか……。


「断っておくが、後悔とは、董卓のために働いて殺されようとしていることではないぜ。俺が董卓のためではなく帝のために働いていたことは、蔡邕さいよう殿が知っている。あの御仁ごじんならば、我が真意を歴史書に必ずや書き残してくれよう。後世の人間に誤解されることはあるまい。

 俺が言う後悔は……自分の無邪気さだ。信じるべきではなかったのだ、あの人を。昔、この無邪気さのせいで、取り返しのつかない過ちを犯したというのに、またやってしまったよ。そりゃぁ、あんたの主人が手を叩いて笑うわけだ。アハハハ。…………残念だが、任務はこれで失敗だ」


 囚人の不気味な独言どくげんを聞かされるのは、もうたくさんである。そう思った牢番のひとりが、「おい。いい加減にしろ」と怒声をあげかけた。しかし、


 ――そこまで後悔なさっているのなら、助けてさしあげましょうか?


 という声が、燭台しょくだい火影ほかげが小さく揺らめくだけの仄暗い空間に響いたため、ドキリとした牢番は、のどから出かけた言葉を呑み込んだ。


 独特の雰囲気のある胡母班のかすれ声とは違う。やや甲高いが、感情や温もりというものが感じられない、年若い男の声だった。その声は、胡母班が凝視みつめている壁のあたりから聞こえたような気がした。


 胡母班はハハッと笑い、「助けるだと? あんたは、俺を迎えに来たのだろう?」と壁に語りかける。


「俺はいつ死ぬ? 今すぐか? それとも今夜か?」


 予定では明日の昼ですね、と壁は答えた。しかし、貴方は我が主人とは顔馴染み。多少の融通は利きます――とも。


「融通が利く、とはいかなる意味だ。あんたが手に持っているその禍々まがまがしい帳簿から、俺の名を消してくれるのか」


 胡母班は笑みを消し、鬼気迫る表情で問うた。


 すると、彼にだけ見えるその対話者が、牢番たちには聞きとれぬ忍び声で、何事かを告げたらしい。何日も食事を与えられておらず土気色つちけいろをしていた胡母班の顔が、にわかに生気を取り戻して、


「ぐふっ……ぐふふふ……。アハハハハハハハ!」


 と、腹を抱えて笑い始めた。


 狭い牢獄内に狂ったような哄笑こうしょうが響き、牢番たちは「ひ、ひえっ……!」とおびえた声をあげる。恐怖に耐え切れなくなったふたりは、捕虜の豹変を主人にしらせるべく、地下の牢獄から逃げ出した。




「や……やっぱり、噂は本当だった!」


 牢番のひとりが、息切らせて走りながら叫ぶ。


 相棒は「う、噂とは何のことじゃ!」とわめいた。


「そうか。お前はここの生まれではないから知らぬか。泰山たいざんぐんでは有名な話だ。あの囚人……いや、胡母班は『八廚はっちゅう』と世間では称賛されている義人ぎじんだが、地元の俺らは『冥府めいふ帰りの胡母班』と呼んでおったのじゃ」


「冥府帰り……? 何じゃ、それは」


「言葉のままよ! あの男は冥界を訪問したことがあるんじゃ! 冥府の神と友人だという噂もある! 奴が対話していたのは、きっと冥府からの使者じゃ! こ、殺されるぞ……。あんな恐ろしい奴をうちの主人が捕縛したせいで、我らまで呪い殺させるやも知れん!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る